拾われなかった焚き火
夜になっていた。
山の境界に張られた即席の野営地には、焚き火が二つある。距離を取るように、意図的に離されていた。
一つはドワーフ側。岩を円形に組み、効率よく火を保っている。
もう一つはワーウルフ側。木の根元を背に、風向きを読んだ位置に置かれていた。
同じ火を囲まない。
それ自体が、今の関係を示している。
ユウキは、その間を行き来していた。
剣も斧も持たず、手にしているのは布と簡単な魔道具。血の跡を拭い、散らばった破片を拾い、焚き火の周囲を整えていく。
「……相変わらず、妙なことをするな」
ドワーフ側の代表格――髭に銀が混じる老戦士が、低く言った。
「慣れてるだけですよ」
ユウキは軽く答える。「散らかったままだと、話もしづらいでしょう」
老戦士は鼻を鳴らしたが、否定はしなかった。
少し離れた場所で、シェルザが焚き火を見つめている。揺れる炎の向こうに、今は存在しないはずの光景を重ねているようだった。
「……なあ、人間」
不意に、シェルザが口を開いた。
「お前は“拾う者”だと言ったな」
「そう名乗った」
「なら聞く。約束とは、何だ」
ユウキは即答しなかった。代わりに、焚き火の中に一本の枝を投げ入れる。火花が小さく弾けた。
「残るもの、ですかね」
ややあって、そう言った。「誰かが覚えていなくても、どこかに残ってしまうもの」
シェルザは、ゆっくりと頷いた。
「……我らは、そう教えられてきた」
彼は焚き火の向こうを見た。炎の揺らぎが、過去の景色へと変わっていく。
⸻
まだ、森が今より若かった頃。
山が静かで、ドラゴンが眠りにつく前。
その場には、三つの種族がいた。
ドワーフ、ワーウルフ、そして――空を覆うほどの影。
ドラゴンは地に伏し、巨大な眼で彼らを見下ろしていた。声は雷のように低く、だが言葉は確かに通じていた。
「誓え」
ドラゴンは言った。
「奪わぬこと。忘れぬこと。必要な時は、話し合うこと」
ドワーフは誓った。山を分かち合い、記録を残すと。
ワーウルフは誓った。境界を守り、記憶を語り継ぐと。
そして、ドラゴンは最後にこう告げた。
「この誓いの証は、我が預かる。
だが、忘れるな。
約束そのものは、預けていない」
その言葉の意味を、当時の誰も深く考えなかった。
⸻
焚き火の前に、現在が戻る。
「我らは、覚えていた」
シェルザは低く言う。「語り、歌い、匂いで残してきた。だが――」
彼の視線が、ドワーフ側へ向く。
「向こうは、紙に書かなかった」
沈黙が落ちた。
老戦士が、ゆっくりと口を開く。
「……書かれなかったものは、次の世代に渡らなかった」
それは言い訳ではなく、告白だった。
ユウキは、二つの焚き火の間に立つ。
どちらにも寄らず、どちらからも離れない位置で。
「まだ、拾えると思いますよ」
小さく、しかし確かに言った。
「だって――まだ、誰も“無かったこと”にはしてない」
遠く、山の奥で、低い振動が伝わってくる。
眠りの浅い、巨大な存在が、こちらを見ている。
ドラゴンは、まだ何も言わない。
だが、裁定の時が近いことだけは、全員が理解していた。
焚き火の向こうで、ドワーフの老戦士――名をブラムという――は、しばらく黙っていた。炎に照らされた髭が、わずかに揺れる。
「我らは、忘れたのではない」
それは、弁明にも聞こえたし、自己確認にも聞こえた。
「ドワーフにとって、契約とは“残す”ことだ。石に刻み、紙に写し、倉庫に納める。そうして初めて、約束は次の世代へ渡る」
ブラムは、焚き火のそばに置かれた鞄から、古びた金属板を一枚取り出した。角が欠け、文字も摩耗している。
「これは、百年前の鉱脈分配の記録だ。細部まで残っている。誰がどこまで掘り、どれだけ持ち帰ったか。争いが起きぬようにな」
彼は、それをそっと地面に置いた。
「だが……」
声が低くなる。「あの誓いは、刻まれなかった」
ミーナが静かに問いかける。
「なぜ?」
「当時の長老は、“不要だ”と判断した」
ブラムは苦く笑った。「ドラゴンが裁定し、互いに誓い合った。ならば争いにはならぬ、と」
シェルザが低く唸る。
「だから、書かなかった」
「そうだ」
ブラムは否定しなかった。「合理的だと、思った。誓いは心にある、と」
ユウキは、その言葉に小さく頷いた。
「で、その長老が死んだ」
「死んだ」
「次の世代は?」
「“そんな話は聞いていない”と言った」
焚き火が、ぱちりと音を立てる。
「それでも、最初は問題にならなかった」
ブラムは続ける。「山は広く、資源も足りていた。だが、時が経ち、掘り進め、余裕がなくなると……」
言葉は、そこで途切れた。
シェルザが代わりに言う。
「突然、境界を越えた」
「……そうだ」
ブラムは、ゆっくりと頭を下げた。
「我らは“契約にない”という理由で、境界を引き直した。悪意はなかった。だが……結果として、約束を踏み潰した」
その瞬間、ユウキの足元で、ミナが小さく動いた。落ちていた小石を拾い上げ、掌に乗せる。
「……これ……」
ユウキが視線を向ける。
「ひび……はいってる……」
小石には、確かに細かな亀裂が走っていた。
「……でも……」
ミナは小さく言う。「われて……ない……」
誰も、すぐには反応できなかった。
ユウキが、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「まだ終わってないってことだ」
ブラムは、深く息を吐いた。
「……だからこそ、ドラゴンが目覚めたのだろうな」
焚き火の向こう、山の稜線が、わずかに赤く染まる。夜明けにはまだ早い。だが、それは火ではない。
巨大な魔力の脈動。
千年単位の存在が、完全に覚醒しつつある徴だ。
「次に語るのは、我らではない」
ブラムは低く言った。「裁定者の番だ」
ユウキは空を見上げる。
「……ドラゴンの条件、か」
その言葉に応じるように、遠くで重い羽音が一度だけ響いた。
羽音は、空気を押し潰すようだった。
山の稜線の向こうから、巨大な影がゆっくりと姿を現す。夜空を覆うほどの翼、岩のような鱗、星を映す金色の瞳。降り立つだけで、周囲の魔力が軋み、焚き火の炎が伏せるように揺れた。
誰も動けなかった。
ドワーフも、ワーウルフも、本能で理解している。これは敵でも味方でもない。“上位存在”だ。
「……うるさいと思ったら」
ドラゴンは、低く、だが確かに“言葉”で話した。
「まだ決着もついておらぬ争いを、いつまでも擦り続けておるのか」
シェルザが一歩前に出る。
「我らは――」
「知っている」
ドラゴンは遮った。「忘れられた約束。書かれなかった誓い。どちらも、よくある話だ」
金色の瞳が、焚き火の間に立つユウキを捉える。
「……ほう」
僅かに、興味を帯びた声。「珍しい匂いがする」
ユウキは肩をすくめた。
「ゴミ拾いです。たぶん」
「拾う者、か」
ドラゴンは低く笑った。「だから、まだ争いが始まっておらぬ」
一拍置いて、空気が変わる。重圧が、はっきりと“意志”を持つ。
「よかろう。裁定は後だ」
その言葉に、全員が息を呑む。
「我は、かつて誓いの証を預かった」
ドラゴンは続ける。「小さき者どもが交わした、“約束が本物であることを示すもの”だ」
ブラムが震える声で言う。
「……誓紋の欠片」
「そう呼んでいたな」
ドラゴンは頷いた。「だが、それは失われた」
焚き火の火が、ふっと揺らぐ。
「約束が忘れられ、争いが始まった時点で、我はそれを保持する理由を失った。よって、山のどこかに放棄した」
シェルザが低く唸る。
「それがあれば……」
「争いは止まるか?」
ドラゴンは問い返す。「否。だが、“話す理由”にはなる」
そして、再びユウキを見る。
「拾う者よ」
「はい」
「その誓紋を探せ」
ドラゴンは告げた。「それが見つかれば、我は仲裁に立とう。見つからねば――」
巨大な翼が、ゆっくりと広がる。
「争いは、自然の流れとして許容する」
それは脅しではなく、事実の宣告だった。
ユウキは少し考え、頷いた。
「分かりました。拾ってきます」
あまりに軽い返事に、ドワーフもワーウルフも目を見開く。
「……条件は?」
ミーナが聞く。
「条件は一つだ」
ドラゴンは言った。「誓紋は、我に返すな」
ユウキが眉を上げる。
「それは――」
「それは、“当事者の手”で持つべきものだ」
ドラゴンの声は、少しだけ柔らいだ。「約束を返すのは、我ではない」
そう告げると、ドラゴンは翼を畳む。
「期限は三日。山を荒らすな。血を流すな。拾えるものだけを拾え」
そして、最後に一言。
「……期待しているぞ。拾う者」
再び羽音が響き、ドラゴンの姿は夜空へと消えていった。
残された焚き火の前で、誰もすぐには口を開けなかった。
やがて、ユウキが息を吐く。
「さて……山のゴミ拾いか」
ミナが小さく頷く。
「……だいじな……おとしもの……」
争いは、まだ終わっていない。
だが、戦争にはならなかった。




