逃げる場所は、もう無い
夜のギルド裏口は、ひどく静かだった。
灯りは落とされ、見張りもいない。
普段なら考えられないことだが、今はそれが“普通”になっていた。
「……よし」
男は、周囲を見回してから小さく息を吐いた。
ギルド幹部の一人――記録管理を担当していた男だ。
「今なら、誰も気づかない」
そう思っていた。
だからこそ、革袋を抱えたまま、足早に裏路地へ踏み出した。
中身は、書類。
未公開区画の封鎖判断。
管理未登録物資の一覧。
そして、処分予定だった記録の写し。
「これさえ持ち出せば……」
言い訳はいくらでも作れる。
責任は上に。
判断は現場。
自分は、命令に従っただけ。
そういう筋書きを、何度も頭の中でなぞってきた。
「……?」
路地の先に、人影があった。
背の低い、細身の影。
灯りに照らされて、静かにこちらを見る。
「……誰だ」
男が声を荒げる。
影は、ゆっくりと一歩前に出た。
「こんばんは」
リィナだった。
手には、何も持っていない。
だが、その立ち位置が異様だった。
「……なぜ、ここに」
「掲示板の整理が終わったので」
それだけ答える。
男は、革袋を背中に回した。
「どけ。急いでいる」
「急ぐ理由、ありますか?」
淡々とした問い。
「……関係ない」
男が歩き出そうとした瞬間、路地の奥から別の声がした。
「関係、あるわよ」
マルタだった。
いつもの穏やかな顔だが、今は笑っていない。
「その袋、重そうね」
「どけ!」
男は叫んだ。
その瞬間、路地の両端に影が増える。
王都の役人。
無言で、進路を塞ぐ。
「……な、なぜ」
男の声が震える。
答えたのは、役人の一人だった。
「あなたが出ると、掲示板の紙が一枚ずれる」
男は、意味が分からず固まる。
リィナが、静かに続けた。
「業務記録は、掲示板の配置と連動しています」
「あなたが触れた時点で、記録は更新されました」
革袋が、床に落ちる。
中から、紙が散らばった。
役人は、それを一枚拾い上げる。
「未公開区画・管理部署」
次の一枚。
「封鎖判断・責任者名」
そして、最後の一枚。
「……証拠隠滅予定」
男は、その場に崩れ落ちた。
「……違う、俺は……」
「違わないわ」
マルタが、静かに言った。
「あなた、飴もらいに来たこと、なかったもの」
その一言が、妙に重かった。
役人が、淡々と告げる。
「身柄を預かります」
男は、抵抗しなかった。
できなかった。
その頃。
ユウキは、いつもの路地でゴミ袋を結んでいた。
「今日は、よく拾えるな」
袋を持ち上げ、満足そうに頷く。
その夜、
ギルド幹部の一人が“自主的に姿を消した”という噂が流れた。
正確には、
消えた場所が、はっきりしすぎていただけだった。
王都の会議室は、静かだった。
広い机。整えられた椅子。
装飾は最低限で、感情の入り込む余地がない。
「――では、確認します」
役人が書類をめくる。
「未公開区画への立ち入りについて。あなたは、指示を受けましたか?」
ユウキは首を振った。
「いいえ」
「命令は?」
「ありません」
「報酬の約束は?」
「ないです」
役人は頷き、淡々と書き込む。
「清掃を行った理由は?」
「散らかっていたので」
少しだけ、間が空いた。
だが誰も笑わない。
「危険物だと理解していましたか?」
「はい」
「それでも触った理由は?」
「放置されていたからです」
役人はペンを置いた。
「以上です」
レオルが思わず声を上げる。
「……終わり、ですか?」
「はい」
ミーナが眉をひそめる。
「責任の所在は?」
「別途確認します」
その言い方が、すべてだった。
役人はユウキに向き直る。
「あなたは、関係者ではありません」
「分かりました」
「今後も、同様の行為を?」
ユウキは少し考えた。
「掃除の範囲なら」
役人は、わずかに頷いた。
「問題ありません」
それで終わった。
怒号も、詰問も、称賛もない。
ただ、事実だけが机の上に残った。
会議室を出ると、ガルドが小さく笑った。
「……拍子抜けだな」
「処理って、こういうものよ」
ミーナが答える。
廊下の向こうでは、別室に呼ばれたギルド関係者たちの声が、かすかに聞こえた。
だが、こちらには届かない。
ユウキは、外に出て空を見上げる。
「じゃあ、仕事戻ります」
その背中を、誰も止めなかった。
その日の夕方。
王都の掲示板に、一枚の通知が貼られた。
《冒険者ギルド
業務停止・再編中》
理由は、書かれていなかった。
書く必要が、なかったからだ。
夕方の王都は、奇妙な空気に包まれていた。
騒ぎはない。
怒号もない。
ただ、人の流れが少しだけ変わっていた。
「……あれ?」
ギルド前を通りかかった冒険者が、足を止める。
「扉、閉まってね?」
「掲示見ろよ」
掲示板の中央に、一枚だけ紙が貼られている。
《冒険者ギルド
業務停止・再編中》
それだけだった。
「……え、終わり?」
「理由、書いてねえぞ」
「逆に怖えな」
ざわめきは広がらない。
代わりに、噂が静かに繋がっていく。
「未公開区画の件らしい」
「清掃員が入ったってやつ?」
「ああ。拾いすぎたらしい」
「拾いすぎると、ギルドが止まるのか……」
誰かが、ぽつりと言った。
「じゃあ、あいつ何者なんだよ」
その頃、ユウキは路地裏でゴミ袋を結んでいた。
「今日は少ないな」
袋を持ち上げ、満足そうに頷く。
「管理、良くなったのかな」
角を曲がると、マルタがいた。
「おかえり」
「ただいまです」
彼女は、いつものように飴を差し出す。
「今日の分。ちょっと多め」
「ありがとうございます」
「働いた人は、甘いもの必要だから」
それ以上は、何も言わなかった。
少し離れた場所で、レオルたちが話している。
「ギルド、止まったってよ」
「……俺たち、どうなるんだ?」
「さあな。でも」
ガルドがユウキを見る。
「少なくとも、あいつは関係ねえ」
ミーナが静かに頷いた。
「仕事しただけだもの」
夕暮れ時、別の掲示板に新しい紙が貼られる。
《清掃・保全業務
臨時受付:王都管理局》
冒険者たちが、顔を見合わせた。
「……ギルド通さない依頼?」
「時代、変わるな」
ユウキは、その前を通り過ぎる。
「清掃、増えそうですね」
誰も否定しなかった。
その夜。
王都では、誰も祝杯を上げなかった。
誰も怒鳴らなかった。
ただ、
ちゃんと働いていた人だけが、
明日も同じ時間に仕事をしていた。
それだけだった。




