視線の先に、わたしはいなかった
土曜の午後、渋谷
湿気を含んだ風が、ビルの隙間を縫うように吹き抜けていた。
凛に「空いてる?」と誘われて、私はなんとなく頷いた。
連れてこられたのは、渋谷の裏通りに佇むライブハウスだった。
待ち合わせ場所に現れた凛を見たとき、一瞬、誰か分からなかった。
黒を基調にしたミニスカートに、赤いグロス。
髪は高めの位置で結ばれていて、いつものゆるい雰囲気とはまるで違う。
「……すごい、なんか、普段と全然印象違うね」
そう言うと、凛はちょっと照れたように笑って、
「彼氏が、こういう服装好きみたいでさ」
と、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「あおちゃん。今日、彼氏のバンド出るの」
そう言って凛は、チケットを差し出した。
笑った唇に、赤いグロスが滲んでいる。
私の胸の奥で、見えない針がひとつ、ちくりと刺さった。
ガラスの引き戸を抜けて中へ入ると、熱気と湿度が、肌にまとわりついてきた。
バンドのリハ音が、まるで地鳴りのように低く鳴っている。
香水と汗の匂い、ざわめき、暗い照明。
いつものカフェとは違う、渋谷の夜が始まる場所。
「すごい人……」
「今日は結構人気のバンドが集まるからね。もうちょいギター寄りのところ行こ」
そう言って、凛は私の手を、ひょいと引いた。
ふいに伸ばされたその指先は、細くて、白くて、どこか儚げで――
気づけば私は、静かにその手を握り返していた。
あたたかかった。
数分後、場内の照明がふっと落ちる。
歓声が上がり、ステージに光が差した。
そこに立っていたのは、
黒いTシャツにボロボロのジーンズ、ギターを抱えた男――凛の彼氏だった。
前髪が目にかかっていて、顔はよく見えなかったけれど、そのシルエットは、不思議と目を惹いた。
音が鳴った瞬間、凛の身体がピクリと揺れた。
その横顔が、ぱっと華やいで見えた。
(ああ、今――凛の世界には、私なんて映ってないんだ)
視線はステージに釘付けで、口元がほんの少し開いている。
まるで恋する少女みたいに、彼女はうっとりとその姿を見つめていた。
「……すごいね」
私がぽつりと呟いても、返事はなかった。
代わりに、光の中に浮かぶ男の影を、その目でただ、飢えるように追いかけていた。
その表情があまりに綺麗で――
同時に、残酷だった。
さっきまで繋いでいた手の温度が、指先から抜けていく。
あの指は、本当は、誰のものだったんだろう。
私の胸に、言葉にならない焦げ跡が残った。
ふと視線が合い、凛はニコッと笑った。
けれど、凛の目はすぐに、また前を向いてしまった。
――ライブが終わると、観客たちが波のように出口へ流れていった。
床にはペットボトルと踏みしめられたフライヤー。
熱気と音が去っていった後の空間には、少し冷たい風が吹いていた。
「差し入れ、持っていってくるね。……ちょっとだけ、待ってて」
凛はそう言い、笑って手を振ると、スタッフ専用のドアの奥へと姿を消した。
私はうなずいて、その場に残った。
ほんの数分。
スマホを見たり、缶コーヒーに口をつけたりしていた。
だけど――なぜか、胸の奥がざわついていた。
じっとしていられなかった。
少しだけ、外の空気を吸おうと、私はライブハウスの裏手へまわった。
あの子を探すつもりなんて、なかったのに。
薄暗い裏通り。
チカチカと瞬く蛍光灯の下で、ふたりの影が交差していた。
凛は、黒いTシャツの男と向かい合っていた。
彼がそっと凛の腰に手を回す。
まるで迷いのない仕草で、もう片方の手が凛の頬に触れた。
指先が、髪をかき分けるように耳の後ろをなぞったかと思うと――
ゆっくりと、ふたりの顔が近づいていった。
最初のキスは、ごく浅く。
探るように、確かめるように、唇が触れる。
でも、それはほんの一瞬だった。
次の瞬間には、彼の腕の中で凛が身を預けるように傾き、
今度は深く、長く、何度も――まるで飢えたように唇を重ね合っていた。
舌先がかすかに見えた気がした。
凛の肩が小さく震え、彼の指がその背をなぞる。
音は、ない。
ただ、ふたりだけの世界のように密やかで、濃密だった。
私は動けなかった。
息を止めて見つめることしかできなかった。
そのときの凛の顔が、忘れられない。
目を細めて、唇を濡らしながら、彼に微笑みかける。
私には見せたことのない――
甘く、とろけるような、恋する女の顔だった。
---
帰りの電車は静かだった。
がらんとした車内に、モーター音だけが響いていた。
窓に映った自分の顔は、まるで他人のようだった。
――見なきゃよかった。
そう思っても、あの光景は頭から離れなかった。
「……あおちゃん」
凛が、小さく私の名を呼ぶ。
すこし眠たげな目で、前髪を指でかき上げながらこちらを見ていた。
「今日はありがとね。ついてきてくれて」
「……ううん」
返事はできたけど、目を合わせることはできなかった。
そんな私の気持ちを見透かしたように、凛はふわりと笑ってそっと私の手を取り、指を絡めてきた。
その手はあたたかくて、その温度が――ずるかった。
「……そういうのさ」
「ん?」
「誰にでも、しないほうがいいよ」
窓の外に目を向けたまま、そう言った。
凛は、少し首を傾げてから、不思議そうに言った。
「なんで?」
「……好きでもない人に勘違いされるよ」
そう言わずにはいられなかった。
キスを見た後で、そんなふうに手を繋がれるのが、一番つらい。
その手が、誰のものなのか――わからないまま触れられるのが。
「誰にでもじゃ、ないもん……」
凛は唇を尖らせて、少しだけ目をそらす。
電車がゆっくりと揺れるたび、眠ってしまった凛の頭が、そっと私の肩に預けられる。
――こんなふうに無意識に甘えてくるくせに。
でも、心は別の誰かのほうを向いてるんでしょう?
そう思っても、私はその頭を、振りほどくことができなかった。
ただ、静かに身をゆだねることしかできなかった。
夜の窓に映るのは、寄り添うふたりの姿。
けれど、その隙間には、ひっそりと痛みが横たわっていた。