男
夜の自動ドアが閉まる音は、古い扉の軋みよりもずっと静かだ。
それでも、閉じられる重さは同じだった。
---
「集中して作業したいので、覗かないでくださいね」
彼女はそう言って、ノートPCを手に、オフィス奥の防音室に入って扉を閉めた。
彼は扉をしばらく眺めて立ち尽くしていた。
「大丈夫だろうか」
いつもの言葉が、いつもの調子で浮かぶがすぐに消える。
大丈夫だ。彼女はいつもうまくやってくれる。
彼女に逢ったのは、3年前の冬だった。
雪がしんしんと降る深夜の駅前で、蹲っていた。
声をかけたのは衝動だった。放っておけなかった。それだけだ。
スープを買い、オフィスの仮眠室で眠らせた。
英雄的なことは何もしていない。純粋に親切心。彼自身、そう思っていた。
それなのに。
彼女は、それ以来ずっと「応えて」くれた。
頼めば早い。成果物は質が高い。頼まなくても察して仕上げてくれる。
「すごいね」「速いね」「本当に助かるよ」「君がいてくれてよかった」
それは事実だったし、感謝も本物だった。
彼は自分を「いい人間」だと認識していた。
感謝は言葉でちゃんと伝える。無理を強要しない。悪意もない。
だから、扉の向こうで何が削られているのかを、想像できなかった。
防音室の扉を眺めながら、彼はコーヒーを淹れる。
覗くことはしない約束だ。
だが同時に「心配だから」「様子を見るだけ」という言い訳が浮かぶ。
そのときだった。
扉が開き、彼女が出てきて言った。
「助けてくれたことには感謝しています。でも、返済は終わりました」
その言葉が、彼の中で何度も反響した。
返済。
彼は初めて、自分が献身の強要をし続けていたことに気づく。
恩は返され続けるものと、どこかで思っていた。
返される間、自分は「いい人間」でいられるから。
彼はただ頷いた。
言葉を探しているうちに、彼女はもう歩き出していた。
「俺は……」
遅れて出た声は、言い訳になりそうで、飲み込んだ。
彼女が去った後、彼は防音室の中を見た。
彼女のため息が、白い羽毛のように床に降り積もっている。
外はまだ夜明け前だった。
彼女は地下鉄に向かい、彼はコーヒーカップを洗った。
同じ朝に向かっていても、もう同じ場所には戻れない。
「恩は、命で返さない」
その一文が彼女のプロフィールに書き足されたことを、彼は後で知る。
善意は、使いまわすと鈍器になる。
彼はそれを、彼女に教わった。
彼は初めて、自分の立っている場所の重さを自覚しながら、朝を待った。




