拾われなかった小さな事故
ラグド交易環の朝は、昨日より少しだけ早かった。
ギルド前の掲示板は、すでに半分が埋まっている。
貼る手と剥がす手が交錯し、紙の角が空気を切る。
「……昨日より速いな」
ガルドが言った。
「昨日の処理数が評価に反映されたのでしょう」
ミーナは淡々と答える。
「回転率が上がると、要求も上がります」
ユウキは、掲示板の端を見ていた。
人が集まらない場所。
視線が流れていく場所。
《小規模損壊・確認依頼》
《優先度:低》
《判断要》
紙は新しいが、端が少し折れている。
「判断要、か」
レオルが覗き込む。
「珍しいですね」
「この町じゃ、な」
ガルドが鼻を鳴らす。
「誰も取りたがらねぇ」
その時、ギルド内が一瞬ざわついた。
「紅迅、出るぞ!」
「次は中央環、反応強!」
カイルの声は短い。
指示も短い。
返事は、ほぼ同時。
四人は、走るように出ていった。
残された掲示板の前で、
《判断要》の紙だけが、静かに揺れている。
「……行かないのか?」
ガルドがユウキを見る。
「行かない」
ユウキは即答した。
「“判断要”は、急がない」
ミーナが補足する。
「急ぐと、“不要な判断”になります」
その直後だった。
外から、鈍い音。
悲鳴ではない。
だが、軽くもない。
「……ん?」
レオルが耳を澄ます。
ギルド職員が、慌てて駆け込んできた。
「南通路で、荷車が転倒!」
「軽傷者あり、通行一部停止!」
「魔獣か?」
誰かが聞く。
「いえ!」
職員は首を振る。
「足場の沈み込みです!」
一瞬、空気が止まる。
「……あれ?」
レオルが小さく言う。
「さっきの《判断要》……」
ユウキは、もう歩き出していた。
「現場、近い」
「行こう」
南通路は、人で溢れていた。
荷車が横倒しになり、木箱が散乱している。
中身は、金属部品と日用品。
派手さはない。
「大丈夫ですか!」
誰かが声をかける。
「足、ひねっただけだ!」
荷主の男が答える。
「……くそ、ここ沈むなんて聞いてねぇぞ」
ミーナが、足元を見る。
「地盤が削れています」
「昨日の雨と、荷重の集中ですね」
「つまり」
ガルドが言う。
「昨日今日の問題じゃねぇ」
ユウキは、通路脇に目をやった。
小さな亀裂。
目立たない。
だが、連続している。
腕の金属板が、微かに鳴った。
《誰も見ていない価値》
反応:低
継続検知
「……やっぱりな」
ユウキは呟いた。
レオルが聞く。
「何かあります?」
「事故未満」
ユウキは答える。
「でも、放っとくと“次”が出る」
ギルド職員が、周囲に指示を出す。
「通行止め!」
「修繕班を――」
「待って」
ユウキが、静かに言った。
職員が戸惑う。
「え?」
ユウキは、地面の亀裂を指差した。
「ここ、全部じゃない」
「“沈む場所”が、決まってる」
ミーナが即座に頷く。
「荷重の偏りです」
「今止めるなら、部分的で足ります」
ガルドが笑う。
「全部止めたら、流れが死ぬもんな」
職員は、少し考え――
頷いた。
「……了解」
「部分封鎖に切り替えます!」
通行止めの範囲が縮まる。
人の流れが、再び動き出す。
荷主の男が、ほっと息を吐いた。
「助かった……」
「全部止まったら、今日の仕事終わってた」
ユウキは、箱を一つ拾い、元の位置に戻した。
拾いすぎない。
直しすぎない。
「……これが」
レオルが小さく言う。
「“判断要”の仕事なんですね」
「そうでもない」
ユウキは首を振る。
「ただ、“遅らせただけ”だ」
ミーナが続ける。
「ですが」
「遅らせることで、事故を避けられる場合もあります」
遠くで、依頼完了の声がまた響く。
紅迅は、今日も順調だ。
だが――
誰も見ていなかった小さな亀裂は、
確かに“拾われた”。
それは、評価にも点数にもならない。
けれど、
次に壊れるはずだったものは、壊れなかった。
ユウキは、南通路の先を見た。
「……もう一件、似たのがある」
「今度は、“止めないと危ない”やつだ」
ガルドが、拳を鳴らす。
「そっちは戦闘か?」
「戦闘前」
ユウキは答えた。
「判断の、分かれ目だ」
——速すぎる町は、
今日も“見えない問題”を走り抜けている。
それに気づいた者は、まだ少ない。
南通路から少し離れた区画。
人の流れは多いが、足取りが微妙に乱れている。
急ぐ者、立ち止まる者、避ける者。
「……ここか」
ガルドが言った。
「はい」
ミーナが地図を閉じる。
「事故報告は出ていません」
「その代わり、依頼完了数が異常です」
「完了?」
レオルが首を傾げる。
「問題があるのに?」
ユウキは、通路沿いの露店を見た。
店主は、商品を並べ直しながらも、
何度も足元を気にしている。
「……なあ」
ユウキが声をかける。
「ここ、揺れるか?」
店主は一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「揺れる」
「でも、報告したら通行止めだろ?」
「可能性は高い」
ユウキは答える。
店主は、苦笑した。
「じゃあ言えねぇ」
「今日は稼ぎ時なんだ」
ミーナが、低く言う。
「判断が、現場に押し戻されていますね」
その時だった。
「よし、回収完了!」
張りのある声。
振り向くと、
紅迅の回収班が、通路中央で作業を終えたところだった。
壊れかけの足場。
緩んだ固定杭。
それらをまとめて撤去し、印をつけている。
「早いな」
ガルドが感心半分で言う。
「早すぎる」
ユウキは即答した。
カイルが、こちらに気づいた。
一瞬だけ目を細める。
「……ギルドの客か?」
「珍しいな、判断要の連中がここにいるとは」
「判断要?」
レオルが反応する。
「即時回収じゃないやつ」
カイルは肩をすくめた。
「効率が悪い」
ミーナが、静かに聞く。
「この足場、撤去後の対応は?」
「後で修繕班が来る」
カイルは即答した。
「回収が先だ」
ユウキは、撤去された跡を見る。
杭は抜かれ、
土はむき出し。
「……今は?」
ユウキが聞く。
「今?」
カイルは眉をひそめる。
「今は、通れる」
ユウキは、何も言わず一歩踏み出した。
ぐらり、と地面が沈む。
「おい!」
ガルドが叫ぶ。
ユウキは、踏みとどまった。
沈みは浅い。
だが、確実だ。
「ほらな」
ユウキは言った。
「“今”が一番危ない」
カイルの表情が、わずかに変わる。
「……だから全部撤去した」
「危険物は残してない」
「残ってる」
ユウキは足元を指した。
「“通れる”って判断が」
レオルが息を呑む。
「回収したことで……逆に……」
「判断が軽くなった」
ミーナが言った。
「通行可能と誤認されます」
周囲の人々も、足を止め始めていた。
「おい、通っていいのか?」
「さっき揺れたぞ」
カイルは、一瞬言葉に詰まる。
「……修繕班が来るまで」
「立ち入り制限を――」
「遅い」
ユウキが遮った。
「今ここで、止めろ」
「それじゃ流れが――」
カイルが言いかける。
「流れが死ぬ?」
ユウキは淡々と言う。
「それとも、人が怪我する?」
空気が、張りつめた。
カイルは、歯を噛みしめる。
「……止める!」
回収班が、即座に動く。
簡易柵が出され、人が誘導される。
露店の店主が、安堵の息を吐いた。
「助かった……」
人の流れは、迂回しながらも続く。
完全には止まらない。
ミーナが、低く言う。
「最小限の停止ですね」
「そう」
ユウキは頷いた。
「回収より、判断を戻しただけだ」
カイルは、ユウキを睨むように見た。
「……あんた」
「俺たちの仕事を、否定する気か?」
「否定しない」
ユウキは答える。
「速さは、強みだ」
「だったら――」
「速さだけで走ると」
ユウキは続ける。
「見えない足元を踏み抜く」
一瞬の沈黙。
周囲では、また別の依頼完了の声が上がる。
カイルは、視線を逸らした。
「……覚えとく」
それだけ言って、紅迅は離れていった。
レオルが、小さく息を吐く。
「正面衝突、でしたね」
「違う」
ユウキは首を振る。
「すれ違っただけだ」
ガルドが笑う。
「どっちが正しいかは、後で分かるな」
ユウキは、簡易柵の向こうを見る。
揺れは、まだ残っている。
「次は」
ユウキは言った。
「“拾わないと壊れる”現場だ」
ミーナが頷く。
「回収の速さが、必要な場所ですね」
判断が速すぎる町で、
判断が遅すぎると、今度は事故が起きる。
その境目が、
いよいよ見え始めていた。




