煙草の香りごと、君に飲み込まれそうな夜
凛からLINEが来たのは、再会して数日も経たない頃だった。
「東京戻ったよー。あおちゃん、今度飲まない?」
やけに軽い文面に、思わず笑ってしまった。
深く考える前に「いいよ」と返していて、気づけば今、駅前に立っている。
ふたりのちょうど中間にある、小さな私鉄の乗換駅。
都会のざわめきと、どこか下町の空気がまじった、不思議な雰囲気の街。
夕暮れの色が完全に落ちて、駅前には黄色い光が滲んでいる。
自動販売機のモーター音と、どこかから聞こえるたばこの火をはじく音。
制服姿の高校生が笑いながら通りすぎていった。
「──あ、来た」
ロータリーの向こうから、ゆるゆると手を振ってくる人影。
金髪に白いタンクトップの上にシャツをゆるく羽織り、ダメージの入ったジーンズ。
ラフすぎる格好なのに、どこか街に馴染んでいて、やっぱり目を引く。
ふわっとした笑みを浮かべて近づいてくる。
「お待たせー」
「ううん全然。今来たとこ」
中学の時からの慣れた会話。
でもその声を聞いた瞬間、胸の奥がふわっと波立つ。
姿はもう、あの頃とまるで違うのに。
それでも“凛”だとすぐにわかるのが、なんだか悔しいような、不思議な気持ちだった。
並んで歩き出すと、凛がふわっと腕を絡めてきた。
「……っ」
一瞬、心臓が跳ねる。
触れた部分がじんわりと熱を帯びる。
「……なんか、そういうとこ、変わらないね」
「あー、ごめん、癖で」
さらりと言いながらも、凛は腕をほどこうとはしなかった。
二人で歩く夜の道。
電柱の影が舗道に落ちて、風がシャツの裾をすべらせる。
「あおちゃん、覚えてる? 小学生のときさ」
「うん?」
「男子に石投げられて泣いてたら、あおちゃん来て、めっちゃ怒ってくれた」
「石……?そんなことあったっけ?」
「うん、石。割とでかめのやつ」
「え、まじで覚えてない」
「あおちゃん、真顔で“お前、今すぐ謝れ”って言って、そいつのランドセル地面に叩きつけてた」
「……それ、私ただの乱暴者じゃん」
「違うもん。あおちゃんまじでかっこよかったんだから」
そう言って、凛は小さく笑った。
口元だけで、でもどこか本気みたいな笑い方。
私は返す言葉が見つからなくて、夜風に目を細めた。
記憶のどこかで、その日見た小さな背中と、泣き顔がかすかに浮かぶ。
ふたりで曲がり角を抜けると、明かりの灯った居酒屋が見えてくる。
木の引き戸にかかった暖簾が、風に揺れていた。
「ここ、よさげじゃない?」
「うん、いいかも」
カラカラ、と引き戸を開けると、ふわっと出汁の香りが鼻をくすぐった。
小さなテーブルと、木目のカウンター。
少し騒がしい店内の、ちょっと奥の席に案内される。
席に着くなり、凛が隣に滑り込んできて、また自然に距離を詰めてくる。
ドリンクのメニューを凛が覗き込んでくる。その距離感に、心の奥がまた静かにざわついた。
「生ビールと、ポテトください。あと、カシスオレンジで」
そう言って私がオーダーを済ませると、凛はぽろりと言った。
「ビールとか大人って感じ」
「私も最初は“うわ、にがっ”って思ったよ」
「やっぱり?苦いよね」
「でも、慣れるとね……仕事終わりの体に染みるのよ、これが」
「……あおちゃん、急におっさんみたい」
「失礼な。あんたも社会人になったら分かるよ」
凛はクスッと笑い、グラスのカシスオレンジに口をつけた。お酒あんまり飲めないって言ったわりには、ペースが早い。
「そういえば……吸ってもいい?」
「え?」
「タバコ。ここ、喫煙席だなって」
「あ、ああ、うんいいよ」
言いながら、凛はゆるく首を傾けた。カバンの中から取り出したのは、コンパクトなライターと細身の煙草。
その仕草に、なぜだか胸がざわつく。
「……吸うようになったんだ」
「うん。タバコやだ?」
「いや、平気。ちょっと意外なだけ」
凛はゆるく笑って、火をつけた。白い煙がふわりと立ち上がる。そのまま目を細めて私とは逆の方向へとふうっと息を吐く。
小さな口元から吐き出された煙が、ちょうど照明にかかって、ふんわり揺れていた。
その仕草が、思いがけず色っぽくて。
……言葉を飲み込んだ。
「なに?」
凛が首をかしげてこちらを見る。
「……いや、なんでもない」
「うそ。今ちょっと、変な顔してた」
「変じゃないよ。ただ、ほんとに大人っぽくなったなと思っただけ」
「ふふ、あおちゃんも大人になってまた綺麗になったね」
「はいはい」
笑いながら、またひと口、煙を吸う凛。
口元から漏れる煙と一緒に、ほんのり甘いリキュールの香りが漂った。
どこか幼さの残る顔なのに、タバコが不自然に似合ってる。
そのギャップが、なんだか悔しくなるくらいに綺麗だった。
「……あおちゃんは」
ぼーっと横顔を眺めていたら不意に目が合ってドキッとした。
「ん?」
「彼氏、いるの?」
「……うん。いる。大学の頃からずっと一緒。もう5年になるかな」
「わ、長っ。ってことは……もう結婚視野?」
「……たぶんね。特別ドキドキするとかはないけど、安心できる関係かな」
凛はグラスを少し傾けて言った。
「……そっか。あおちゃんらしい」
「……あたしもね、最近できた」
「へぇ。どんな人?」
「違うバンドの人。ギターの人って、なんかずるいよね。ギター持ってるだけでかっこいいもん」
「へえ、バンドマン…」
「……付き合ったばっかなんだけど、めっちゃかっこよくてさ。年上なんだけど、大人な感じで」
その顔は、ほんの少し頬を染めていて。
ふだんのダウナーな表情との落差に、私は思わず見とれてしまった。
「……あ、なんか酔ってきたかも」
凛が私の肩にもたれてくる。
「だいじょぶ?」
「んー……だめ。帰れなさそう……泊めて?」
「……いいけど、部屋、片付けてないよ」
「大丈夫〜。そういうの気にしないタイプ」
---
玄関を開けた瞬間、凛が「おじゃましまーす」と小さな声で言って、スニーカーを脱ぎ、よたよたと中へ入ってくる。
「あおちゃんの部屋って感じ。片付いてるじゃん……すごく綺麗で、落ち着く……」
言いながら、凛は鞄をその辺にぽいっと置いて、ふにゃりとソファに倒れ込んだ。小柄な身体がクッションに沈んで、まるで溶けていくみたい。
「本当に片付けてないけどね……なんとなく見えそうなとこだけ整えてるだけ」
私が照れ隠しのように笑うと、凛はごろりと寝返りを打ち、うつ伏せのまま顔だけこちらを向ける。
頬はほんのり赤く、目元がとろんと緩んでいる。明らかにさっきより酔いがまわっていた。
「はい、水置いとくからね」
「ありがと」
「……ねえ、あおちゃん」
「ん?」
「中学のとき、キスしたの……覚えてる?」
その一言に、グラスを持っていた手が、ぴたりと止まった。
氷が、カラン、と静かに音を立てる。
「……」
「覚えてない?“練習”って言ってさ。あたしがしたやつ。……あのとき、緊張したんだよ?」
酔った声は舌足らずでどこかあどけなくて、でも少しだけ拗ねたようでもあった。
思い出が、スッと胸の奥に差し込む。
冬の放課後の体育館裏。
夕焼けに染まるグラウンド。
誰もいない静けさの中で、制服の袖を引かれて、ふと見下ろしたあの顔。
そして、唇を交わす瞬間。
「……覚えてるよ」
ポツリと漏らした声が、自分のものとは思えなかった。
凛のまつげが、ふるふると震える。
「ふふ、よかった……。あたしばっかり覚えてるの、寂しいもん……」
そう呟いたあと、凛は目を閉じて、ソファの背にもたれるようにぐったりと身を沈めた。
その寝顔は、まるで小さいころのままだった。
小さくて、甘えんぼで、でもどこか放っておけなくて。
私はキッチンカウンターにもたれてウイスキーを口に含みながら、ぼんやりと凛を見つめる。
夜の静けさの中で、聞こえるのは時計の針の音と、心臓の鼓動だけだった。
──こんなふうに再会してしまうなんて。
そう思った瞬間、胸の奥で、何かが軋んだ。