雪原で拾う前の話
王都北方の清掃依頼は、いつもより地味だった。
内容は単純で、冬季に使われなくなった旧交易路の点検と、沿道の放置物の回収。春になれば再び人が通る道だが、雪が降る前に一度整理しておく必要があるらしい。
「……完全に裏方の仕事だな」
ユウキは地図を見ながら呟いた。
「でも、こういうのが一番あとで効いてくるのよ」
同行しているミーナが淡々と返す。
旧交易路は、王都から北へ延びる細い道だった。今はほとんど使われておらず、途中からは雪原地帯に飲み込まれている。予定では一日で折り返すはずだった。
――だが、天候が崩れた。
昼過ぎから雪が降り始め、風が強まる。視界は悪くなり、足元の感覚も鈍る。
「このまま進むのは危険だな」
ガルドの判断は早かった。
「近くに人の住んでいる場所は?」
ミーナが地図を確認する。
「……北に、小さな集落があります。雪原の民が暮らしている場所です」
選択肢はなかった。
ユウキたちは予定を変更し、集落を目指した。
夕方、白い大地の中に、低い建物群が見えた。雪を固めた壁と、風除けの柵。煙突から上がる煙が、ここに人が生きている証だった。
出迎えた雪国の民は、警戒よりも驚きの色を浮かべていた。
「この時期に、外から?」
「道の点検で。吹雪にやられました」
事情を話すと、彼らはすぐに中へ通してくれた。
暖かい室内。火の音。湯の匂い。
身体の芯から凍えていたユウキは、思わず息を吐いた。
「……助かりました」
「いいさ。雪原では、立ち止まったら終わりだからな」
そう言って笑ったのは、集落の男だった。年は若くも老いてもいない、働き盛りの顔。隣には、同じ外套を着た女性がいた。
その夜、ユウキたちは集落の人々と食事を共にした。特別なもてなしではないが、温かい料理だった。
話題は自然と、この土地の冬の厳しさへ移る。
「昔は、もっと人が行き来していたんだ」
男が言う。
「だが今は、道も埋もれてしまってな」
女性が静かに頷いた。
「それでも、この土地は好きよ。寒いけど……ちゃんと、歩いてきたから」
その言葉に、ユウキは少しだけ引っかかりを覚えた。
「歩いてきた?」
男は、少し照れたように笑う。
「昔な。雪原で、いろいろあってさ」
それ以上は語られなかった。無理に聞く話でもない。
夜が更け、外では風が唸っている。吹雪は明日まで続くらしい。
「今日はここで休んでいけ」
そう言われ、ユウキたちは厚意に甘えることにした。
寝床に入る直前、ユウキは外に出て、雪原を見渡した。
白一色の世界。音が吸われるように静かだ。
――この中で、何かを失くしたら。
ふと、そんな考えがよぎる。
その瞬間、腰元のゴミ拾いスキルが、ほんのわずかに揺れた。
はっきりとした反応ではない。ただ、「まだ触れるな」と言われているような感覚。
「……今じゃない、か」
ユウキはそう呟き、扉を閉めた。
この雪原には、まだ何かが眠っている。
だが、それを拾うのは――もう少し先の話だ。
翌朝、雪は止んでいなかった。
夜の間にさらに積もったらしく、集落の外は一面の白だった。建物の輪郭すら曖昧で、少し離れるだけで方向感覚を失いそうになる。
「……これは、思った以上だな」
ガルドが低く言う。
「視界不良。足元不安定。風も強い」
ミーナは淡々と状況を整理する。
「無理に遠出すべきではありません」
ユウキも同感だった。だが、その時、昨夜話していた男が声をかけてきた。
「もし……無理でなければ」
言葉を選びながら、男は続ける。
「雪原で、探してほしいものがある」
その隣で、女性が少しだけ視線を伏せた。
「急ぎじゃない。見つからなくても、責めない」
男はそう前置きした上で、静かに話し始めた。
昔、二人で雪原を越えたこと。吹雪の中で立ち止まりそうになったこと。どんなに寒くても、どんなに腹が減っても、一緒に歩こうと誓ったこと。その時に身につけていた、小さな指輪の話。
「……雪原のどこかに、落としたままだ」
女性が微かに笑う。
「もう無くても困らない。でも……」
「もし見つかるなら、と思ってな」
ユウキは二人の顔を見て、短く頷いた。
「分かった。探してみる」
探索は、集落から半刻ほど離れた雪原から始まった。
だが、現実は厳しかった。
雪は深く、足を踏み出すたびに体力を奪う。風が吹けば、視界は一瞬で真っ白になる。目印になるものは何一つなく、地形の起伏すら雪に埋もれている。
「……これ、探すってレベルじゃないな」
ガルドが吐き捨てる。
「痕跡が残らない。完全に上書きされています」
ミーナも首を振る。
ユウキは何度かゴミ拾いスキルに意識を向けたが、反応は鈍い。あるにはあるが、距離も方向も掴めない。まるで、雪原全体がノイズになっているようだった。
「……今日は無理だ」
しばらくして、ユウキが判断を下した。
「これ以上は危険だ。戻ろう」
誰も異論はなかった。
集落へ戻る途中、女性がぽつりと呟いた。
「やっぱり……難しいわよね」
責める響きはなかった。ただ、現実を受け入れている声だった。
「今日は、です」
ユウキはそう答えた。
「雪原は逃げません」
その言葉に、男が小さく笑った。
「変な人だな」
「よく言われます」
集落に戻る頃には、空は完全に灰色に染まっていた。雪は弱まる気配を見せず、夜にはさらに冷え込むという。
「今日は、もう休め」
そう言われ、ユウキたちは再び暖を取ることになった。
夕食のあと、皆が休む中、ユウキだけは眠れずにいた。
外は吹雪。常識的に考えれば、外に出る理由はない。
だが――。
腰元のゴミ拾いスキルが、今度ははっきりとざわついていた。
昼間より、強い。
方向は、集落の外。
距離は……まだ、遠い。
「……昼じゃ無理でも、夜ならか」
ユウキは静かに立ち上がった。
これは依頼だからじゃない。
義務でも、英雄気取りでもない。
ただ、昼間は雪に埋もれていた“何か”が、今なら見える気がした。
「少しだけ行ってくる」
誰にも告げず、外套を羽織る。
吹雪の夜へ、一人で踏み出す。
雪原は、昼よりも静かだった。音が吸われ、世界が止まったように感じる。その中で、ユウキだけが進んでいく。
「……まだ、だな」
ゴミ拾いスキルは導くが、答えは出さない。
それでも、確かに“近づいている”感覚があった。
――拾うべきものは、まだ雪の下だ。
そして、それを拾うには、もう少し踏み込む必要がある。
ユウキは、歩みを止めなかった。
吹雪の夜は、昼よりも静かだった。
音が消え、距離感が狂う。足音さえ、すぐに雪に吸われていく。ユウキは一定の歩幅を保ちながら、感覚だけを頼りに進んでいた。
視界はほとんど効かない。だが、腰元のゴミ拾いスキルだけは、はっきりとした方向を示している。
「……こっち、だな」
理由は分からない。ただ、“雪の下にある”という感触だけが伝わってくる。
しばらく進むと、違和感に気づいた。
寒さが、少しだけ緩んでいる。
ほんのわずかだが、空気が刺さらない。吹雪の中に、ぽっかりと穴が開いたような感覚。
ユウキは立ち止まり、足元を見る。
雪が薄い。
周囲は深く積もっているのに、その一角だけ、地面が露出していた。氷も張っていない。まるで、内側から温められているように。
「……やっぱり、ここか」
しゃがみ込み、雪を払う。
指先が、何か硬いものに触れた。
掘り進めると、小さな金属片が姿を現す。円を描く形状。炎を模した文様。
ユウキは、それをそっと持ち上げた。
指輪だった。
手に取った瞬間、はっきりと分かる。これは魔力の塊ではない。攻撃用でも、防御用でもない。ただ、持ち続けるための力だけを宿している。
微かな熱が、指先に伝わる。
「……誓い、か」
言葉にすると、しっくり来た。
吹雪の中で、これだけが雪に埋もれず、消えずに残っていた理由。誰かが、何度も握りしめ、手放さないと決めたからだ。
ユウキは指輪を懐にしまい、立ち上がった。
戻る道は、行きよりも楽だった。雪原が、もう敵じゃない。拾うべきものを拾った後は、そういうものだ。
集落に戻った頃には、夜は深まっていた。
誰にも気づかれず、ユウキは自分の寝床に戻る。指輪は、外套の内側で、静かに温もりを保っている。
翌朝。
雪は少しだけ弱まっていた。
「……戻ったんだな」
ガルドが、ユウキの顔を見て察する。
「顔が違う」
ユウキは何も言わず、集落の男と女性の前に立った。
「見つけた」
そう言って、指輪を差し出す。
二人は、一瞬言葉を失った。
女性が、そっと指輪を受け取る。指に通す前に、胸に抱いた。
「……ああ」
それだけで、十分だった。
男が深く頭を下げる。
「ありがとう。本当に……」
だが、女性は静かに首を振った。
「ねえ」
そう言って、指輪を見つめる。
「もう、これは大丈夫」
男が驚いた顔をする。
「私たち、もう寒くないでしょう?」
男は一瞬黙り、やがて苦笑した。
「……そうだな」
女性は、指輪をユウキに差し出した。
「あなたが持っていて」
ユウキが一瞬、言葉に詰まる。
「これは……」
「思い出は、もう私たちの中にある」
女性は穏やかに言った。
「でも、これは……拾った人のもの」
ユウキは、ゆっくりと受け取った。
重さはない。だが、確かに“預かった”感触があった。
「……分かりました」
それ以上、言葉は要らなかった。
数時間後、ユウキ一行は集落を後にした。
去り際、雪国の民が見送る中、男が言った。
「また来い。今度は、春にな」
「その時は、道をちゃんと掃除しておきます」
ユウキはそう返した。
王都へ戻った夜。
マルタとリィナの計らいで、久しぶりに湯船に浸かることになった。
「生き返るわね……」
湯気の中で、ガルドが溜息をつく。
ユウキは何も考えず、外套から指輪を外さずに湯へ入った。
――次の瞬間。
「……熱っ!?」
湯が、明らかに熱い。
「ちょ、ちょっとユウキ!?」
「何したの!?」
ユウキは慌てて湯から飛び出した。
「いや、何も……」
その時、指輪が淡く光っているのに気づく。
「……あ」
マルタが一拍置いて、吹き出した。
「なるほど。あったかい家庭、ね」
「湯船は家庭じゃない!」
「結果的に一番暖かいわよ?」
結局、ユウキは冷たい水で冷やされ、皆の笑い声だけが残った。
雪原で拾ったものは、
人を守り、
人を温め、
そして――使いどころを間違えると、のぼせる。
そんな、少しだけ厄介で、
とても大切なものだった。




