鶴
夜の自動ドアが閉まる音は、古い扉の軋みよりもずっと静かだ。
それでも、閉じる重さは同じだった。
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「集中して作業したいので、覗かないでくださいね」
彼女はそう言って、オフィス奥の防音室に入り、鍵をかけた。
WiFiは弱く、空調は古い。
彼女はノートPCを開き、ショールを羽織る。
一本、また一本、白い羽毛が落ちるように、心の奥が少しずつ削れて、薄く軽くなってゆく。
彼に逢ったのは、3年前の冬。
雪がしんしんと降る深夜の駅前、彼女は力尽きうずくまっていた。
スマートフォンは止まり、所持金は千円以下。
羽は濡れて重く、凍り付き、もうどうやっても飛べなかった。
「大丈夫ですか」
通りすがりの彼の一言と、コンビニの明かりと、熱いスープ。
名前も素性も問われなかった。
ただ、凍えた身体が温まるまで、黙って隣に座っていてくれた。
そして彼のオフィスに一緒に来るように誘われ
「今日はここで休んでいいですよ」
と、オフィスの仮眠室を提供してくれた。
シャワーも、毛布も、電源もある、と。
それだけだった。
だが、彼女にとっては、世界から落ちかけた瞬間に差し出された、唯一の救済だったのだ。
それから彼女は、彼のオフィスで、彼がまわしてくれる制作の仕事を請け負うようになった。
文章、デザイン、ちょっとしたコード。
クラウドソーシングの最下層。
納期だけが神で、彼女の名前は残らない。
成果物は、彼の会社や取引先を経由して吸い上げられていった。
ありがとう、はいつも言われた。
報酬はいつも「今回は厳しくて」。
彼女は羽を抜き、反物を織り続けた。
助けられたのだから。
恩を受けた分、返さなければ。
そう思い込むことが、彼女に与えられた秩序だった。
扉の向こうのオフィスで、彼がコーヒーを淹れている気配がする。
「すごいね」「速いね」「本当に助かるよ」
覗こうとするのは、善意と無自覚の境目にある。
悪意ではない。だから拒みにくい。
締め切り前の夜、彼女は手を止めた。
自分の作業ログを開く。
過去三年分の納品履歴、評価、報酬。
淡々と並ぶ数字は嘘をつかない。
彼女が抜き続けた羽に対して、世界はほとんど何も報いていなかった。
そのとき、ようやく気付いた。
彼が助けてくれたのは、あの「凍えていた一晩」だけ。
それ以降、自分が勝手に尽くしていたのは、感謝でも恩返しでもなく、ただの承認欲求による自己消費だ。
防音室の扉が軋んだ。
彼がノブに触れている。
「進捗どう?ちょっと様子を見せて」
彼女は立ち上がり、扉を開けて彼に告げた。
「助けてくれたことは感謝しています。でも、返済は終わりました」
沈黙。
彼はとまどい、そして、ゆっくりうなずいた。
外は夜明け前だった。
彼女はショールを羽織り直す。
抜かれずに残った羽は、まだあたたかい。
地下鉄の入口に向かいながら、スマートフォンでプロフィールを書き換える。
最低単価をあるべき値に修正し、範囲を狭め、休日を明記する。
最後に、一文だけ書き足した。
「恩は、命で返さない」
改札を抜ける。
空はまだ暗い。
それでも、飛べる分だけでいい。
彼女は、自分の重さを取り戻しながら歩きだした。
「見られたからにはここにいられません」になるまで現状にしがみつくのではなく
鶴は自分の意思で扉を開けて出ていく勇気と自己肯定感を持ってほしい




