線を引くという仕事
リィナの机の上には、今日だけで三十七枚の書類が積まれていた。
数だけ見れば大したことはない。だが内容が重い。依頼書ではない。報告でもない。相談と申請、その間にある曖昧な紙ばかりだ。どれも、誰かの生活に直接つながっている。
彼女は一枚ずつ確認し、判を押し、棚に差し込んでいく。書式は整っている。項目も埋まっている。だが、埋められなかった欄がいくつかある。そのたびに、ペン先が止まった。
「……対象外、か」
小さく呟いて、言葉を飲み込む。
制度は整った。再編されたギルドは、以前よりも公平で、透明で、誤魔化しがきかない。だからこそ、判断が重くなった。曖昧に受け入れることが、できなくなった。
一枚の書類を手に取る。
居住地:王都周辺。
種族:記載なし。
職歴:なし。
推薦人:なし。
不備ではない。嘘もない。ただ、足りない。
「……マルタさん」
呼びかけると、向かいの机で帳簿をまとめていたマルタが顔を上げた。「どうしたい?」
「この人、どう思いますか」
マルタは書類を受け取り、ざっと目を通した。眉がわずかに下がる。「難しいね」
それ以上でも以下でもない。正直な感想だ。
「規定上は、受け付けられません」
「そうだね」
「でも……」
リィナは言葉に詰まった。“でも”の先に、規定はない。
以前のギルドなら、この時点で終わっていた。門前払い。話は記録にすら残らない。だが今は違う。受け取った以上、判断しなければならない。
「リィナ」
マルタは静かに言った。「線を引くのも、仕事だよ」
分かっている。分かっているから、苦しい。
リィナは書類を机に戻し、別の用紙を取り出した。判断欄に、まだ何も書かない。代わりに、備考欄に短く記す。
――現行制度では対応不可。
――ただし、経過観察対象。
それは逃げでもあり、精一杯でもあった。
窓の外を見る。街は活気づいている。交易品が運ばれ、人が行き交い、未来が語られている。成功の風景だ。正しい選択の積み重ねが、確かに形になっている。
その端で、制度に引っかからない存在が、静かに取り残されている。
記録係として、リィナはそれを見なかったことにはできない。
だが、書けば切り捨てになる。
書かなければ、無責任になる。
ペンを握る手に、力が入った。
「……正しいって、なんだろ」
答えは出ない。
それでも、彼女は今日も線を引く。
それが、この街を回しているからだ。
ユウキは王都の裏通りを歩いていた。
交易が始まってから、表通りはきれいになった。掃除の手も人手も足りている。だから彼の足は自然と、人が見ない場所へ向かう。壁際、倉庫の裏、再開発から外れた通路。拾うべきものは、いつもそこに残る。
今日は、壊れた荷車の部品を一つ、布の切れ端を二つ、錆びた留め金を一つ。どれも小さなものだが、スキルは反応した。失われ、置き去りにされ、価値が残っている。分かりやすい仕事だ。
「……あ」
通路の奥に、人影があった。
イオだった。
昼間よりも距離は近い。だが、会話をしようという雰囲気ではない。ただ、同じ場所を共有しているだけだ。ユウキは何も言わず、拾ったものを袋に入れる。
しばらくして、イオが口を開いた。
「今日は、人が多い」
「表通りはな」
「裏は、減った」
その言い方に、ユウキは手を止めた。
「追い出された?」
「違う」
イオは首を振る。「線を引かれた」
その言葉は、どこかで聞いた表現だった。ユウキは思い当たる顔を浮かべる。記録係の少女。整った字で判断を書く人間。直接会話をしたことはないが、街の空気から存在は感じていた。
「書類か」
「多分」
イオは笑わなかった。怒ってもいない。ただ、事実として受け取っている。
「俺は、拾えない」
ユウキは言った。前にも言った言葉だ。
「知ってる」
イオは即答する。「でも、来ると思ってた」
「なんで?」
「拾えないって分かってる人は、見捨てない」
その理屈に、ユウキは返す言葉を失った。
袋の中身を確認する。今日拾ったもの。価値はある。行き先もある。だが、目の前の存在は、どこにも行き先がない。捨てられているわけでも、失われているわけでもない。
「線を引いた人は、悪くない」
イオが言った。「引かなきゃ、街が壊れる」
「……そうだな」
「でも」
イオは一拍置いた。「線の外に立ってる人は、増えてる」
風が吹き、紙屑が足元を転がった。ユウキはそれを拾い上げる。スキルが反応し、袋に入る。簡単な作業だ。
「この街、前に進んでるよ」
ユウキは言った。「ちゃんと」
「うん」
イオは頷いた。「だから、ここにいる」
それが何を意味するのか、ユウキにはすぐに分かった。
前に進く街に、ついていけない人間が残る場所。
それが、この裏通りだ。
「また来る」
ユウキは言った。
イオは返事をしなかった。ただ、その場から離れなかった。
ユウキは歩き出す。袋は軽い。拾うものは減っている。それは良い兆候だ。けれど、背中に残る感覚は重かった。
拾えるものが減るほど、拾えないものが、はっきり見える。
そのことを、彼はもう無視できなくなっていた。
マルタは、昼を過ぎても席を立てずにいた。
相談窓口は閉めたはずなのに、人は途切れない。直接来られない分、書類が回ってくる。リィナが分類した束を受け取り、現場判断が必要なものだけを抜き出す。それだけで、指先が重くなった。
「……これもか」
紙に目を落とす。
職業訓練申請、却下。
居住支援要請、対象外。
短期雇用斡旋、保留。
理由はすべて妥当だ。制度に照らせば、何一つ間違っていない。
それでも、机の上に積み上がる却下の山は、以前より確実に高くなっている。
「文句、来てますよ」
部下が控えめに声をかけてきた。
「どこから?」
「……再開発区画の周辺です」
マルタは一瞬だけ目を閉じた。
来ると思っていた場所だ。
「“昔はもっと融通が利いた”とか、“新しいギルドは冷たい”とか」
「分かってる」
分かっている。だからこそ、苦しい。
以前のギルドは、確かに融通が利いた。だが同時に、切り捨ても早かった。助けられる人と、見捨てられる人の差は、もっと残酷だった。
今は違う。
救えないときも、理由が残る。
記録が残る。
判断した人間の名前が残る。
「……正しいことしてるんだけどね」
マルタは独り言のように言った。
誰も否定しない。否定できない。
夕方、窓の外を見る。再開発区画の向こう、まだ整備されていない一角に、人影が見える。数は増えていない。だが、消えてもいない。
「リィナ」
呼ぶと、彼女はすぐに顔を上げた。疲れは隠せていない。
「境界の人たち、どうする?」
リィナは一瞬、言葉に詰まった。「……制度上は」
「分かってるよ」
マルタは先に言った。「でも、現場では“問題”になり始めてる」
盗みも暴動も起きていない。ただ、存在が目につき始めている。それだけで、街は不安になる。
「このままだと、誰かが“処理しろ”って言い出す」
マルタの声は低かった。「制度じゃなくて、感情でね」
それが一番、まずい。
「……ユウキさんは?」
リィナがぽつりと聞いた。
マルタは少しだけ笑った。「あの子は、拾えないものを拾おうとして、拾えないって分かってる顔してる」
それは、誰にもできない役割だ。
「私たちは、拾えないものに線を引く側だ」
マルタは机に手を置いた。「だから、ちゃんと重さを感じないといけない」
外では、街が回っている。交易は順調だ。成功と言っていい。
その裏で、正しさの重さが、確実に蓄積している。
マルタは書類をまとめ、決裁印を押した。
その音は、思ったより大きく響いた。




