期限の更新
管理局からの通知は、紙一枚だった。
簡潔で、事務的で、感情がない。
【案件番号:5-α】
対象市民ノア
状態:役割未割当(不安定)
処理期限:更新
残り三日
ユウキは、その紙を静かに畳んだ。
「短くなってるな」
ミーナが苦笑する。
「五日って言ってなかった?」
「“猶予”は状況で変わる」
カルディアの声が、背後から聞こえた。
いつの間にか、そこに立っている。
「昨日の処理で、基準が一段階引き上げられた」
「誰が?」
「世界だ」
カルディアは当然のように言う。
「未確定物が増えれば、処理は早まる。
これは懲罰じゃない。最適化だ」
ユウキは答えなかった。
代わりに、街を見た。
清掃の行き届いた通り。
壊れたまま放置されていた外灯は直り、
危険だった路地には立ち入り禁止札が増えている。
「……街は良くなってるな」
「そうだ」
カルディアは肯定する。「君の働きも含めてな」
だからこそ、厄介だった。
ノアの部屋を訪ねると、彼は荷物をまとめていた。
「引っ越しですか?」
「ええ」
ノアは笑った。「管理局の人に言われて」
「どこへ?」
「分からないんです」
彼は正直に言う。「でも、“ここじゃない”って」
部屋は狭い。
それでも、生活の跡がちゃんとあった。
壁の傷。
壊れかけの机。
拾ってきた部品で直した椅子。
ユウキの視界に、淡い線が走る。
拾得対象:未確定記憶(低密度)
処理可否:判断待ち
《世界から捨てられた手》が、反応している。
だが、今は掴めない。
「不安は?」
ユウキが聞く。
「あります」
ノアは即答した。「でも……最近、少し楽なんです」
「楽?」
「考えなくていいって言われたので」
その言葉は、重かった。
帰り道、レオルが口を開く。
「……助けないんですか?」
「助ける、って何だ?」
ユウキは問い返す。
答えは出ない。
管理局の塔が、遠くに見える。
白くて、静かで、正しい建物。
その最上階で、第三の回収者はもう一度ログを更新していた。
「対象、安定傾向」
淡々とした声。「期限、妥当」
誰も、間違っていない。
だからこそ、残り三日が――短すぎた。
ノアの変化に最初に気づいたのは、マルタだった。
「……あの子、飴いらないって言ったのよ」
それは、ありえないことだった。
ノアは甘いものが好きだった。
少なくとも、“好きだったこと”は、皆が知っている。
「嫌いになったんですか?」
「ううん」
マルタは首を振る。「嫌い、って感じでもないの。……どうでもいい、って顔」
ユウキは黙っていた。
ノアの部屋を訪ねると、扉は開いていた。
中は、妙に整っている。
物が減っているわけじゃない。
配置が、意味を失っている。
「来てくれたんですね」
ノアは笑った。
だが、その笑顔は“形”だけだった。
「最近、どうだ?」
「普通です」
即答だった。「問題ありません」
その言い方が、管理局の書式と同じだった。
「夢は?」
「見ません」
少し考えてから言う。「見なくなりました」
部屋の隅に、壊れた懐中時計があった。
前は大事そうに直していたはずだ。
「それは?」
「……何でしたっけ」
ユウキの胸の奥で、何かが沈む。
視界に、薄い表示が浮かんだ。
拾得対象:未確定感情(自己帰属率 32%)
回収優先度:中
期限:48時間未満
数値が、初めて赤くなっている。
「ノア」
名前を呼ぶと、彼は一拍遅れて反応した。
「はい」
「ここにいたいか?」
ノアは、しばらく黙った。
考えているというより、
検索しているような間だった。
「……どちらでも」
その答えは、間違っていない。
だが、人間の答えでもなかった。
帰り道、レオルが声を絞り出す。
「このままにしたら……」
「消える」
ユウキは言い切った。
「死ぬわけじゃない。
でも、“誰だったか”はいなくなる」
ミーナが歯を食いしばる。
「それ、救済なんですか」
「世界にとってはな」
その夜、管理局から正式通告が届いた。
処理期限:48時間
以後の猶予なし
カルディアの署名がある。
追伸は一行だけ。
判断をしないことも、判断だ。
《世界から捨てられた手》が、
インベントリの奥ではっきりと開いた。
拾えば、戻せるかもしれない。
拾えば、世界の手順を壊す。
拾わなければ、
“正しい処理”が行われる。
ユウキは、初めて思った。
――遅延は、逃げだったのかもしれない。
夜明け前、ユウキは一人で街を歩いていた。
清掃用具は持っていない。
仕事ではない時間。
それでも足は、自然と“例の工房”へ向かっていた。
規制線は外されている。
何もなかった場所として、すでに処理済みだ。
建物の跡地に、朝露が落ちている。
ユウキが一歩踏み出した瞬間、
足裏の感触が、違った。
「……残ってるな」
何かがある。
だが、目に見えない。
《世界から捨てられた手》が、
自動的に反応を開始する。
検出:未回収片(人格残滓)
由来:役割未割当市民/軽量化処理後
状態:断片
ユウキは、思わずしゃがみ込んだ。
空気を掴むように、手を伸ばす。
その瞬間、指先に“重さ”が触れた。
ほんの一瞬。
作業台の匂い。
失敗した時の舌打ち。
直らなかった時計。
「……ああ」
声が漏れる。
これはゴミじゃない。
だが、資源でもない。
残り物だ。
ユウキの脳裏に、カルディアの声がよぎる。
判断しないことも、判断だ。
第三の回収者の声も。
意思は、重さにならない。
だが今、
この“断片”は、確かに重かった。
ユウキは、手を引っ込めた。
掴まなかった。
――掴めなかった。
その時、背後で足音がした。
「やっぱり、来てましたか」
カルディアだ。
珍しく、部下を連れていない。
「これは、仕事外だ」
「分かっています」
カルディアは静かに言う。「だが、警告はする」
「もう、余地は少ない」
「ノアの件?」
「それも含めて」
彼は周囲を見渡す。「世界は、片付けを始めている」
ユウキは立ち上がった。
「拾えば?」
「例外になる」
即答だった。「前例は、すべて問題を拡大した」
「拾わなければ?」
「誰も困らない」
その言葉に、ユウキは笑った。
ほんの少しだけ。
「……困らない、か」
工房の跡地を見下ろす。
誰も覚えていない場所。
もう二度と使われない名前。
それでも、
触れた感触だけは、確かに残っている。
ユウキのインベントリで、
《世界から捨てられた手》が、初めて警告を出した。
注意:回収を行った場合、不可逆変更が発生します
警告文の下に、
小さく、こう続いていた。
それでも、拾いますか?
ユウキは、答えなかった。
だが、もう分かっていた。
次にこの手が動く時、
それは“仕事”じゃない。
責任だ。




