別の場所で起きたこと
翌朝、問題は再開発区画では起きなかった。
場所は王都の北側、交易倉庫が並ぶ一角。
人の出入りが多く、昼夜を問わず動き続ける場所だ。境界区画とは違い、管理も人目も行き届いている――はずだった。
「……おかしいな」
倉庫管理の男が首を傾げた。
荷の数は合っている。破損もない。盗難もない。
ただ、一点だけ。
「ここ、誰が使ってた?」
倉庫の奥、普段は使われていない区画。
そこに、誰かが一晩過ごした形跡があった。
毛布代わりの布。空になった水袋。粗末だが、整えられている。
「浮浪者か?」
「でも、柵は……」
柵はある。
境界区画と同じ、低い木製のものだ。
跨げば越えられる。だが、越えないことになっている。
管理局に連絡が入り、巡回が派遣された。
報告は淡々としている。
――不法侵入の形跡あり。
――被害なし。
――当人はすでに立ち去り。
「……境界の人たち、動き始めてますね」
会議室でその報告を聞いた職員が言った。
事実だった。
再開発区画に留まっていた者たちが、別の場所に現れ始めている。
「管理対象区域を指定した結果、流動化した可能性があります」
誰も否定しない。予測されていたことだ。
「問題行動ではありません」
「ですが、点在すると管理が難しくなります」
境界は固定されていたほうが、管理しやすい。
それが、制度の論理だ。
「……再開発区画の措置、見直すべきでは?」
若い職員が恐る恐る言った。
沈黙。
それから、議長が口を開く。
「今はまだ、“兆候”です」
「起きてからでは遅いから、始めたのです」
その言葉で、方向性は決まった。
――管理区域外への移動も、把握対象とする。
――巡回を増やす。
――早期発見、早期対応。
境界は、広がった。
同じ頃、ユウキは裏通りでその話を聞いていた。
倉庫で寝ていた人間がいたらしい、という噂。
誰だったのかは分からない。ただ、イオではないことだけは確かだった。
「……始まったな」
拾うものはなかった。
だが、拾えないものが増えている。
再開発区画に目を向ける。
イオは、いつもと同じ場所にいた。
動いていない。
それでも、世界の方が動き始めている。
境界は、人が越えなくても、広がっていく。
リィナが異変に気づいたのは、報告の並び順だった。
内容ではない。
件数でもない。
時系列の流れが、想定とずれていた。
再開発区画――異常なし。
北側倉庫――一件。
南側運河沿い――未確認の滞留報告。
東門付近――巡回要請。
「……散ってる」
小さく呟いた声が、資料室に落ちる。
境界の民は、留まるものだと想定されていた。
だから区域を区切った。
だから管理対象にした。
だが、実際に起きているのは逆だ。
動いている。
「リィナ?」
マルタが声をかけると、彼女は資料を差し出した。
「これ、見てください」
マルタは一目で理解した。
「固定されてない……」
「はい。むしろ、広がってます」
境界を定めれば、そこに収まる。
その前提が、崩れている。
「……逃げてるわけじゃない」
マルタが言う。
「ええ」
リィナは頷く。「“避けてる”んです」
管理区域を。
視線を。
線そのものを。
「これ、悪化します」
リィナの声は低かった。「今のままだと」
マルタは腕を組み、深く息を吐いた。
「管理局に、上げる?」
「上げます」
即答だった。「上げない方が、危険です」
書類をまとめながら、リィナの手が一瞬止まる。
ペン先が宙に浮く。
「……これ、イオさんは動いてません」
マルタは顔を上げた。
「分かるの?」
「位置報告が全部、同じなんです」
再開発区画。柵の内側。
「動いてないから、目立つ」
皮肉だった。
動かないことで、最も可視化されている。
「じゃあ、問題は誰?」
マルタが聞く。
リィナは、答えなかった。
正確には、答えられなかった。
問題は人ではない。
構造そのものだ。
「……線を引いたことで、線の外が増えました」
それは、制度としては失敗に近い。
だが、失敗と認めるには早すぎる。
「修正、必要ですね」
リィナは言った。「今のうちに」
「今のうち、ね……」
マルタは窓の外を見る。
街は今日も回っている。
だが、その回転の中で、摩擦音が混じり始めていた。
「ユウキには?」
マルタが聞く。
「……まだ」
リィナは首を振った。「今は、言えません」
言えば、彼は動く。
動けば、制度は硬化する。
「でも」
リィナは続けた。「このままだと、誰かが動かされます」
それが、何を意味するか。
二人とも、分かっていた。
机の上に置かれた報告書の束は、静かだった。
だがそこには、想定外という名の兆しが、確かに積み上がっていた。
管理局の小会議室は、広くはなかった。
正式な会議ではない。議事録も簡易的だ。
それでも集まった顔ぶれは、皆この件が“次の段階”に入ったことを理解していた。
「境界が拡散しています」
報告担当が簡潔に述べる。「再開発区画に留まらず、倉庫街、運河沿い、東門付近にも確認例あり」
「犯罪は?」
「ありません」
「被害は?」
「現時点ではゼロです」
それが、逆に厄介だった。
「問題が起きていない状態で、動く必要がある」
年配の職員が言う。「それが我々の役目です」
誰も反論しない。
問題は、どう動くかだった。
「区域指定を見直す案があります」
別の職員が資料を広げる。「再開発区画のみではなく、周辺を含めた“緩衝帯”を設定する」
「つまり、管理区域を広げる」
「はい。滞留を一箇所に集中させないためです」
一見、合理的だった。
だがそれは、線を消すのではなく、太くする案だ。
「移動の自由は?」
「制限は設けません。ただし、長時間の滞留は引き続き要請対象に」
言葉は柔らかい。
だが、網は確実に広がっている。
「対象者の把握が難しくなります」
若い職員が指摘する。
「だからこそ、早期接触が重要です」
議長役が答える。「対話の機会を増やす」
対話。
それは聞こえがいい。
だが、対話の前提には、記録と管理がある。
「登録を促す形は?」
「現状では任意です。ただ……」
言葉が途切れる。
「応じない場合?」
「次の手段を検討します」
次の手段。
誰もその中身を口にしなかった。
会議は短時間で終わった。
結論は出ない。
だが、方向性は固まった。
――線を太くする。
――動きを把握する。
――問題が起きる前に、起きない形にする。
誰も悪意を持っていない。
誰も誰かを排除しようとしていない。
それでも、選択肢は減っていく。
同じ頃、再開発区画では夕暮れが訪れていた。
イオは、いつもと同じ場所にいた。
動いていない。
それが、今や最も目立つ行動になっている。
ユウキは少し離れた場所から、その姿を見ていた。
越えない。
介入しない。
それでも、胸の奥で何かが擦れる。
「……線は、細いほうがまだ優しいな」
誰に向けた言葉でもなかった。
だが、その言葉は、もう現実から少し遅れていた。
線は、太くなり始めている。




