理由のない静けさ
夜明け前。
灰棚の町は、まだ眠っているはずの時間だった。
だが、ロウは目を覚ました。
理由はない。
悪夢を見たわけでも、音がしたわけでもない。
ただ――
静かすぎた。
「……おかしいな」
呟いて、身体を起こす。
外はまだ薄暗い。
風はあるが、あの“擦れるような気配”がない。
倉庫の前。
いつもなら、何かが落ちる音、引きずる音がする。
今朝は、何もない。
ロウは、眉をひそめた。
「……静かだ」
不安ではない。
むしろ、落ち着きすぎている。
通りを歩く。
倉庫の前に積まれた箱は、昨日と同じ場所にある。
散らかっている。
片付いていない。
それでも――
「……減ってる?」
数は変わっていないはずだ。
だが、“重さ”が違う。
触れていないのに、
町が軽い。
家の戸が一つ、開く。
「ロウさん?」
若い女が顔を出す。
「おはよう」
ロウは言った。
「……眠れました?」
女は少し驚いたように聞く。
「久しぶりに」
ロウは正直に答えた。
女は一瞬、言葉に詰まったあと、小さく笑った。
「……私もです」
「理由は分からないけど」
二人とも、それ以上は言わなかった。
理由を探す必要がない気がしたからだ。
広場へ行く。
掲示板は、相変わらず古い紙で埋まっている。
《人手募集》
《修理依頼》
《護衛求む》
どれも期限切れ。
それでも、
今朝は“圧”がない。
「……決めてないのに」
ロウは、無意識に呟いた。
誰も、何も決めていない。
町は、昨日のままだ。
なのに。
「……変わったな」
倉庫の影で、猫が丸くなって寝ている。
以前は、ここには寄りつかなかった。
ロウは、そこで初めて気づいた。
何かが“いなくなった”のではない。
何かが“待てる状態”になった。
「……掃除屋」
昨日の男の顔が、ふと浮かぶ。
だが、ロウは首を振った。
「……関係ないか」
証拠はない。
説明もできない。
ただ、町が少し息をしている。
それだけだった。
ロウは、深く息を吸い、吐いた。
「……今日は、動けそうだ」
誰に言うでもなく、そう呟いて。
町は、まだ静かだった。
だがそれは、
止まっている静けさではなかった。
朝の広場に、人が集まり始めていた。
と言っても、賑わいとは程遠い。
数人が、それぞれ別の理由で立ち止まっているだけだ。
誰かと話すでもなく、
何かを待つでもなく。
ただ、そこにいる。
ロウは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
「……不思議だな」
以前なら、この時間帯は誰も広場に来なかった。
用事がないからだ。
だが今日は違う。
理由は分からないが、
「ここに来てもいい」
そんな空気があった。
広場の隅。
古い木箱が一つ、ぽつんと置かれている。
誰のものか分からない。
中身も、はっきりしない。
以前なら、
・誰かのだろう
・後で整理される
・触らない方がいい
そうやって、無視される箱だった。
だが。
「……これ、何だっけ」
若い男が、箱の前で立ち止まった。
昨日、工具を取り戻した男だ。
箱を見て、首を傾げる。
「確か……前に、壊れた部品を入れた気が」
箱を開ける。
中に入っていたのは、
欠けた歯車、歪んだ留め具、割れた金具。
どれも使えない。
価値はない。
……はずだった。
男は、しゃがみ込んで一つ手に取った。
「……あ」
歯車の裏に、刻印がある。
古い、だが確かな印。
「これ……昔の規格だ」
声が、少しだけ震えた。
「もう作られてない……」
周囲の人間が、気づいて近づいてくる。
「何だ?」
「それ、直せるのか?」
男は、歯車を握ったまま言った。
「直せるかは分からない」
「でも……捨てるもんじゃなかった」
沈黙が落ちる。
誰も反論しない。
それは、“価値がある”からではない。
今、価値として見たからだ。
ロウは、その光景を見ていた。
「……誰も見てなかっただけか」
箱は、ずっとそこにあった。
昨日も、一昨日も。
だが、
“見る余裕”がなかった。
判断を先送りにすることで、
価値も一緒に棚に上げていた。
「……掃除ってのは」
ロウは、小さく笑った。
「捨てることじゃないんだな」
そのとき、ロウは気づいた。
残留器の気配が、
今朝から一度も感じられない。
消えたわけではない。
だが、寄ってこない。
“未決定の澱”が、薄くなっている。
広場では、別の動きも起きていた。
古い掲示板の前で、
年配の女が紙を剥がしている。
《修理依頼》
期限切れの札。
「……もう、いらないわね」
そう言って、紙を畳む。
「直したから?」
「ええ」
女は頷く。
「昨日の夜、息子と決めたの」
“決めた”。
その言葉が、自然に使われた。
誰も拍手しない。
誰も称えない。
それでいい。
ロウは、静かに思った。
――この町は、まだ何も解決していない。
――人も戻っていない。
――道も変わっていない。
それでも。
「……価値は、ずっとここにあった」
誰も見ていなかっただけで。
そして、
誰かが“見られる状態”にした。
ロウは、ふと遠くを見る。
あの掃除屋の姿は、どこにもない。
だが、
痕跡だけが残っている。
触られすぎない変化。
奪われない判断。
「……厄介だな」
ロウは呟いた。
「やり方が」
だが、その顔は笑っていた。
町は、まだ静かだ。
けれどそれは、
価値が埋もれる静けさではなかった。
誰も見ていなかったものが、
少しずつ、視界に入ってきている。
それだけで、
今日は十分だった。
町の外れ。
使われなくなった小道の先で、
ユウキは一人、腰を下ろしていた。
戦闘もない。
依頼もない。
誰かに話しかけられることもない。
ただ、町を“背中に置いた位置”。
「……静かだな」
ガルドが隣に立ち、そう言った。
「悪い意味じゃない」
ユウキは答える。
「動いてない音が、減ってきた」
「音?」
レオルが首を傾げる。
「残留器の気配」
ミーナが代わりに説明する。
「“未処理の判断”が出すノイズです」
ガルドは眉をひそめた。
「そんなもん、普通は分からんだろ」
「分からなくていい」
ユウキは言う。
「分からないままでも、町は回ってきた」
少し間があって、ユウキは続けた。
「でも今回は、回らなくなった」
「だから、音が聞こえるようになっただけだ」
ミーナは、町の方角を見る。
「……今、掃除をすれば」
「完全に消せます」
「しない」
ユウキは即答した。
「ここから先は、俺の仕事じゃない」
レオルが苦笑する。
「相変わらずだな」
「せっかく成果出てるのに」
「成果じゃない」
ユウキは言う。
「“始まり”だ」
ガルドが腕を組む。
「じゃあ、俺たちは何をしてる?」
「見てる」
ユウキは答えた。
「壊れないかどうか」
その言葉に、ミーナが少し目を細める。
「……介入しない観測」
「そう」
「触ると、また止まる」
ユウキは立ち上がり、町の方を見る。
倉庫の前で、人が話している。
掲示板の前で、紙を剥がす音。
誰かが、箱を開け、閉じる音。
どれも小さい。
だが、確かに“判断の音”だった。
「なあ」
レオルが言う。
「もし、また止まったら?」
ユウキは少し考えてから答えた。
「その時は、もう一回だけ聞く」
「どうして決めなかったかを」
「二回目は?」
ガルドが聞く。
「……二回目は」
ユウキは肩をすくめる。
「掃除屋の出番じゃない」
沈黙。
それは冷たくも、突き放したものでもない。
「責任を持たせないため、か」
ミーナが静かに言う。
「そう」
「決めたのは、あいつらだ」
風が吹く。
町から、かすかな金属音が届いた。
叩く音。
合わせる音。
直す音。
ガルドが、少し驚いた顔をする。
「……もう始めてるぞ」
「だから言っただろ」
ユウキは言う。
「掃除は、終わってる」
レオルが笑った。
「相変わらず、報酬のない仕事だ」
「ある」
ユウキは答える。
「“戻ってこなくていい場所”が増えた」
ミーナが、ほんの少し微笑む。
「それは、良い報酬ですね」
ユウキは、町に背を向けた。
「一晩したら、出る」
「ここは、もう俺たちの場所じゃない」
誰も反対しなかった。
町は、静かに動き始めている。
誰も見ていなかった価値を、
今は、町自身が見ている。
掃除屋は、
もう必要ない。




