男 その後
彼は、あの防音室を使わなくなった。
正確には、使えなくなった。
彼女が去ってからしばらくして、ようやくひとつの事実を言葉にできた。
自分は、彼女のことを想っていた。
おおげさな恋ではない。
手を伸ばす勇気もなかった。
ただ、彼女がそこにいて、長く一緒に働いて、夜も一緒のオフィスにいて。
このまま続けば、いつかは。
そんな根拠のない未来を期待してしまっていた。
仕事をまわすのも、頼るのも、「彼女ならわかってくれる」「彼女なら応えてくれる」
そう思っていた。
「彼女は優秀だ」「彼女は優しい」「彼女は俺を理解してくれている」。
それは信頼だと、好意だと思っていた。
少なくとも、悪意ではなかった。
だが、今ならわかる。
それは恩の鎖で縛った献身の強要だった。
彼女が去った後、数件の仕事が滞った。
当然だ。彼女がやっていた仕事量は、もともと到底一人で賄える量ではなかった。
彼女の言葉が、何度も脳裏によみがえる。
「返済は終わりました」
彼は、その言葉に打ちのめされた。
感情を担保にしてはいけなかった。
彼は、彼女に連絡をとらなかった。
自分の想いを伝えることも、彼女の心と時間を再び奪う行為だと理解したから。
それは愛ではなく、懺悔でもなく、再侵入だ。
相手が弱っているときに芽生えた想いは、気づかないうちに力の勾配を生む。
善意と恋情は、取り違えると刃物になる。
彼は、仕事のルールを書き換えた。
・依頼には、必ず上限時間を書く
・断られても、理由を求めない
・成果物と人格を結びつけない
だが、それ以上に、自分の内側を書き換える必要があった。
想っているからと、頼っていいわけじゃない。
期待しているからと、境界線を越えていいわけじゃない。
それは、自分が「いい人間」でいられなくなる覚悟でもあった。
駅前のコンビニの前を通る夜、冷たい風が吹く。
3年前にスープを買った自分と、防音室の扉の前で安心してコーヒーを淹れていた自分が重なって見える。
彼はもう
「救った人と未来を共有できるかもしれない」
という幻想を抱かない。
想いがあったことは否定しない。
だが、救ったつもりで、その想いを相手の犠牲の上で育てたことは、一生忘れないでいよう。
後悔は消えない。
恋も、もう戻らない。
それでも彼は、誰かを想うときは、まずその人の羽がどこにあるのかを必ず確かめる人間になりたいと思った。




