空の上で逃げられない
ドラゴンの背は、広い。
だが、安心できる広さではなかった。
足場は安定している。振動も少ない。風も、意図的に避けられている。落とさないために最適化された移動――それが逆に、この場が「保護」ではなく「管理」だと伝えてくる。
「……静かすぎるな」
ガルドが、思わずそう漏らした。
誰も笑わない。
笑えなかった。
空の上では、逃げ場がない。視線を逸らしても、距離を取っても、同じ背の上にいる限り、関係から降りられない。
シェルザとブラムは、互いに数歩の間隔を空けて座っていた。意図的だ。近づけば緊張が生まれ、離れすぎれば話せない。その中間を、無意識に選んでいる。
「……」
最初に沈黙に耐えきれなくなったのは、ブラムだった。
「我らは、山を掘る」
低く、だが空に流されないように声を張る。「それが誇りで、生き方だ」
シェルザは黙って聞いている。牙を見せないが、警戒は解いていない。
「だが――」
ブラムは言葉を探しながら続ける。「掘ることに夢中になりすぎた。境界を、線でしか見なくなった」
シェルザが、ゆっくりと口を開いた。
「我らは、線を嫌う。境界は動くものだ。風と獲物と季節で変わる」
言葉は穏やかだが、否定は明確だった。
「だから噛み合わなかった」
ブラムは頷く。「我らは固定し、そちらは流す」
ドラゴンは、まだ口を出さない。ただ飛ぶ。だがその沈黙が、この場を“話さざるを得ない場所”にしていた。
「……誓いを、言え」
ついに、ドラゴンが告げる。
「文字ではない。昔の言葉でもない。今のお前たちの言葉でだ」
逃げ道は、完全に塞がれた。
ブラムは、深く息を吸う。
「我らドワーフは、記録に残らぬものも軽んじない。合理の名のもとに、約束を削らぬと誓う」
空気が、わずかに変わる。
シェルザは、しばらく黙っていたが、やがて言った。
「我らワーウルフは、怒りを誇りに変えぬ。牙を向ける前に、言葉を探すと誓う」
二つの誓いは、完全に同じではない。
だが、同じ方向を向いていた。
ドラゴンは、低く息を吐いた。
「よい。完璧ではない。だが、それでよい」
ユウキは、少し離れた場所で、それを聞いていた。
誓いに介入しない。促しもしない。ただ、ここまで運んだだけだ。
「……やっぱり」
小さく呟く。「拾うのは、途中までですね」
ドラゴンの金色の瞳が、ユウキを捉える。
「続きを歩くのは、当事者だ」
その言葉に、ユウキは頷いた。
雲の向こうに、王都が見え始める。
だがこの時点では、まだ誰も「帰還」を喜んでいなかった。
誓いは交わされた。
だが、それを背負って生きるのは、これからだからだ。
王都は、騒然としていた。
空を横切る巨大な影。
城壁の外へ降り立つドラゴン。
その背から降りてくる、異種族の代表たち。
兵は混乱し、市民は足を止め、誰かが叫ぶ。
「英雄だ!」
誰が言い出したのか分からないその言葉は、波紋のように広がっていった。
「ドラゴンを従えた!」
「異種族を従えた!」
「戦争を止めた男だ!」
評価は、一気に単純化される。
物語は、分かりやすい形を欲しがる。
ユウキは、その渦の外側に立っていた。管理局の役人が慌てて駆け寄ってくる。
「ユウキ殿! これは前例のない功績です。王への謁見を――」
「結構です」
即答だった。
役人が言葉を失う。
「……は?」
「依頼は交渉です。終わりました」
ユウキは淡々と言う。「それ以上は、業務外ですね」
周囲の空気が、わずかに凍る。
ブラムとシェルザは、そのやり取りを黙って見ていた。英雄扱いされる人間と、それを拒否する姿。その違和感を、どちらも正確に感じ取っている。
「だが……」
役人は食い下がる。「市民が納得しません。英雄譚は――」
「必要ないです」
ユウキは遮る。「英雄がいると、次は“悪者”が必要になる」
その言葉に、ミーナが小さく息を呑んだ。
管理局の人間は、理解できず、しかし反論もできなかった。
少し離れた場所で、ミナがユウキの裾を引く。
「……ひと……あつい……」
「そうだな」
ユウキは屈み、目線を合わせる。「ここは、物語が生まれやすい」
城壁の上では、兵がドラゴンの姿を見送っている。ドラゴンは王都には入らない。最初から、そのつもりだ。
「約束は、運んだ」
ドラゴンは空から言った。「あとは、どう残すかだ」
それだけ告げ、翼を翻す。
歓声が上がる。
だが、その中心に、ユウキはいない。
彼は、路地へ向かって歩き出していた。
人の集まる場所から、自然と外れるように。
背中に向けられる視線の意味が、変わり始めていることを、ユウキはまだ気にしていなかった。
翌朝、王都は落ち着きを取り戻していた。
昨日の騒ぎが嘘のように、市場は開き、鐘はいつも通りの時間に鳴る。
記録は、淡々と整理された。
・異種族間武具供給交渉、成功
・停戦合意、成立
・管理局現場対応員:ユウキ
そこに、英雄の文字はない。
ドラゴンの名も、誓紋の詳細も、載っていない。
「……まぁ、そうなるか」
ユウキは掲示板を一瞥して、納得したように頷いた。
ミーナが隣で腕を組む。
「記録としては正しいわ。余計なものを入れると、また歪む」
「英雄って書かれなかった?」
ガルドが少し残念そうに聞く。
「書かれない方が楽ですよ」
ユウキは即答した。「名前が残ると、片付けが増える」
路地裏では、昨日の騒動で散らかった箱や紙屑が、そのままになっていた。ユウキは自然な動作で屈み、一つ拾う。
《とりあえず拾っとく》
それだけの行為。
だが、その周囲の空気が、ほんの少し整う。
ミナがしゃがみ込み、同じように小さな石を拾った。
「……ひろうと……ちがう……」
「違うな」
ユウキは頷く。「全部は変わらないけど、ここは変わる」
遠くの空で、雲がゆっくり流れる。
ドラゴンは、もう見えない。
だが、風の向こうから、低く、懐かしい気配が一度だけ伝わってきた。
誰にも聞こえない声で、名が呼ばれる。
それは、かつて小さきものと共に旅をした存在の名。
そして――今も拾う者の背中を、静かに見ている者の名。
ユウキは気づかない。
ただ、次に散らかった場所へ向かうだけだ。
英雄にはならなかった。
だが、争いは終わった。
そして世界は、相変わらず散らかっている。
だから、拾う者は歩き続ける。




