名前がない
朝の詰所は、
いつもより静かだった。
ミナは、
毛布を肩にかけたまま、
窓の外を見ていた。
人が歩く。
荷車が通る。
声がする。
全部、
“誰か”だ。
「……ねえ」
ミナが、
小さく声を出す。
「どうした?」
ユウキは、
道具の整理をしながら答えた。
「……みんな……
なまえ……ある……?」
「あるな」
「……わたし……?」
その問いは、
責める調子でも、
泣きそうでもなかった。
ただ、
確認するみたいな声だった。
「……まだ」
ユウキは正直に言う。
「決まってない」
「……きまって……ない……」
ミナは、
その言葉を
ゆっくり繰り返す。
ミーナが、
少し離れたところで
書類を閉じた。
「名前って、
割り当てるものじゃないから」
レオルが、
うなずく。
「決めるもの、ですよね」
ガルドは、
腕を組んだまま言う。
「でも、
無いと不便だぞ」
「……ふべん……?」
「呼ぶときに困る」
ミナは、
少し考えた。
「……よばれない……
なら……
いい……?」
ユウキの手が、
一瞬だけ止まった。
「それは、
違う」
「……ちがう……?」
「呼ばれないのと、
呼べないのは、
別だ」
ミナは、
よく分からないまま、
頷いた。
マルタが、
飴を差し出す。
「甘いの、食べる?」
「……たべる……」
受け取って、
ゆっくり舐める。
「……あまい……」
「そう」
マルタは笑う。
「名前もね、
似たようなものよ」
「……?」
「無くても生きていけるけど、
あった方が、
ちょっとだけ安心する」
ミナは、
飴を口に含んだまま、
考え込んだ。
「……なまえ……」
小さく、
呟く。
「……あったら……
なに……かわる……?」
ユウキは、
しばらく考えてから答えた。
「……消えにくくなる」
ミナは、
その言葉を聞いて、
目を見開いた。
「……きえない……?」
「少なくとも、
行方不明にはなりにくい」
それは、
彼なりの
一番正直な答えだった。
ミナは、
もう一度、
窓の外を見る。
名前を持つ人たちが、
当たり前みたいに
歩いている。
「……すぐ……
きめなくて……
いい……?」
「いい」
ユウキは即答した。
「決まるまで、
預かる」
その言葉に、
ミナは
小さく息を吐いた。
安心と、
不安が混じった呼吸。
そして、
心のどこかで、
何かが
ゆっくり動き始めていた。
ミナは、
紙切れを前にして座っていた。
白い。
何も書いていない。
「……なに……してる……?」
レオルが覗き込む。
「……かんがえてる……」
「何を?」
「……なまえ……」
その場の空気が、
ほんの少しだけ静かになる。
ミーナが眼鏡を押し上げた。
「候補は?」
「……ない……」
「ゼロから?」
「……うん……」
ガルドが笑った。
「豪快だな」
ミナは、
紙を見つめたまま言う。
「……だって……
もらう……の……
いや……」
その言葉に、
ユウキは何も言わなかった。
言わない、
という判断をした。
「……えらぶ……なら……
ちゃんと……
えらびたい……」
ミナは、
指で紙をなぞる。
「……すてられた……
なまえ……は……
いや……」
ミーナが、
一瞬だけ視線を落とした。
それは、
この章にいる全員が
多少なりとも
身に覚えのある感覚だった。
「……ミナ……?」
マルタが、
試すように言った。
ミナは、
首を振る。
「……まだ……」
「じゃあ、
なんでそう呼んでるの?」
「……べんり……だから……」
ガルドが吹き出す。
「実用主義だな!」
「……べんり……は……
わるく……ない……」
ミナは真顔だった。
ユウキは、
そこでようやく口を開く。
「条件、決めたら?」
「……じょうけん……?」
「名前を選ぶための、
ルール」
ミナは、
少し考えてから頷いた。
「……ひとつ……」
「ひとつ?」
「……よばれたら……
ちゃんと……
ふりむける……」
その条件は、
意外なほど
具体的だった。
「……にげなくて……
いい……」
レオルが、
小さく息を吸った。
「……二つ目は?」
ミーナが聞く。
「……ふたつ……
いらない……」
「一つだけ?」
「……うん……」
ミナは、
紙の中央に
小さく点を打った。
「……ここ……
から……
えらぶ……」
ユウキは、
それを見て思った。
これは、
名前の話じゃない。
居場所の話だ。
そのとき、
空気が、
ほんの一瞬だけ
歪んだ。
誰も音を聞いていないのに、
「記録された」という感覚だけが
背中をなぞる。
ミーナが、
眉をひそめる。
「……今……
何か……」
ユウキは、
静かに立ち上がった。
「……来てるな」
「敵?」
「いや」
もっと、
面倒なやつだ。
紙の上の点が、
微かに光った。
ミナが、
それを見つめる。
「……みてる……?」
「見てる」
ユウキは即答した。
「でも、
まだ口は出してこない」
ミナは、
少しだけ安心したように
息を吐いた。
「……じゃあ……
もう……
ちょっと……
かんがえる……」
その選択を、
誰も止めなかった。
止める権利が、
誰にも無いと
分かっていたからだ。
夜だった。
詰所の灯りは落とされ、
外の通りも静まり返っている。
ミナは、
ひとりで紙の前に座っていた。
誰もいない。
声もない。
だから、
逃げる理由もなかった。
「……よばれたら……
ふりむける……」
小さく、
自分に言い聞かせる。
試すみたいに、
口に出す。
「……ミナ……」
その音は、
不思議と
胸の奥に落ちた。
軽すぎず、
重すぎず、
消えもしない。
「……にげなくて……
いい……」
ミナは、
紙に小さく書いた。
ミナ
書いた瞬間、
紙の点が
静かに消えた。
それは、
監視が終わった合図だった。
――――――
同時刻。
誰にも見えない場所で、
“記録”が一行、更新される。
対象:未割当存在
状態:自己識別確定
名称:ミナ
回収対象外:一時保留
その記録を見下ろす
人型の影があった。
性別不明。
年齢不明。
種族不明。
ただ、
人の形をしている。
「……想定外だ」
声は、
感情を持たない。
「名称を
自ら選択した個体は、
回収優先度が下がる」
影は、
指を動かす。
備考:
本個体は
“捨てられた役割”ではなく
“拾われた存在”に移行中
「……観測を継続する」
名は、
まだ出さない。
名を出すのは、
関与すると決めたときだけだ。
――――――
詰所に戻る。
ミナは、
紙を折って
胸にしまった。
そのとき、
背後から声がした。
「決まった?」
ユウキだった。
「……うん……」
「呼んでいい?」
ミナは、
一瞬だけ間を置いてから
頷いた。
「……いい……」
「ミナ」
その呼び声に、
ミナは
ちゃんと振り向いた。
逃げなかった。
それだけで、
十分だった。
「……よばれた……」
ミナは、
少しだけ笑った。
「……これ……
わたし……」
ユウキは、
それ以上
何も言わなかった。
名前を
受け取る必要は、
もう無い。
すでに、
そこに在ったからだ。




