通達
通達は、朝一番で回った。
張り紙でも、号外でもない。
関係部署への回覧と、管理局名義の簡潔な文書。
けれど、それで十分だった。
――再開発区画周辺における安全確保措置について。
――試験運用を終了し、当該区域を管理対象区域とする。
文面は丁寧だった。
強制という言葉はない。
排除という表現も使われていない。
ただ、「管理」という単語だけが、はっきりと記されている。
マルタは文書を読み終え、ゆっくりと机に置いた。
想定していた。準備もしていた。
それでも、胸の奥が少しだけ冷えた。
「……来たね」
リィナは何も言わなかった。
代わりに、次のページをめくる。
――管理対象区域内での長時間滞留を制限。
――未登録者については、個別対応を行う。
――必要に応じ、移動の要請を行う。
「要請、か」
マルタが呟く。
拒否できる言葉だ。
拒否できるからこそ、拒否した側が“問題”になる。
「これ、誰が行くんですか」
リィナが静かに聞いた。
「……巡回と、現場判断」
マルタは答える。「つまり、私たちだ」
線を引いたのは制度。
だが、線の上に立たされるのは人間だ。
午前中、管理局の職員が数名、ギルド跡地を訪れた。
形式的な挨拶。情報共有。責任分担。
誰も高圧的ではない。誰も急かさない。
「問題が起きないうちに、対応したいだけです」
そう言われるたびに、マルタは頷くしかなかった。
昼前、ユウキが顔を出した。
いつものように、袋を下げて。
「……動いた?」
マルタは一瞬、言葉を選び、それから正直に答えた。
「正式に、ね」
ユウキはそれ以上聞かなかった。
聞けば、越えることになると分かっている。
「今日、行くの?」
「行く」
短い会話だった。
それだけで、互いに理解していた。
再開発区画に向かう途中、街の様子は昨日と変わらない。
人は歩き、荷は運ばれ、商売は続く。
ただ、避け方が洗練された。
柵の周囲には、管理局の職員が二人立っていた。
声を荒げることはない。
ただ、視線がある。
イオは、柵の内側にいた。
位置はさらに端へ。
もはや、人の流れとは完全に切り離されている。
「来たね」
イオが言う。
「来た」
ユウキは答える。
管理局の職員が近づく。
「少し、お話を」
丁寧な声だった。
要請だ。
拒否できる。
拒否した瞬間、次の書類が生まれる。
ユウキは一歩、前に出かけて――止まった。
越えれば、これは“介入”になる。
越えなければ、誰も悪くないまま、進む。
朝の光が、柵の影を地面に落とす。
影は、昨日より少しだけ長かった。
管理局の職員は、名を名乗った。
名刺も、記章もある。服装は整っていて、声の調子も柔らかい。
威圧はない。敵意もない。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「当該区域が管理対象になりましたので」
職員は淡々と説明する。「長時間の滞留について、確認とお願いに来ました」
イオは黙って聞いていた。
姿勢は崩さない。視線も逸らさない。慣れているように見えた。
「こちらとしては、危険を未然に防ぎたいだけです」
「分かります」
イオは即答した。
その反応に、職員は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
想定していたのは反発か、困惑だったのだろう。
「代替の場所について、ご相談できればと」
「行き先は、決まっていますか?」
イオの問いは、穏やかだった。
だが、その問いに即答できる職員はいなかった。
「……いくつか候補は」
「“今すぐ行ける場所”は?」
沈黙。
それが答えだった。
「拒否することも、できますよね」
イオが確認する。
「はい」
職員は正直に答えた。「ただ、その場合は」
「次の段階に進む」
イオが先に言った。
職員は否定しなかった。
ユウキは少し離れた場所に立っていた。
柵の外側だ。
一歩で届く距離。だが、越えない。
「要請って、便利な言葉だな」
ユウキは独り言のように呟いた。
聞こえないはずの距離だったが、マルタはそれを拾った。
彼女は職員に向き直る。
「現場としては、時間をください」
「どれくらいでしょう」
「……今日一日」
職員は資料を確認し、頷いた。「検討します」
検討。
拒否ではない。了承でもない。
時間を溶かす言葉だ。
「分かりました」
イオは言った。「今日は、ここにいます」
職員たちはそれ以上踏み込まなかった。
目的は果たした。
要請は行われた。記録も残る。
彼らが去ったあと、柵の内側には沈黙が残った。
「……悪くない人たちだったな」
ユウキが言う。
「うん」
イオは頷いた。「だから、きつい」
マルタは歯を食いしばり、何も言わなかった。
怒りを向ける先がないとき、人は一番無力になる。
「俺がここを越えたら」
ユウキは柵を見る。「事態は変わる」
「変わるね」
イオは言った。「でも、良くはならない」
それが一番、分かっている言葉だった。
夕方の風が吹く。
柵の札が、また揺れた。
要請は終わった。
次は、応じるか、拒むか。
どちらを選んでも、もう“何もなかった”には戻れない。
日が傾き始めた頃、再開発区画は妙に広く見えた。
人が減ったわけではない。
ただ、近づかなくなった。
それだけで、空間は空く。
イオは柵の内側に腰を下ろしていた。
立っている必要はない。もう、見せる姿勢は十分だった。
ユウキは柵の外に立ったまま、何もせずに時間をやり過ごしている。
拾うものはない。
それでも、ここを離れなかった。
「なあ」
ユウキが先に口を開いた。「どうするつもりだ?」
イオはしばらく考えてから、答えた。
「今日は、ここにいる」
「それは選択か?」
「うん」
短い答えだった。だが、曖昧ではない。
「拒否でも、服従でもない」
イオは続ける。「ただ、俺が“どこにいるか”を決めてる」
ユウキは頷いた。
それは確かに、選択だった。
「動けば、問題になる」
「動かなければ、消えていく」
イオは淡々と並べる。「どっちも、同じくらい現実的だ」
マルタは少し離れた場所で、二人の様子を見ていた。
介入すべきか、見守るべきか。
どちらを選んでも、誰かの線を越える。
「……私たちは、待つしかない」
そう言って、自分に言い聞かせる。
イオはふと、ユウキを見た。
「拾わないでくれて、ありがとう」
その言葉に、ユウキは戸惑った。
「拾えなかっただけだ」
「違う」
イオは首を振る。「拾えないって分かったまま、無理に拾わなかった」
それは、奇妙な感謝だった。
だが、ここにいる三人には意味が通じた。
「俺はさ」
イオは空を見上げる。「ずっと、どこかに入ろうとしてた。でも」
言葉を切り、地面を見る。
「入れない場所に入ろうとするのが、一番きついって分かった」
遠くで鐘が鳴った。
一日の終わりを告げる音だ。
「明日、また来る」
ユウキが言う。
「うん」
イオは頷く。「俺も、ここにいる」
それが、約束だったのかは分からない。
だが、逃げでもなかった。
夕暮れの影が、柵を越えて伸びる。
内と外の境界は、影の中では溶けていた。
今日、誰も強制されなかった。
誰も排除されなかった。
それでも、選択は行われた。
そしてそれは、
誰かに決められたものではなく、
自分で口にした選択だった。




