2友人
主人は働きながら、原稿に文字を書いた。日曜日には、全ての時間を小説に継ぎ足した。
「あら、威勢の良いこと。」
「ありがとう。」
女中から差し出された茶を一口飲む。喉が温かくなった。
「どんなものを書いてらっしゃって。」
「秘密。」
主人は口を上げて、なんとも言えない顔をしている。
「まあ、完成してくれたら読ませてくださいまし。」
女中が部屋を出た後も、主人は口上げ、原稿をまじまじと見ていた。
「おお、お前、小説を書くようになったんだってね。」
声がする方へ向いてみると、友が立っていた。鼻と手の先が赤くなっている。随分外は寒かろう。
友は火鉢に手をかざしながら、「執筆中かい。」と聞いた。
「執筆というか、恥ずかしいな。そう言われると。俺はただ書いているだけだ。それにしても、誰から聞いた。」
友は後ろを向きながら「ああ。」とだけ答える。たぶん、女中であろう。
「なあ、お前にいい知らせがある。」
「なんだ。」
「原田の娘がな、結婚の申し出を待っているそうだ。お前、どうだ。細君はまた早めに作っておいた方だ良いぞ。」
「やめておく。」
「まだあの細君を悔やんでいるのか。」
「いいや、今は一人でいい。」
「そうか。」
「俺の弟がそのうち後継を貰うさ。」
「人任せだな。」
友はうすら笑いながら、主人の方へ近付いてあぐらをかいた。
「どれ、どんなのが書けた。明るいのは書けているか。」
「まだ途中。」
「そうか。」
友は袂の中にある煙草を取り出して、火鉢の火で点けた。それから、ふうっと煙を出してから、
「僕も小説を書いてみようかな。」
「書くのか。」
「うん、前から興味があった。」
「では共に書こうではないか。」
「うん、僕たちなら書けるさ。」
「それに、小説の応募がなされていたぞ。締め切りも今からなら、申し分ない。お前、一緒にしないか。」
主人は目を逸らしながら、子供のように頷いた。
「する。」
それから主人は飯も食わずに自分の世界へと没頭した。気が緩むと、他の短編も同時進行に書いた。短編の題は『屑』である。
短編、応募作、短編、応募作と繰り返していくうちに等々当日になってしまった。
応募作を封筒に入れて、提出すると肩の力が抜けて、やっと人間らしくなった気がした。
公園で一休みしていた時分、下駄を履いた友が背伸びをした。
「お前の作品、僕はすきだよ。最後がな、よかった。」
「ありがとう。」
「楽しくて、明るくて、」
と、友は首を揺らしながら話す。
「通るといいな。共に。」
「うん。」
主人と友はあつい握手をした。
友と別れた道で主人は少し走った。周りに誰もいない。誰も大人を怒る者もいない。一寸だけ外で素をだせたのだ。数米走ってその後は歩いた。走った後を悟られないように、鼻で呼吸を整えてながら歩いた。主人の癖は一向に直らない。
家に帰ってからというもの、そわそわして緊張で茶も喉を通らない。乾燥した金木犀が地面に転がっているのも、今は気にならなかった。他人に自分の世界を見せるのが怖かったのだ。
気を紛らわせるために、小説を読んでみた。
「いかんいかん、一旦、離れよう。大丈夫だ。否定なんか、されないさ。俺の世界は美しく、人を魅了するんだから。大丈夫、大丈夫さ。」
完成した短編が視界に入る。そして、いつの間にか、それを手に取っていた。
「本当の小説。」
「おい、おい、僕、通った。僕は通ったのだ。」
主人の書斎のど真ん中で友は紙を見せびらかした。息が荒く、興奮している。
「良かったな。」
「僕の小説が通ったよ。印税や売上が振り込まれる。そうしたら、僕の生活は少し楽になるかもしれない。」
「その前に、人々に自分の世界を見せられて良かったじゃないか。」
「ああ、そうだった。」
友がまた、わあいわあいと嬉しがる度に、女中は気まずそうに目を背けた。主人の表情を察したのか、答えが想像つく問いをした。
「お前は通ったのか。」
主人は少しの沈黙の後、「いいや。」と答えた。
「そうなのか。」
ぱちぱちと火鉢が鳴る。
「……そういえば、他の小説もありませんでしたか。それは応募なさらないの。」
沈黙を遮ったのは、女中である。この時も目を逸らしたままであった。
「短編か。」
「ええ。」
「あの小説はいい。読まないでくれ。」
益々不味くなった空気は三人を飲み尽くした。
数週間後、友から同人誌を作らないかと誘われたので、また新しく作った小説を書いて載せた。
また仕合せになるような明るい小説を書いた。誰に見せても安心できる小説。
このような言葉が出てくる。
「少年よ。風を切って、走り抜けろ!」
その同人誌は幾分か売れた。嬉しい心持ちでいた。主人は仕合わせでいた。
友と居酒屋で呑んでいると突然、言葉を打ち明かされた。
「お前は本当に小説を書いているのか。小説というものが、分かっているのか。」
主人は内心焦った。本当に小説を書いていないことが見透かされたのだ。あの短編を見せようかとも思った。俺はお前よりも小説を愛していると非道なことも考えた。
「分かっているよ。」
「なら、ならば、お前の小説は足りないのだ。僕は噓を吐いた。すまない。僕は物足りなさを感じている。お前は一定の心臓なのだ。何も驚かず、愛さず、病にも侵されず。僕はお前の作品を読んでみたい。」
主人は友の前でさえ、本当を見せれなかった。過去に傷ついたからである。
「俺は俺の小説を書いたのなら、小説を書くのをやめる。」
「どうして。」
「怖いのだ。二六時中、恐怖が俺を襲うのだ。俺の内心を知った者が日本中にいると思ったら、俺は怖くてたまらない。俺は小説を書いたら、やめるよ。」
「生涯通してか。」
「ああ。」
「それならば、もう、お前と一所に書けないのか。」
「友でいることには変わりはない。」
「そうだな。」
それから、主人は小説を書いた。机に向かってずっとずっと小説を書いていた。女中は黙ってその姿を眺めては、そっと隣に茶を置いていき、友は決して宅には来なかった。
そして、これは、男が書く小説である。




