線が引かれた朝
その朝、王都はいつもより静かだった。
鐘の音は鳴った。商人も動き始めた。荷馬車も予定通り通る。
それでも、どこか一拍遅れている。人々が無意識に周囲を確かめながら歩いているような、妙な間が街にあった。
再開発区画の入口に、簡易の柵が設けられていた。
木製で、低く、跨げば越えられる程度のものだ。警備兵は立っていない。ただ、杭に括り付けられた札がある。
――安全確保のため、関係者以外の立ち入りを制限します。
強い言葉は使われていない。
命令でも、禁止でもない。
それでも、その一行が線そのものだった。
ユウキは少し離れた場所から、その柵を見ていた。
いつもの道。いつもの時間。
ただ一つ違うのは、足が自然と止まったことだ。
「……始まったか」
独り言だった。
柵の向こう側に、イオの姿が見えた。
位置が変わっている。昨日より、さらに端へ。
人の流れから、もう一歩分、外。
「おはよう」
ユウキが声をかけると、イオは一瞬だけ驚いたように目を上げ、それから頷いた。
「おはよう」
声は変わらない。だが、周囲を見る視線が増えている。
「柵、来たな」
「うん」
イオはそれ以上何も言わなかった。
不満も、怒りも、安心もない。ただ、受け取っている。
通りすがりの人々は、柵を見て、イオを見て、目を逸らす。
避ける動きが、昨日よりはっきりしていた。
誰も声を荒げない。誰も追い払わない。
ただ、近づかない。
「動く気は?」
ユウキが聞く。
「今は、動かない」
イオは答えた。「動いたら、“試験”が失敗になる」
試験。
その言葉が、ユウキの胸に引っかかった。
「成功したら、どうなる?」
「次の段階に進む」
それは管理の言葉だ。
人の言葉じゃない。
ユウキは柵の前にしゃがみ込み、地面に落ちていた小さな釘を拾った。スキルが反応する。失われたもの。拾えるもの。
「俺がこれを拾うのは、誰も困らない」
ユウキは言った。「でも」
言葉が続かない。
拾えないものが、目の前に立っている。
「困る人はいるよ」
イオは静かに言った。「俺が、ここにいると」
それは責任転嫁でも、自嘲でもない。
事実の提示だった。
遠くで、管理局の職員が立ち止まり、柵を確認しているのが見えた。視線がこちらに向く。イオを見る。ユウキを見る。
記録するような目だ。
「……今日は、ここまでにする」
ユウキは立ち上がった。
「うん」
イオは頷く。
去り際、ユウキは振り返り、柵を見る。
低い。簡単に越えられる。
それでも、越えなかった。
越えた瞬間、これは“対抗”になる。
そうなれば、事態は一段階進む。
街は回っている。
正しさも、秩序も、予定通りだ。
その中で、線は引かれ、誰もそれを壊していない。
ユウキは歩き出す。
袋は軽い。
朝の空気が、やけに冷たかった。
最初に来たのは、苦情ではなかった。
「確認なんですけど」
「一応、聞いておきたくて」
「今後どうなるんでしょうか?」
そんな言い回しで、マルタの机に人が集まり始めた。
声は低く、穏やかで、怒りを含んでいない。だが、全員が同じ方向を見ている。
再開発区画。
境界の人たち。
「今は試験運用です」
マルタは何度もそう説明した。「強制ではありません」
「でも、線は引いたんですよね」
商人の男が言った。責める口調ではない。ただ事実確認だ。
「はい」
「じゃあ、越えたらどうなるんです?」
その問いに、マルタは一瞬だけ言葉を探した。
「……注意、です」
「それだけ?」
「今のところは」
男は頷いた。「分かりました」
分かった、と言われるたびに、マルタの胃が重くなる。
理解されたのではない。納得されたのでもない。
ただ、情報が共有された。
昼過ぎ、今度は別の相談が来る。
「子供を通らせたくなくて」
「夜、通り道に使うのは不安で」
誰も“追い出してくれ”とは言わない。
代わりに、“守ってほしい”と言う。
「何かあったんですか?」
マルタが聞くと、皆同じ答えを返す。
「何も」
「でも、何か起きそうで」
その「何か」が、形を持たないまま、街を歩き始めている。
午後、巡回担当が報告に来た。
「柵の周り、特に問題はありません」
「接触も?」
「今のところは」
“今のところ”。
その言葉が、今日だけで何度出たか分からない。
マルタは帳簿を閉じ、立ち上がった。
「現場、見てくる」
再開発区画の入口。
柵はそのまま。札もそのまま。
人の流れだけが、微妙に変わっている。以前より遠回りする者が増え、立ち止まる者が減った。
少し離れた場所で、イオの姿を見つけた。
立っている。動いていない。
それだけで、周囲との距離が浮き彫りになる。
マルタは近づき、声をかけた。
「困ってる?」
イオは首を振った。「困ってない」
即答だった。
それが余計に、胸に来る。
「不安は?」
「ある」
正直な答えだった。
「何が一番?」
イオは少し考え、「分からない」と言った。「分からないことが、一番」
マルタは息を吐いた。
現場は壊れていない。
秩序も保たれている。
それでも、歪みが溜まり始めている。
戻り道、マルタは管理局の建物を見上げた。
まだ、正式な動きはない。
だが、現場の声は、確実にそこへ向かっている。
「……遅いんだよ」
誰に向けた言葉でもなかった。
制度にか、街にか、それとも自分自身にか。
夕方の風が、柵の札を揺らした。
音は小さい。だが、耳に残る。
それは、叫び声でも衝突でもなかった。
ただ、足が止まっただけだ。
夕暮れ時、再開発区画の柵の前で、荷を抱えた男が立ち尽くしていた。商人ではない。労働者でもない。日雇いの、よくある顔だ。遠回りをしようとして、ふと足を止めた。
柵の向こうに、イオがいた。
男は一瞬、迷ったように視線を彷徨わせた。柵は低い。跨げば終わりだ。だが、札が目に入る。「立ち入り制限」。その文字が、思ったよりも強く効いた。
「……なあ」
男が声をかけた。
イオは顔を上げた。
「ここ、通れるか?」
「通れるよ」
「でも……」
男は言葉を切った。
通れる。
でも、通らない。
それだけのやり取りだった。怒号もない。罵倒もない。
ただ男は、ゆっくりと踵を返した。
その背中を、誰かが見ていた。
誰かが、学んだ。
少し離れた場所で、子供が石を拾い上げ、何気なく投げた。狙いはなかった。ただの暇つぶしだ。石は地面に当たり、跳ね、イオの足元で止まった。
「やめなさい!」
母親の声が飛ぶ。
子供は驚いて手を引かれ、その場を離れる。
誰もイオを責めていない。
誰も傷つけていない。
それでも、空気が変わった。
ユウキは、その一部始終を少し離れた場所から見ていた。
袋は空に近い。拾うものはなかった。
それでも、足が動かなかった。
「……越えなかったな」
自分に言い聞かせるように呟く。
柵を。
一線を。
越えなかったから、何も起きていない。
越えなかったから、誰も止めに来ない。
それが一番、まずい。
イオは何も言わず、石を拾い上げ、柵の内側へ放った。音は小さい。だが、その仕草が、妙に落ち着いていた。
「慣れてるのか?」
ユウキが声をかけると、イオは少し考え、「多分」と答えた。
「人は、越えないって決めるときが一番早い」
その言葉に、ユウキは何も返せなかった。
遠くで、管理局の巡回が立ち止まり、様子を確認している。記録は取らない。注意もしない。
“問題なし”。
その判断が、今日も積み上がる。
マルタは少し遅れて現場に来た。
状況を一目見て、理解した。
「……起きてない。でも」
ユウキと目が合う。
彼女は小さく首を振った。
「次は、起きる」
誰も悪くない。
誰も越えていない。
それでも、一歩分だけ、世界が狭くなった。
夕暮れの影が伸び、柵の内と外をはっきり分ける。
その境目に立つイオの姿が、やけに小さく見えた。




