1主人
この家の主人はいつも本を買っては読み、読んでは買っていた。
「本は力さ。物理で圧抑はよくない。本は人生さ。」
これが主人の口癖である。
主人は銀行で働いていて、金には困らない身分であった。家も申し分ない一軒家で、そこに一人、女中が住んでいる。細君はいない。しかし、主人は満更でもない顔で暮らしている。
「また買ってきたのです。もう部屋に置けませんことよ。」
「いや、何を言っている。まだまだいける。」
女中と主人は仲が良い。
男は書斎(彼のみそう呼んでいる)へ向かった。無論、この部屋は汚い。足に本の山を当てながら、畳の部分を踏んでゆく。本棚にはぎっしりと本が並べてあった。
さっそく買って来た本を読む。
「ほほう。」
どうやら心にきた文章があったようだ。髭のない顎をしゃくりながら、一文字一文字、吟味している。主人はもう一頁めくった。この男はそれ以上のことを考えない。君はどうだ。
「俺も書いてみるか。」
筆を持つ真似をして、天に掲げる。二、三秒見てから男はへへっと鼻を啜ってさいど、物語に耽った。
外は雨が降っている。まるで、誰もいない教室のような空気だ。
「失礼します。」
主人はそちらに見向きもせず「おう。」と返事をした。どうやら、女中が来たようだ。
「また本を読んでらっしゃる。あら、また横文字。」
言いながら、湯気のおおい茶を差し出した。
「なんだ、だめなのか。」
「いいや、そんな勉強をしてらっしゃるのなら、何処かに発表なさってはいかが? 少しの足しにもなるでしょう。」
主人は口を上げて、感情を誤魔化している。
「賢い者は何も言わないのさ。」
「あら理屈ね。理屈は分からないわ。」
女中は、ふふとしとやかに笑った。男は本を読んだままである。
「主人さん。」
「なんだ。」
「主人さんは新しい奥さんを貰わないの。」
男はまた唇を上げている。
「さあな。」
「そうですか。」
「お前、寂しいのか。昼は家に一人だから。」
「あら、優しい。そうですね。ほんの少し。けれども主人さんが帰ってくると思うと、なんともないわ。」
「そうか。」
主人は息抜きに別の本を手に取る。そして、本の分厚さを女中に見せびらかして、こう言った。
「なあ、人の人生にしては短くないか。」
こんどは主人が天井に向かって、本を仰いでいた。
「分かりません。人は寿命があるもの。短い人も、長い人もいますわ。」
「そうだな。俺は短い人間かな。胃痛持ちで、心臓が悪いから、俺の小説は短編かな。」
「あら、いやだ。いつか良くなりますことよ。」
「そうか。」
翌日、友が家へ遊びに来た。主人に会いたいから来たと。この友は小説を読まない男である。しかし、主人に会うたびに小説の話をするので、笑って聞いていた。
また主人は、同じ問いをした。
「小説は人の人生を書くには短すぎないか。」
「また小説の話かい。僕は小説の話、分からないよ。」
「なんでもいいから、聞かせてよ。君の意見を。」
「あれだろ、僕は一冊や二冊しか読んだことがないが、小説は人生のほんの一部しか書かれていない。ほんの一部さ。全部書かれると、僕らが恥ずかしくなるからな。はは。」
「そうかもな。」
主人はまた異なる意見が聞けて、満足そうである。
「俺、小説を書いてみようかと思うんだ。はは。」
「どんな。」
「ぱあーっと明るくなるような小説だ。なんて、冗談さ。」
また例の口上げをしては、「は、は、は、」と主人は笑う。
「書いてみたらいいのに。」
会話はそれだけで終わって、友は帰って行った。主人は恥ずかしそうに、口を上げた。
御飯時、もぐもぐと飯を食うておると女中がこんな話をした。
「主人さんの部屋は、なぜあんなに汚いんです。」
「俺はね、本当は綺麗好きだったんだよ。」
「噓よ、噓。」
と、女中は笑う。主人は続けて話した。
「けれどもね、むかし、俺の部屋を親が勝手に漁るから、秘密のものを見られるかもしれないと俺は不安になって、片付けることをやめた。今はその名残りさ。」
「主人さんは、部屋を漁られるの嫌なの。」
「いいや、もう、親はいないからね。」
主人は疲れた目をしていた。女中はまた違う話題をした。主人みずからは話さない。話しても、極稀で、一言二言で終わってしまう。
「いつ万年筆と原稿をお買いになったの。ずいぶんお高いの。」
「見たのか。」
「ええ、うっかり。」
主人は冷淡に「そう。」だけ言って、ご飯をかきこんだ。
夜。布団の中で想像するのが主人の日課である。
今日はどんな物語を見ようか。そうだ、こんなのはどうだ。君にも少し、見せてあげよう。
一人の男と女が居る。何も話さずに電車に揺られている。売り子も無視して、ただ、無言を貫いていた。
すると、男が口開いた。
「僕たち、似合わないかもな。」
女は一言。
「ええ。」
「それでは、僕はもういくから達者でな。」
男は、電車を出て行った。女は男の後ろ姿も見ずに、一筋の涙を流した。
主人は眠たくなって、ここで物語は終わった。これを毎晩繰り返すので、今まで作った話は何千といくだろう。
翌日、仕事帰りに主人は本屋さんへ寄った。様々な背表紙を見ながら、気になる本のはしがきだけ見て、時には途中から読んで、気に入ったら次々と脇の中に入れていく。それを店の店主に見られないように、隠れて読んでいた。
すると、大きな見出しの小説が売られているのが目に入る。これは新聞の広告にも載られていた小説である。若手の小説家が売れているのだ。主人はそれを、ちらっと見ただけで、本を買ってその場を後にした。
その後、街をぶらぶら歩き廻っていると画家が風景を描いていた。
「ほう、これはなかなか……」
と心の中でそう主人は思った。しかし、主人以外、誰も画家に見向きもしなかった。皆、素通りしている。それでも画家は筆を走らせ、独自の世界を築いている。主人は羨ましく姿を眺めた。
家に帰って、銭湯へ行って、食事もして、歯も磨いた深い宵の頃、主人と女中は縁側にて休んでいた。
「もう、中へお入りになったらどう? お寒いでしょう。」
「ううん、いいよ。これがいいんだ。」
ちょうど庭の椿が咲いていた。暗闇の中、雪洞のように灯している。主人はつぼみが美しいなと心中思って、女中の方へ顔を向けると主人を眺めていた。
「おい、冴木。椿が奇麗だな。」
「ええ。」
「今日の帰りにな、画家が川の画を描いていた。女も描いていて、そりゃあもう美しく繊細で……」
「わたしはどうです。」
「お前は……なんとも思ったことはない。」
「あら、いあやだ。失礼ね。」
空から雪が降って来た。
「雪だ。雪。」
「あら、ほんと。」
「あゝ、雪よ。雪はあたたかいものを嫌うのか。それならば、罪人は雪を触ることを許されるのか。あゝ、誘え、誘え。雪よ、雪よ、僕を罪人にしろ。」
「それは、なに。」
「ただ単に俺が作っただけさ。」
「そうなの。わたし、それ、好き。好きだわ。」
女中はふふふと笑う。
「どうってことない文章さ。」
「わたしは好きよ? 主人さんは好きではなくって?」
「……俺も好きだ。気に入っている。」
照れ隠しに口を上げ、女中は「ね。」とまた笑った。
主人はそれを凝視し、「俺は……僕はね、」と続けて雪の方を見上げ、胸の内を明かした。
「僕は小説が書きたい。本当は小説家になりたいんだ。」




