境界の向こう側
森に入った瞬間、
空気が変わった。
音が減る。
風の流れが読めなくなる。
「……ここ……
ちがう……」
ミナが、
足元の落ち葉を見て言う。
「結界じゃない」
ミーナが答える。
「生活圏。
誰かが“そうなるように”
保ってる」
ユウキは、
立ち止まって周囲を見渡した。
木々の間。
岩の陰。
枝の上。
見られている。
だが、
殺気はない。
「……出てきてくれ」
ユウキは、
武器を抜かずに声をかけた。
「交渉で来た。
戦いに来たわけじゃない」
返事はない。
代わりに、
足音が一つ。
次に、二つ。
三つ。
気配が、
“数”として確定していく。
そして、
正面の木陰から
一人が現れた。
人の形。
だが、
瞳は獣。
灰色の毛並みを
外套で隠し、
腰に刃物。
その立ち方だけで、
戦士だと分かる。
「ここは、
人間の立ち入る場所ではない」
低く、
感情を抑えた声。
ユウキは、
一歩前に出る。
「分かってる」
相手の瞳が、
わずかに細まる。
「分かっていて、
越えたか」
「越えた」
ユウキは、
否定しなかった。
「だから、
名を名乗る」
その言葉に、
周囲の気配が一瞬ざわつく。
獣人は、
静かに言った。
「……続けろ」
「ユウキ。
王都管理局の依頼で来た。
だが、
今日はそれ以前の話をしに来た」
「以前?」
「ここで、
何が拾われなかったか」
獣人は、
しばらく黙っていた。
その沈黙は、
考える時間だった。
「……名は?」
「ユウキだ」
「違う」
獣人は、
静かに首を振る。
「この森で名を問うときは、
役割を名乗れ」
ユウキは、
少しだけ間を置いてから答えた。
「……拾う者だ」
その瞬間、
周囲の気配が
一段、下がった。
獣人は、
小さく息を吐く。
「……私は
シェルザ=ルゥ=ナハト」
その名に、
重さがあった。
「ワーウルフ族代表戦士。
境界を守る者だ」
ミナは、
その名を
小さく口の中で繰り返した。
「……シェルザ……」
シェルザは、
ミナを見た。
「……名を持ったか」
「……うん……」
「なら、
話は早い」
シェルザは、
周囲に向けて
短く合図を送る。
気配が、
完全には消えないが、
牙は引かれた。
「言え。
人間」
「戦争を、
止めに来たわけじゃない」
ユウキは、
はっきり言った。
「これ以上、
拾えなくなる前に
話をしに来た」
シェルザは、
静かに笑った。
「……それが、
できるなら」
彼は、
地面に刻まれた
古い傷跡を指差す。
「まず、
忘れられた約束の話からだ」
森が、
静かに息をした。
シェルザは、森の奥へ向かって歩き出した。ついてこい、という合図だった。ユウキたちは警戒を解かず、だが武器も抜かずに後に続く。森の空気は張りつめているが、牙を剥く気配はない。これは威嚇ではなく、監視だ。
「ここで起きているのは、ただの領土争いではない」
シェルザは歩きながら言った。声は低く、淡々としている。「人間はよく、そう誤解する。土地を奪った、鉱脈を巡った、獲物を取り合った……だが違う」
立ち止まり、一本の古木に触れる。その幹には、意図的に残された古い刻み跡があった。
「これは、かつての“印”だ。境界を示すものではない。約束を示すものだ」
ミナがそっと近づき、刻み跡を見つめる。
「……ひろわれて……ない……」
「そうだ」
シェルザは静かに頷いた。「誰も覚えていない。だから誰も拾わなかった」
ドワーフが悪いのか、とレオルが口を開きかけるが、シェルザは首を振った。
「単純な話ではない。ドワーフは契約を重んじる。だが、契約書に残らぬものは、彼らの中で次第に“存在しなかったこと”になる」
ミーナが小さく息を吐く。
「人間も同じね。書類に残らない約束ほど、真っ先に忘れる」
「我らワーウルフは違う」
シェルザの声に、わずかな感情が混じる。「覚えている。血と匂いで、世代を越えて記憶する。だから怒りが残る」
ガルドが腕を組んだ。
「だから戦争か」
「違う」
即座に否定が返る。「戦争になったのは、誰も話を拾わなかったからだ。怒りが溜まり、行き場を失い、牙になるしかなかった」
ユウキは静かに聞いていた。
「奪われたのは、土地じゃない。約束そのものだな」
シェルザは初めて、ユウキを正面から見た。
「そうだ。ようやく同じ言葉で話せる」
森の奥で、何かが動いた気配がする。ワーウルフの戦士たちだ。だが剣も牙も、まだ向けられていない。
「だから我らは問う」
シェルザは言う。「お前たちは、何をしに来た。武具か。停戦か。それとも――」
ユウキは答えた。
「拾えるものが残っているか、確かめに来た」
短い沈黙のあと、シェルザは低く息を吐いた。
「なら、見せてやろう。拾われなかったものが、どれほど山を歪めているかを」
その言葉を合図に、森の空気が一段重くなる。遠くで金属がぶつかる音。ドワーフ側の斥候だ。戦いは、避けられない位置まで近づいていた。
最初に姿を現したのは、ドワーフだった。岩陰から姿を見せたのは三名。全員が重装ではなく、偵察用の軽装だが、手にした斧と魔導具は一目で高品質だと分かる。
「止まれ!」
一人が叫ぶ。「そこから先はドワーフ領だ。ワーウルフがいるな。下がれ、人間!」
その瞬間、森の緊張が限界まで張りつめた。ワーウルフ側の気配が前に出る。牙が抜かれる気配。ほんの一拍遅れれば、ここは血で染まっていた。
「待った」
ユウキの声は、大きくなかった。だが、不思議と通った。
誰もが一瞬、動きを止める。その隙にユウキは前に出て、地面に膝をついた。そして、背負っていた袋から一つの道具を取り出す。
「戦場で使うもんじゃないけどな」
それは、ただの清掃用具だった。柄の長い、古びたモップ。だがユウキが地面に先端を当てた瞬間、淡い光が走る。
《冥途回収》
《対象領域:未回収の対立感情》
《回収条件:当事者全員の存在》
空気が、沈んだ。
怒り、恐怖、猜疑心。目に見えないそれらが、霧のように地面から立ち上り、モップの先へと吸い寄せられていく。誰かの胸が、急に軽くなった。
「……なにを、した?」
ドワーフの斥候が、思わず呟く。
「掃除だよ」
ユウキは肩をすくめる。「まだ完全じゃないけどな。とりあえず、刃を振る理由だけは回収した」
ワーウルフ側も、ドワーフ側も、動けずにいた。怒りが消えたわけではない。ただ、今すぐ殺し合う衝動が、嘘のように遠のいている。
その隙に、ミナが一歩前に出た。小さな手で、木の幹の刻み跡を指差す。
「……これ……やくそく……」
ドワーフの一人が、息を呑んだ。
「……その印……まさか……」
彼は兜を脱ぎ、地面に膝をつく。
「古文書でしか知らん。だが確かにあった。“山を分け合う誓紋”だ」
シェルザが低く唸る。
「ようやく、思い出したか」
「……忘れていた」
ドワーフは苦しそうに言った。「書類に残らぬものを、我らは切り捨ててきた」
その瞬間だった。
山の奥から、重く、低い音が響いた。地鳴りだ。空気が震え、魔力がうねる。全員が同時に理解する。
「……目覚めたな」
シェルザが呟く。
ユウキは空を見上げた。
「ドラゴン、か」
遠くの峰の向こうで、巨大な影がゆっくりと身を起こす。千年単位の眠りを破られた存在特有の、不機嫌な魔力が辺り一帯を覆い始めていた。
「やれやれ」
ユウキは袋を背負い直す。「今度は、もっとでかい忘れ物か」
ここから先は、戦争ではない。
ドラゴンの試練が始まる。




