3 冗談か、あるいは寓言か
パーンッという、なかば清々しいぐらいの音がして、耳の奥がキーンッとする。
瞬間、まわりは静まりかえった。
星のまたたきのような耳にやさしい音楽が流れていたが、それさえ一瞬とまった気がした。
瑞穂はというと、あまりのショックに呆然と固まってしまった。
弥勒菩薩像のようなポーズで硬直し、天地開闢まで遡るほどに。
光の速度をこえてなにかを悟りかける。
「かかかかかか!」
おおげさで奇妙な笑い声がして、一気に現実にもどされた。現実という仮想に。
「――いい気味だぜ!」
あまり縁のなかった陽気でやんちゃな男子のようなはしゃぎ声に、目のピントが合うと二度びっくりしてしまった。
相手は江戸兵衛だった。
東洲斎のそれで、いままさにビンタしましたといわんばかりに両手を開いて、やや寄り目で口をゆがめている。
「な……」
なにをするんですか、なぜですか、なにものですかがのどに渋滞して息が告げずにいると、江戸兵衛がぎょろ目になる。
「くく、おやじにもぶたれたことないって顔だな!」
そりゃ、両親どころかぶたれた記憶さえない――瑞穂は患部をなでる。
頬の痛みは引いたが、どこか身体の奥のほうが痛い気もする。
「いいじゃないか、ぶとう会なんだから!」
江戸兵衛はとても楽しそうに歯をむきだす。
「くく、これがほんとのしゃらくせぇ――」
瑞穂があっけにとられて愛想笑いもできないでいると、美男美女のロボット給仕がどこからか現れ、江戸兵衛の両脇をおさえる。
「仮想でも暴力はいけません、お客さま」
ウェイターが、にんまりする江戸兵衛に告げる。
「規約違反により強制退去になります」
「クク、かまわんぜ。一矢報いることができたからな、オレは満足だ――」
一矢……?
「おけがはありませんか――ミケランジェロさま?」
ウェイトレスが瑞穂の瞳をのぞきこみ微笑する。
すっかり大丈夫になった。
「あ、ええ、もちろん。びっくりしただけです……そもそもヴァーチャルですもんね……」
「ええ、でも油断なさらず。当施設は複数のAIによる独自開発のシステムのため、利用者の共感や体感をきわめて重視するよう設計されていますので、触覚なども神経にリンクしており、極端なダメージは実体に影響をおよぼす場合もあります」
「え……?」
それでは失礼いたします――そういって、ロボット給仕たちは高笑いする江戸兵衛をひきずって扉の向こうにもどっていった。
ウェイトレスの発言と江戸兵衛のビンタを反芻していると、ふたたび左頬が痛いような気がしてきて、瑞穂はふたたび弥勒菩薩になりかける。
無の境地。
すると――ぐいっと腕をつかまれた。
今度はなに?
「なにぼおっとしてるんです、そんなだから頬を張られたりするんですよ?」
瑞穂をふりむかせたのは、おじさんだった。
知らないおじさん、しかも、ごくふつうのおじさんではない。
瑞穂はごくふつうのおじさんの定義を考えたこともないが、いま使えない瑞穂のAIに訊ねても、このおじさんはごくふつうに該当しないというに決まっている。
全体的には丸めの体系で、強い風を受けたような髪型に、ブーメランを彷彿とさせる横に翼をひろげた口ひげと、馬のしっぽみたいなもっさりあごひげ――歴史を感じさせる古めかしい軍服のような衣装であり、胸にはボタン以外にも意味も理由も価値も瑞穂にはわからない勲章だかメダルだかがわらわらゆれている。
しかも謎の布やらひもやらを巻いて、剣まで佩いているようだ。
「なにを不信感まるだしの目つきをしているのですか?」
そ、そりゃあなたがそういう見た目だから……瑞穂は言葉を呑む。率直な意見を配慮せず述べられる性格ではない。
「どうやらご存じないようだ――」
おじさんはやれやれというふうに、両手を空に向ける。
丸めの一風変わったおじさんに愛想つかされたことで、瑞穂は若干冷静になり、かつ、ちょっと不服をおぼえた。
「存じあげませんよ、なんですかその恰好は――?」
「え、私?」
おじさんは目を大きくする。
「私のことなんかどうでもいいのですが、ここが〈ラ・スカラ〉であることを思えば、分別と機微にあふれた仮装なんですがね……わかりませんか?」
おじさんは、まるで衣装を試着したあとの七五三児のようなポーズをする。
いや、なんか腹が立つんでそのミニクイズやめませんか――と切り捨てたいが、瑞穂にはいえない。
しかし、表情で通じたのか、おじさんは斜にかまえてあごに手を添える。
「ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世ですよ」
おじさんは肖像画ふうに、斜めうえをみて、きりっとする。
余計にわからないので瑞穂が返事に窮していると、「まァ、そこはどうでもいいんで、気になったら世界史か美術の教科書でもひろげてみてください」とヴィットーリオ・エマヌエーレ二世がため息をついた。
「はい……って、そういえば、ご存じないというのは、なんの話でしょうか?」
本題を忘れかけていた。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世は「ん?」と目を大きくしたのち、「ここではあぶないかもしれないので、はじっこのテーブルへ移動しましょうか、のども潤したいところですし」と移動をうながしてきたので、瑞穂はついていく。
なにか飲んでもヴァーチャルなのだけれど――って、ここではあぶない……?
「――ここはあぶないところなんですか?」
モナ・リザが目前の壁に飾ってあるすみっこのテーブルで、眠そうな目をしたもさもさひげのバーテンダーにドリンクをオーダーして、瑞穂はオレンジジュース、ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世は(まさかの)カルアミルクを用意してもらった。
「ええ、それは瑞穂さん次第なんですけどね……」
ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世はカルアミルクをちびちびと舐めるように飲む。
「まァ、たぶん楽園からはほど遠いでしょう」
「……おっしゃることがよくわからないんですが」
瑞穂はふと、気づいて焦る。
「え、ところで、なんでぼくが瑞穂だって知ってるんですか?」
もしかして、知人か友人? なにかバレてる?
「――瑞穂さんに知り合いのたぐいはあまりいないでしょう?」
ズキッと胸の奥がルネサンスを迎えるぐらいショックをうけたが、顔にはださないように努める。
「でもまァ、私はそこそこに瑞穂さんを知ってるかもわかりませんね、少なくとも……」
ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世は目を細める。
「瑞穂さんが、遅かれし初恋の面影をもとめて、〈ラ・スカラ〉にさすらってきたことはもうこのさい、知っていると言ってしまいましょう」
「な、なんですと……」
瑞穂は動揺する。
壮大な詐欺にかかった気分であり、この謎のおじさんの正体が思いつけず、即座に帰宅してふとんに入りたくなる。
「まだわかりませんか――?」
ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世はカルアミルクで酔ってきたのか、少しぽやっと赤ら顔になった。
「この目をよくみてくださいよ?」
おじさんを直視するのは憚られるのだが、瑞穂はうながされるままみてしまった。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世の瞳に、いまにも逃げだしそうなぐらい怖気づいた瑞穂の顔が映っている。
「えっと……」
「わかりませんか。私は、あなたですよ」




