名前が残っていない
倉庫の扉を閉めると、外の音が遠ざかった。
中は静かだ。
だが、完全な無音ではない。紙が微かに擦れる音、棚がわずかに軋む音。どれも、人の動きとは関係なく続いている。
「……勝手に動いてるわね」
ミーナの声は低い。
「うん」
ユウキは頷いた。「でも暴れてはいない」
棚の前に立つ。
“処理済み”と札が貼られた区画。その奥にある書類を、今度は一つずつ引き出していく。
どれも途中で止まっている。
調査記録、事情聴取、報告書。だが共通点があった。
「名前がない」
ミナが言った。
ユウキも同じ結論に辿り着いていた。
案件名はある。分類もある。だが、責任者欄が空白だ。
「これじゃ拾えないな」
ユウキは小さく呟く。
《なんか使えそう判定》
反応は、出ない。
代わりに、胸の奥が重くなる。
これは“物”じゃない。“人”の問題だ。
「消されたの?」
ミーナが聞く。
「たぶん違う」
ユウキは首を振る。「最初から書かれなかった」
責任者が決まらない。
決めると揉める。
揉めるくらいなら、処理済みにする。
よくある話だ。
「……これ、どうするの?」
ミナが見上げる。
ユウキは一枚の書類を手に取った。
端が少しだけ破れている。
「まず、戻す」
「名前を、探す」
「どこに?」
ミーナが眉をひそめる。
「書類の外だ」
ユウキは言った。「街にある」
倒れた男の顔が、頭をよぎる。
徽章、裏路地、見られていた視線。
「これは倉庫で完結しない」
ユウキは続ける。「現場に戻る」
ミーナは一拍置いて、頷いた。
「つまり、拾わないまま外に出すのね」
「うん」
ユウキは苦笑する。「前代未聞だろ」
「管理局、嫌がるわ」
「もう嫌われてる」
ユウキは書類を丁寧に束ねた。
ゴミ袋には入れない。
ラベルも貼らない。
代わりに、紙紐で結ぶ。
「これが第一歩だ」
ミナが、ぽつりと言う。
「名前、戻るかな」
「戻す」
ユウキは即答した。「残ってるはずだから」
期限は、あと二日半。
倉庫の奥で、また一枚、書類が落ちた。
だが今回は、音が違った。
誰かが、聞いている音だった。
倉庫を出ると、王都の空気はいつも通りだった。
通りでは商人が声を張り、子どもが走り、衛兵が巡回している。
誰もが、自分の役割を持って動いている。
――持っているように見える。
「最初は、倒れた人の周辺だな」
ユウキの言葉に、ミーナが頷く。
広場の端。
昨日、中年の男が倒れていた場所。
今は何事もなかったように、人が行き交っている。
「……残ってないわね」
「表にはな」
ユウキは視線を落とした。
石畳の隙間、柱の影、掲示板の裏。
ゴミ拾いで培った“目”が、普通の人が見ない場所を追う。
そして、見つけた。
小さな木札。
割れてはいないが、削れて文字が読めない。
《なんか使えそう判定》
反応は、弱い。
「名前札?」
ミーナが覗き込む。
「昔のやつだな」
ユウキは言う。「日雇いとか、臨時雇いが使う」
ミナが首を傾げる。
「でも、名前ない」
「だから捨てられた」
近くの露店で、年配の男がこちらを見ていた。
視線が合うと、気まずそうに目を逸らす。
ユウキは歩み寄った。
「すみません」
「この辺で、最近仕事を外された人、いませんでした?」
男は一瞬、黙った。
周囲を見回してから、低い声で答える。
「……何人もいる」
「理由は?」
「理由は、ない」
男は苦く笑う。「“処理済み”だ」
その言葉に、ユウキの胸が少しだけ重くなる。
「名簿から消えた」
男は続ける。「呼ばれなくなった。それだけだ」
「倒れた人も?」
男は、ゆっくり頷いた。
「ああ。真面目なやつだった」
ユウキは、束ねた書類の重みを思い出す。
名前がない。
だから、拾われない。
「……話、聞かせてもらえますか」
男は少し迷ってから、頷いた。
露店の裏。人目の届かない場所。
そこには、同じような話がいくつもあった。
名前を呼ばれなくなった。
仕事が途切れた。
理由は分からないが、“終わったこと”になっている。
ミーナが小さく呟く。
「これ、案件じゃないわね」
「うん」
ユウキは答える。「生活だ」
戻る途中、ユウキは木札を一つずつ拾い集めた。
全部で七枚。
どれも、名前が削られている。
「……戻せるかな」
ミナの言葉に、ユウキは少し考えてから言った。
「全部は無理だ」
「でも、“無かったこと”にはさせない」
期限は、残り二日。
ユウキは、次に行く場所を決めていた。
名簿を作った側だ。
管理局の裏手にある小さな建物は、表の庁舎よりずっと古かった。
看板はなく、通る人も少ない。
だが、ユウキは迷わなかった。
「ここね」
ミーナが言う。
扉を叩くと、少しして中から年若い職員が顔を出した。
服装は管理局のものだが、徽章は付けていない。
「……何の用ですか」
「名簿の件で」
ユウキは端的に言った。「“処理済み”になったやつ」
職員の表情が、はっきり変わった。
「それは……管轄外です」
「知ってます」
ユウキは頷く。「だから、ここに来た」
しばらくの沈黙のあと、職員は扉を開けた。
室内は狭い。机が一つ、棚が二つ。
整理はされているが、新しい紙だけがない。
「……俺は、作っただけです」
職員は椅子に座り、俯いたまま言う。
「何を?」
ミーナが尋ねる。
「削除名簿」
職員は絞り出すように言った。「正式名称じゃありませんけど」
ユウキは、束ねた書類を机に置いた。
「これの元ですね」
職員は、ちらりと見て、目を逸らした。
「確認だけの仕事でした。条件に合わない人を、一覧にするだけ」
「条件って?」
ユウキが聞く。
「……更新が遅れた、とか」
「書類が一枚足りない、とか」
ミーナが静かに言う。
「つまり、誰でも当てはまる」
職員は、何も言えなかった。
「責任者は?」
ユウキの問いに、職員は首を振る。
「いません」
「上から来た指示です。形だけ」
その言葉で、すべてが繋がった。
責任者がいない。
だから、名前が消える。
「……あなた、名前は?」
ユウキがそう聞くと、職員は驚いたように顔を上げた。
「え?」
「名簿に、あなたの名前は載ってますか」
職員は、口を開きかけて、閉じた。
そして、小さく首を振った。
「……載ってません」
ユウキは頷いた。
「同じだ」
「あなたも、拾われない側だ」
職員の肩が、わずかに震えた。
「俺は……どうすれば」
「簡単だ」
ユウキは言う。「名前を書けばいい」
「誰の?」
「自分の」
ユウキは即答した。「名簿を作った責任者として」
ミーナが一瞬、息を呑む。
「それ、危険よ」
「分かってる」
ユウキは職員を見る。「でも、それが“拾える形”だ」
職員は、長い沈黙のあと、ペンを取った。
震える手で、紙に名前を書く。
その瞬間、倉庫で感じていた重さが、少しだけ軽くなった。
期限は、残り一日半。
だが、初めて動いた。




