期限の外側
三日目の朝は、静かだった。
町の音はいつも通りだ。
だが、レインには分かる。
――今日は、何かが起きる。
理由はない。
ただ、胸の奥が妙に落ち着いている。
《目的同調》が、
完全に沈黙しているせいだ。
起きない。
ざわつきもしない。
それが、
逆に不気味だった。
宿を出ると、
通りの向こうに、見慣れた馬車が停まっていた。
昨日より近い。
昨日より、
はっきりと“用がある”距離。
(……来たか)
逃げる理由は、ない。
逃げられる状況でも、ない。
馬車の横に立っていたのは、
昨日と同じ男だった。
だが、
今日は一人だ。
「おはよう」
男は、柔らかく言った。
「時間を取らせてすまない」
柔らかい。
だが、
選択肢を削る声だ。
「期限は、今日までだったな」
確認。
圧ではない。
事実だ。
「……はい」
レインは、短く答えた。
男は、少しだけ視線を外す。
「一つ、共有しておきたいことがある」
嫌な前置きだった。
「君が戻らない場合」
男は続ける。
「別の召喚者を、同条件で動かす」
当然の話だ。
脅しではない。
だが――
「ただし」
男は、言葉を区切る。
「その者は、君ほど安定していない」
レインの胸が、
きゅっと縮む。
「……つまり」
「代替はいる」
男は淡々と言う。
「だが、被害は増える」
責任が、
静かに置かれる。
戻れば、抑えられる。
戻らなければ、誰かが壊れる。
王国は、
命令を出さない。
だが、
選択の結果は、きちんと提示する。
「君は、どうしたい」
初めて、
問いとして投げられた。
その瞬間。
《目的同調》が、
強く、反応した。
《選択肢提示》
《被害最小化》
《最適解:復帰》
はっきりと、
“正解”が浮かぶ。
頭が、軽くなる。
ああ――
これだ。
これが、
戻る前の感覚。
「……分かりました」
口が、
勝手に動きかけた。
だが、
その直前。
通りの端で、
ごみが崩れる音がした。
がさ、と。
誰も急がない音。
誰も評価しない現場。
男は、気づかない。
気にする理由がない。
だが、
レインの視線は、そちらへ引っ張られた。
壊れた箱。
転がる金属片。
通行の邪魔だが、今すぐではない。
《目的同調》は、
そちらに反応しない。
――だからこそ。
「……少し、待ってください」
レインは、
初めて、言葉で止めた。
男が、眉を上げる。
「何か?」
「……確認したいことがある」
レインは、ゆっくり言う。
「戻る前に」
男は、数秒考え――
頷いた。
「今日の夕刻までだ」
「それ以上は、待てない」
期限が、
さらに短くなる。
男は去る。
馬車が、遠ざかる。
レインは、
その場に立ち尽くした。
《目的同調》が、
まだ騒いでいる。
戻れ。
選べ。
最適解だ。
「……違う」
小さく、否定する。
正解かどうかじゃない。
――自分で選んでいるかどうかだ。
レインは、
通りの端へ歩いた。
壊れた箱を、
一つだけ、持ち上げる。
重くない。
価値もない。
だが、
今の自分が、触れるべきものだと分かる。
「……ああ」
はっきりと、
分かった。
王国が拾おうとしているのは、
“能力”だ。
でも――
自分が今、拾いたいのは、
選ばない時間だった。
町の外れで、空気が変わった。
音が減ったわけでも、
人が消えたわけでもない。
ただ――
意味のある動きだけが、強調され始めた。
レインは、嫌な予感とともに顔を上げた。
視界の向こう。
臨時設営された区画。
王国の簡易結界。
補助局の標識。
そして――
人。
若い。
レインより、少し年下だろうか。
伏し目がちで、
立っているだけなのに、
どこか“使われ慣れている”姿勢。
(……あれは)
胸の奥が、
嫌なほどはっきりと反応する。
《目的同調》
強制同期開始。
「……っ!?」
レインは、思わず膝をついた。
視界が、二重になる。
自分の視界に、
別の行動ログが重なる。
走る。
止める。
守る。
自分じゃない。
だが、
“できること”が同じ。
「……同期、か」
理解してしまった。
王国は、
レインを戻すか、
代替を使うか、
どちらでもいい。
だが――
能力同士を重ねれば、判断は不要になる。
「やめろ……」
声は、かすれる。
だが、
《目的同調》は止まらない。
《被害最小化》
《最適配置》
《複数同調、安定》
頭の中で、
“正しさ”が増幅されていく。
(違う……!)
これは、救済じゃない。
効率化だ。
選ばせないための。
同期先の召喚者が、
ふらりと一歩踏み出す。
誰かに言われたわけでもない。
だが、
“行くべき場所”が見えている。
(あいつも……)
自由を求めて、
ここまで来たはずだ。
それなのに。
「……行くな」
レインは、
自分でも驚くほど強い声を出していた。
だが、
相手には届かない。
能力が、
言葉より先に動かす。
「……っ、くそ!」
レインは、歯を食いしばる。
このままでは、
同期が完成する。
二人分の“正しさ”で、
誰かが使われる。
その時――
がさり、と音がした。
視界の端。
ごみ袋が、倒れる。
誰も急がない。
誰も評価しない。
だが――
そこにだけ、同期が起きない。
《目的同調》が、
反応できない領域。
(……ここだ)
レインは、
必死にそこへ視線を固定する。
判断のいらない場所。
正しさが存在しない場所。
「……ユウキ!」
名前を呼んだ。
初めて、
はっきりと。
少し離れた場所で、
ゴミ袋を拾い上げていた手が止まる。
振り返る。
表情は、変わらない。
だが、
状況を理解する速さだけが、異常だった。
「同期か」
ユウキは、短く言った。
説明はいらない。
レインは、
震える声で言った。
「……俺」
「選びたいんだ」
《目的同調》が、
最後の抵抗をする。
《最適解提示》
《被害想定》
《拒否は非合理》
「うるさい!」
初めて、
能力に向かって叫んだ。
その瞬間――
ユウキが、
静かに前に出た。
「それ」
ユウキは言う。
「能力じゃない」
レインは、息を呑む。
「“用途指定”だ」
ユウキは続ける。
「誰かが後付けしたやつだ」
回収袋を、地面に置く。
「……拾うか」
ユウキは、ぽつりと言った。
「それとも、残すか」
判断が、
返された。
初めて。
レインは、
視線を、同期先の召喚者へ向ける。
そして――
自分自身へ。
「……拾わない」
震える声だった。
だが、
はっきりしていた。
その瞬間。
《同期解除》
《用途指定:切断》
世界が、
静かになる。
レインは、
その場に座り込んだ。
息が、
やっと戻る。
同期先の召喚者も、
膝をついている。
混乱した顔で、
周囲を見回していた。
王国の補助局員が、
慌てて近づく。
「何をした!」
ユウキは、
静かに立ち上がる。
「拾ってない」
そう言った。
「捨てただけだ」
補助局員が、言葉に詰まる。
捨てた?
何を?
ユウキは、
ごみ袋を持ち上げる。
「“用途指定”は」
淡々と言う。
「廃棄物だ」
レインは、
その言葉を聞きながら、
初めて――
胸の奥が、静かなままであることに気づいた。
《目的同調》は、
もう鳴っていない。
結界の中は、急に騒がしくなった。
補助局員が声を張り上げ、
書類がめくられ、
誰かが指示を飛ばす。
だが――
中心だけが、妙に静かだった。
レインは、地面に座ったまま、
ゆっくり呼吸を整えていた。
胸の奥は、静かだ。
《目的同調》は、
完全に沈黙している。
壊れたわけじゃない。
消えたわけでもない。
使われていないだけだ。
同期していた召喚者が、
ふらつきながら立ち上がる。
「……え?」
目が、泳いでいる。
自分がどこにいるのか、
なぜここにいるのか、
分かっていない。
「大丈夫か」
レインは、自然に声をかけていた。
相手は、驚いたようにこちらを見る。
「……あ、はい」
「たぶん……」
震えている。
だが、怯えてはいない。
少なくとも、
“引っ張られている感じ”は消えている。
補助局員が、険しい顔で近づいてきた。
「説明を求める」
「今の現象は――」
「仕様外」
ユウキが、被せるように言った。
声は低く、静か。
「用途指定の重ね掛け」
「同期を安定化させるための暫定措置」
「正式な契約、ないですよね」
補助局員は、口を閉ざした。
ある。
だが、表に出せない。
「……記録は?」
ようやく、そう言う。
「残る」
ユウキは即答した。
「“失敗事例”として」
失敗。
それだけで、
王国は一歩、引く。
「今日は、ここまでだ」
補助局員は、歯切れ悪く言った。
「再調査が必要になる」
撤退。
完全な敗北ではない。
だが、押し切れなかった。
人が、散っていく。
結界が、解かれる。
町の音が、戻ってくる。
何事もなかったように。
レインは、立ち上がった。
足元が、少しだけ軽い。
「……ありがとうございました」
そう言ってから、
自分で驚いた。
礼を言うつもりなんて、なかったのに。
ユウキは、首を横に振る。
「礼はいらない」
「……でも」
「拾ってない」
ユウキは繰り返す。
「判断を返しただけだ」
それは、
最初に聞いた言葉と同じだった。
「……俺」
レインは、少し考えてから言う。
「まだ、どうするか決めてません」
「それでいい」
ユウキは言った。
「決めない時間も、選択だ」
同期していた召喚者が、
おずおずと口を開く。
「……あの」
「俺、帰らなきゃいけないんですか」
補助局は、もういない。
命令も、ない。
レインは、
一瞬だけ迷い――
首を横に振った。
「今は、いい」
「少なくとも、今は」
その言葉で、
相手の肩から力が抜けた。
「……ありがとうございます」
小さな声。
それで十分だった。
ユウキは、
倒れたゴミ袋を起こす。
中身が、少しこぼれる。
価値のない金属片。
用途不明の部品。
「……これ」
レインが言う。
「どうするんですか」
ユウキは、少し考えてから答えた。
「今日は、拾わない」
「邪魔じゃないからな」
置いていく。
判断した上で。
レインは、その背中を見た。
何も持たない。
何も縛られない。
だが、
確かに立っている。
「……俺も」
言いかけて、
言葉を飲み込む。
今は、まだ。
町は、回っている。
王国は、引いた。
能力は、眠っている。
そして――
選ばない時間だけが、ここに残った。
レインは、
それを大切に思える自分に、
少しだけ驚いていた。




