鶴 その後
彼女は、もう飛ばなかった。
正確には「飛ばなくてもいい距離」だけを自分の足で歩いていた。
仕事は減った。
収入も、一時的に下がった。
でも、夜に防音室へ入る必要は、なくなった。
最初のうちは、不安で手が勝手に急いだ。
頼まれていない修正まで入れそうになり、そのたびに指を止める。
「私の契約はここまで」
声に出して言う。
自分と世界の境界線は、毎日、毎回、引き直す必要がある。
ある日、彼女は仕事の依頼を断った。
丁寧に理由を書いた。
断りのメールを送信後、胸はざわついたが、世界は終わらなかったし、振り落とされることもなかった。
彼女のなかの屈託が、白い羽毛のように、ひとひら抜け落ちた。
今ならわかる。
羽を抜いて反物を織り続けることも。
開けてはいけない扉を開けてしまうことも。
どちらも、境界線の扱い方を知らなかっただけなのだ。
彼女は、プロフィールの文章を少し書き換えた。
「恩は、命で返さない。でも、おぼえています」
夜明け前、窓を開ける。
早朝の冷たい空気が流れ込む。
飛べる高さは、昔より低い。
それでも、落ちない。
それが、彼女の魂にとっての自由だった。
ブラック職場で働いた人には身に覚えがあるはず。
頼られているのと、便利ツールとして重宝されるのとは、似ているようでまるで違う。
自己肯定感の低い人はそれにすがってしまう。
自己と世界を正しく認識しよう。
自分に呪いをかけてはいけない。




