戻り始めたもの
翌朝、王都の空気はわずかに違っていた。
劇的な変化はない。
鐘の音も、露店の声も、昨日と同じだ。
ただ――
人の立ち方が違う。
「……立ってる人、増えてない?」
ミーナが小声で言う。
「うん」
ユウキは頷いた。「呼ばれる側に戻った」
広場の一角。
日雇いの集合場所に、数人が立っている。
昨日までは、座り込んでいた者たちだ。
「名前、呼ばれたんだって」
露店の男が、ひそひそ声で教えてくれる。
「臨時だが、仕事が戻った」
「理由は?」
ユウキが聞く。
「分からん」
男は肩をすくめる。「ただ、“名簿が直った”って」
ユウキは、ポケットの中の紙片を思い出す。
責任者欄に、名前が書かれた名簿。
それだけで、流れは戻り始める。
「……効くな」
ミーナが言う。
「効きすぎるくらいだ」
ユウキは視線を逸らす。「だから、来る」
その予感は、すぐに当たった。
管理局の正門前。
普段は素通りできる場所に、今日は人だかりができている。
中級管理官が、腕を組んで立っていた。
「ユウキ君」
声は低いが、抑えられている。「少し、話がある」
「今?」
ユウキは首を傾げる。「仕事中ですが」
「だからだ」
管理官は一歩近づく。「君が触った名簿についてだ」
ミーナが一歩前に出る。
「正式な手続きは?」
「……調査中だ」
その言葉に、ユウキは理解した。
戻り始めたものは、
止められ始めている。
「倒れた人は?」
ユウキが聞く。
管理官は一瞬、言葉を詰まらせた。
「意識は戻った」
「よかった」
「だが――」
管理官は続ける。「再発防止のため、件の作業は中止してもらう」
ユウキは、ゆっくり息を吐いた。
「それは無理です」
「君は、権限を超えている」
「最初からです」
ユウキは静かに言う。「超えないと、拾えなかった」
周囲の空気が、張り詰める。
そのとき。
「……あの」
声を上げたのは、若い職員だった。
名簿を書いた、あの人物だ。
「俺は、責任者です」
震える声で、だがはっきり言う。「記録に残してください」
管理官が、ゆっくり振り返る。
「……君は」
「逃げません」
職員は言った。「もう、名前を書いた」
沈黙。
ユウキは、少しだけ肩の力を抜いた。
期限は、残り一日。
だが、
戻り始めた以上、簡単には止まらない。
会議室は、静かだった。
怒鳴り声も、机を叩く音もない。
ただ、全員が“正しい顔”をしている。
「前提を確認する」
上席の管理官が口を開く。「君は、正式な権限を持たない」
「はい」
ユウキは即答する。
「君は、管理局の内部記録に干渉した」
「はい」
「結果として、混乱が生じている」
「一部では、そうですね」
否定はしない。
だからこそ、場の空気は張り詰める。
「善意は評価する」
管理官は続ける。「だが制度は、善意だけでは回らない」
ミーナが小さく息を吐く。
「制度が回ってなかったから、問題が残ってたんです」
「それは結果論だ」
別の管理官が言う。「現場の感情は理解できる。しかし――」
「しかし、処理済みだった」
ユウキが言葉を引き取る。
数人が、視線を向ける。
「その通りです」
ユウキは続けた。「だから俺は拾わなかった」
「だが、代わりに触った」
「触らないと、拾える形に戻せなかった」
沈黙。
上席の管理官が、ゆっくり頷く。
「君の論理は、一貫している」
「ありがとうございます」
「だからこそ、危険だ」
管理官は言った。「君のやり方は、前例になる」
ユウキは小さく笑った。
「前例がなかったから、溜まったんですよ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
「提案がある」
上席の管理官が言う。「名簿の修正は、こちらで引き継ぐ」
「期限内に?」
ユウキが聞く。
「……努力する」
ユウキは首を振った。
「努力じゃ足りない」
「君に選択肢はない」
管理官の声が、少しだけ強くなる。
「あります」
ユウキは静かに言った。「拾う」
室内の空気が、わずかに歪んだ。
「最悪の手だ」
管理官が言う。
「分かってます」
ユウキは頷く。「でも、期限は待ってくれない」
ミナが、ユウキの袖を軽く引く。
「まだ、一日ある」
「一日しかない」
会議は、結論を出さないまま終わった。
それが、答えだった。
日が落ちるのが、やけに早く感じた。
王都の通りは明かりが灯り、人の流れも落ち着いている。だが、その裏で、静かな変化が起きていた。
「……また倒れたって」
ミーナの声は低い。
今度は広場ではない。
裏通りの工房前。若い職人が、仕事中に意識を失った。
「原因は?」
「分からない」
ミーナは首を振る。「名簿からは消えてた。でも、朝は普通に働いてた」
ユウキは、歯の裏で小さく舌打ちした。
「期限が、効き始めたな」
名簿は戻り始めている。
だが、完全じゃない。
責任者が書かれた案件は動く。
書かれなかったものは、無言で人を止める。
「……全部拾えば、止まる」
ミーナの言葉は、事実だった。
倉庫にある“未回収”の束。
あれをまとめて拾えば、問題は消える。人も倒れない。
ただし――
名前は、戻らない。
ユウキは宿の窓から、街を見下ろした。
灯りの数は変わらない。
だが、その下で立ち止まっている人は、確実に増えている。
「なぁ、ミーナ」
「なに?」
「拾うってさ」
ユウキは静かに言う。「楽なんだよ」
「……知ってる」
「拾えば、俺の仕事は終わる」
「制度も、管理局も、責任も、全部まとめてゴミになる」
ミナが、ユウキの肩に乗る。
「でも、そうしないって決めた」
「決めたけど」
ユウキは苦笑した。「正直、揺れてる」
そのとき、机の上の白紙が、ゆっくりと色を変えた。
文字が浮かぶ。
――期限:残り十二時間
さらに、もう一行。
――回収可能
「……来たな」
空気が、静かに歪む。
アーカイブの気配ではない。
もっと近い。もっと直接的だ。
「拾えば、終わる」
声は、低く、淡々としていた。
姿は見えないが、選択肢を提示する存在だと分かる。
「終わらせたいか?」
ユウキは、しばらく黙っていた。
倒れた人たちの顔。
戻り始めた名前。
責任者として名前を書いた、あの職員。
「……終わらせたくない」
声は、少しだけ間を置いた。
「なら、苦しいぞ」
「知ってる」
気配が薄れる。
残ったのは、紙と、時間だけ。
ユウキは立ち上がった。
「行こう」
「どこへ?」
ミーナが聞く。
「全部だ」
ユウキは答える。「拾えないやつ、全部」
期限まで、あと十二時間。
拾わずに終わらせる仕事は、ここからが本番だった。




