地図の外
それに気づいたのは、偶然だった。
宿の一室。
机いっぱいに地図を広げ、ミーナが無言で整理をしていたときだ。
「……ここ」
指先が、一点で止まる。
「何だ?」
ガルドが覗き込む。
「地図の空白です」
ミーナは淡々と言った。
「空白?」
レオルが眉をひそめる。
「未踏ってことですか?」
「違います」
ミーナは首を振る。
「“記録が消えている”」
ユウキが、少し身を乗り出した。
「消えてる?」
「はい」
ミーナは別の地図を重ねる。
年代の違うものだ。
「古い地図には、道があります」
「交易路の分岐点」
「ですが、新しい地図ほど、線が薄くなり……」
最後の一枚には、何もない。
ただの余白。
「……意図的だな」
ガルドが言う。
「立ち入り禁止でもない」
レオルが続ける。
「危険指定もない」
「でも、誰も通らない」
ユウキは静かに言った。
部屋に、短い沈黙が落ちる。
「聞いてみますか」
ミーナが言った。
町の古い酒場。
昼間から開いているが、客はまばらだ。
「この辺りで、“昔の道”を知ってる人は?」
ユウキの問いに、店主の男は少し考えた。
「ああ……」
「境界原の向こうだろ」
「今は使われてない?」
レオルが聞く。
「使われてない、っていうか」
男は言葉を濁す。
「理由なく、避けてる」
「危険?」
ガルドが聞く。
「いや」
男は首を振る。
「死人は出てない」
「じゃあ、何がある?」
ユウキが聞いた。
男は、少し困ったように笑った。
「……何も、ないんだよ」
それは、奇妙な答えだった。
「何もない?」
ミーナが復唱する。
「モンスターも、罠も、遺跡も」
「あるにはある」
「でもな」
男は、カウンターを拭く手を止める。
「あそこ行くとさ」
「何しに行ったか、分からなくなる」
空気が、少し冷えた。
「忘れる?」
レオルが聞く。
「完全じゃない」
男は言う。
「帰ってくる」
「飯も食う」
「仕事もする」
「でも?」
ユウキが促す。
「“目的”だけが、抜け落ちる」
ガルドが、低く唸る。
「……厄介だな」
「誰か調べなかったの?」
ミーナが聞く。
「昔はな」
男は頷く。
「役所も、商会も」
「結果は?」
ユウキが聞いた。
男は肩をすくめた。
「報告書が残ってない」
その言葉で、十分だった。
宿へ戻る道すがら、
ユウキは境界原の方角を見た。
「行くか」
ぽつりと、言う。
「依頼は?」
ガルドが聞く。
「ない」
ユウキは即答した。
「許可は?」
レオルが続ける。
「いらない」
ミーナが、一瞬だけ考えてから言う。
「……記録上は」
「“誰も行っていない”場所です」
「なら」
ユウキは頷く。
「俺たちが行っても、問題ない」
ガルドが笑った。
「理屈としては、最低だな」
「掃除屋の理屈だ」
ユウキは返す。
「放置されてるなら、確認する」
翌朝。
境界原を越えると、空気が変わった。
重くはない。
冷たくもない。
ただ、薄い。
音が、遠い。
足音はするのに、
自分が歩いている実感が少ない。
「……変な感じだ」
レオルが言う。
「判断が引き伸ばされてる」
ミーナが分析する。
「魔力干渉ではありません」
ガルドが地面を蹴る。
「道は、あるな」
「でも……」
「“行っていい理由”が無い」
ユウキが言った。
目の前には、なだらかな地形。
森でもなく、荒野でもない。
ただの、通過点。
地図にも、記録にも、
載らなかった場所。
「ここだ」
ユウキは立ち止まった。
「地図の外」
誰にも頼まれていない。
誰にも期待されていない。
それでも――
冒険は、始まった。
最初に異変を口にしたのは、レオルだった。
「……なあ」
歩きながら、足を止める。
「俺たち、どっちから来た?」
一瞬、空気が止まる。
「後ろだろ」
ガルドが即答する。
「だよな」
レオルは頷く。
「じゃあ、なんで俺――」
言いかけて、言葉を切った。
「……いや、いい」
「よくない顔してるわね」
ミーナが言う。
「道の感覚が、曖昧です」
彼女は冷静だったが、注意深く周囲を見ている。
景色は変わらない。
起伏も、草の高さも、空の色も。
だが――
進んでいる実感だけが、薄い。
「止まってはいない」
ユウキが言う。
「でも、進んだ“証拠”が残らない」
ガルドが振り返る。
「……足跡、消えてるな」
確かに、土は踏み固められているはずなのに、
一歩前に出るたび、後ろが“元に戻る”。
「これ」
レオルが苦笑する。
「冒険者泣かせだな」
「目的を持たないと、弾かれる」
ミーナが呟く。
「弾かれる?」
ガルドが聞く。
「正確には」
ミーナは言い直す。
「“保持されない”」
ユウキは、腰のポーチに手をやった。
「……ああ、なるほど」
「何か分かった?」
レオルが聞く。
「ここ」
ユウキは地面を見下ろす。
「ゴミ拾いスキルが反応しない」
「それ、逆にヤバくないか?」
ガルドが言う。
「いや」
ユウキは首を振る。
「ゴミが無いんじゃない」
少し間を置いて、続ける。
「捨てられてない」
全員が、少しだけ考える。
「誰も、“不要だ”と決めてない」
ミーナが理解したように言う。
「だから、回収対象にならない」
「つまり」
レオルがまとめる。
「ここは、決断が置き去りにされた場所?」
「近い」
ユウキは頷いた。
「でも正確には――」
彼は、前を見た。
「決断が通過した場所だ」
その時。
「……音、聞こえたか?」
ガルドが低く言う。
カラン、と。
金属が触れ合うような、軽い音。
だが、姿は見えない。
「モンスター?」
レオルが剣に手をかける。
「違う」
ユウキが制す。
「戦う相手じゃない」
ミーナが、目を細める。
「残像……いえ」
「行動の“名残”です」
「名残?」
ガルドが眉をひそめる。
「誰かが」
ミーナはゆっくり言う。
「ここを通った」
「でも、目的を持ちきれなかった」
音が、もう一度鳴る。
今度は、少し近い。
「見えるか?」
レオルが聞く。
「見えない」
ユウキは即答した。
「でも――」
彼は、しゃがみ込む。
「“拾える”」
ユウキは、そっと手を伸ばした。
何もない空間を掴む。
その瞬間。
パリン、と
ガラスが割れるような感覚が走った。
「っ……!」
手のひらに、何かが残る。
それは――
欠けた金属製の小さなタグ。
文字は、ほとんど擦り切れている。
「これ、何だ?」
ガルドが覗く。
「……通行証」
ミーナが答えた。
「昔の交易路用です」
「つまり」
レオルが言う。
「“ここを通る理由”だったもの?」
「そう」
ユウキは頷く。
「そして、捨てられた」
タグが、手の中で静かに崩れ、砂になる。
同時に。
風が、少しだけ流れた。
「……軽くなった?」
ガルドが言う。
「一部だけ」
ミーナが分析する。
「でも確実に、変化しました」
ユウキは立ち上がる。
「分かったぞ」
「ここはな」
一行を見回して、言った。
「何かを始める場所じゃない」
「でも」
少しだけ、笑う。
「始めなかった理由が、残る場所だ」
レオルが、肩をすくめる。
「やっぱり、面倒な場所だな」
「だから冒険になる」
ユウキは言った。
前方に、わずかな地形の変化が見える。
ほんの少し、道が“確定”し始めている。
誰も見ていなかった価値が、
静かに、形を取り始めていた。
道は、いつの間にか一本に定まっていた。
さっきまで曖昧だった地面は、
踏めば確かな感触を返す。
「……戻れなくなったな」
ガルドが呟く。
「戻れるわよ」
ミーナが言う。
「ただし、“戻る理由”を用意できれば」
「用意できなかったら?」
レオルが聞く。
「戻れません」
即答だった。
「潔いな」
ガルドが苦笑する。
ユウキは歩きながら、周囲を観察していた。
地形は単調だが、
ところどころに“痕”がある。
折れた杭。
埋もれた標識。
意味を失った石積み。
「……全部、役割付きだった物だな」
ユウキが言う。
「役割?」
レオルが首を傾げる。
「見張り」
「区切り」
「誘導」
ユウキは指で示す。
「でも、今は全部“やる相手がいない”」
ミーナが頷く。
「役割は、使われないと存在を維持できません」
「残るのは、形だけ」
その時。
前方の空気が、わずかに歪んだ。
「来る」
ガルドが身構える。
だが――
現れたのは、敵意のない影だった。
人型。
だが、輪郭が不明瞭。
鎧のようなものを着ているが、
中身が“空”に見える。
「……人?」
レオルが低く言う。
「違う」
ミーナが否定する。
「これは――」
影が、一歩前に出る。
動きはぎこちない。
だが、明確に“職務的”だった。
「――通行確認」
声は、擦れた音。
感情がない。
「通行目的を申告せよ」
ガルドが目を見張る。
「しゃ、喋った……」
ユウキは一歩前に出る。
「目的?」
「探索だ」
影は、沈黙する。
数秒。
いや、十数秒。
「……該当なし」
影が答えた。
「交易、軍事、巡察、救援」
「いずれにも該当しない」
「そりゃそうだ」
レオルがぼそっと言う。
影は、首を傾げるような動きをした。
「目的未登録」
「通行不可」
ガルドが剣に手をかける。
「どく気はなさそうだが……」
「待て」
ユウキが止める。
ユウキは、影をじっと見た。
「お前」
「何者だ?」
影は、即答した。
「――関所管理役」
「第七副路担当」
ミーナが、小さく息を呑む。
「副路……」
「今は存在しないはず」
「役割だけ残った」
ユウキが言う。
「捨てられなかったんだな」
影は、反応しない。
「通行目的を申告せよ」
同じ言葉を繰り返す。
ユウキは、少し考えたあと、
腰のポーチに手を入れた。
「……使うか」
彼が取り出したのは、
一見するとただの木札。
だが、
縁が妙にすり減っている。
――《仮目的登録札》。
かつて、
役割を失いかけた仕事を
“一時的に成立させる”ための道具。
「それ、また懐かしい物を……」
ミーナが言う。
「応急処置だ」
ユウキは答える。
札を掲げる。
「通行目的」
「――確認」
影の視線が、札に向く。
「……仮登録、検知」
影の輪郭が、わずかに安定した。
「目的内容」
「“探索”」
「暫定通行、許可」
道が、
ほんの少しだけ、広がった。
「通れた……」
ガルドが驚く。
「戦ってないのに」
レオルが言う。
「戦う相手じゃない」
ユウキは言った。
「“仕事”だ」
影は、一歩下がる。
だが、消えない。
「……質問」
影が言う。
「何だ?」
ユウキが答える。
「目的終了後」
「我が役割は?」
ユウキは、即答しなかった。
しばらく考えてから、言う。
「決まってない」
「でも――」
影を見る。
「お前が決めていい」
影は、初めて沈黙した。
長い、沈黙。
「……判断権限」
「未保持」
「じゃあ」
ユウキは肩をすくめる。
「持てばいい」
「……?」
「ここを離れるか」
「それとも、別の役割を探すか」
「決めるのは、お前だ」
影の輪郭が、微かに揺れた。
「判断……」
その声は、
ほんの少しだけ、人間に近かった。
ユウキは背を向ける。
「答えは、今じゃなくていい」
「俺たちは先に行く」
一行が歩き出すと、
背後で、かすかな音がした。
――カチリ。
何かが、
“切り替わった”音だった。
ミーナが振り返り、呟く。
「……今の」
「価値、あったと思いますか?」
ユウキは、少し考えてから答えた。
「誰も見てなかった」
「だからこそ、だ」
道は、さらに奥へ続いている。
そこには、
まだ拾われていない役割が、
きっと残っている。




