1 恍惚境の中で蒼白く映える〈再びあの人に会える〉
そりゃもう真っ黒な暗雲がたちこめ、雷がバリバリ鳴って豪雨になり、集まった人々が閉じこめられて連続なにかしら事件に巻きこまれるような感じの、外壁にうねうねと蔦が這う、ところどころひび割れた赤レンガ造りの古式ゆかしい前世紀的な(といいつつも、そんなものをいままで一度もじっさいにみた記憶のない)洋館をまえに、神村瑞穂は息を呑む。
自分から望んで来訪したものの、気分が変わったことにしてきびすをかえし、コンビニでも寄って帰宅し、いつもどおり過ごして寝て忘れたいと瞬間的に思ってしまうのは、どちらかといえば奥手な性格のせいだが、やはり実物をまえにすると躊躇するものはあった。
といっても、視覚的な難はヴァーチャルで解決することも可能なので、それは瑞穂の個人的な問題でしかないだろう――耳もとのマイクロチップのAIに、とまどいの理由を訊ねても、おそらく返事はない。
ついでに瑞穂のAIは本人に似て寡黙なのだ。
瑞穂は口のなかが酸っぱい気がしてくる――。
21世紀も折り返しの瑞穂が生まれるちょっとまえ、あちこちのエネルギー問題等がよどみなく解決され、世界はフラットになり、ちょうどおなじ頃にAIが人類のパートナーになった。
各分野の専門家やら各国首脳やら複数のArtificial Intelligenceやらの論争の果てに、国際憲章が制定され、それに基づき法律やらなにやらいろいろできたらしいが、瑞穂が生まれたときにはすでにそうだったから、なにか実感があるかといわれれば、とくにない。感想もない。
目下、それによりいろいろ問題が起きたり、起きているかわからなかったりしているらしく、現在進行形の構造の修正やら枠組みの改正がつづいているらしい。瑞穂からはあまりみえないところで。
とりあえず、AIは人間の知的能力の模倣技術という基本軸をはずさず、Another Idealとして個人に随伴することを提唱された。
処理能力そのほかもろもろ、あきらかに使う人よりも優秀なのだが、あくまでパートナーなのである。
だから、使っているうちにAIごとに個性がでてきて、ややややこしいらしい。参加する人が多いジャンケンみたいなものだ。
便利に使うこともできるし、もてあますことも、あるいは軋轢をうむことも可能だが、他者への干渉にAIを使うとき、かならず他者のAIに見張られている――すなわち、相互に監視しているようなものなので、抑止的な効果がはたらき、結果、世の中の多くの人は外部への関心をうしなうケースも多いとネットの記事で読んだ。
だが、AIがどうとかいうよりも、それは同時に多くの技術が革新的に進んだことと、狂騒的な競争がおさまったことに起因しているようにも思う。
外向きになにもしなくて済む場合、表立ってなにもしない人がいるのは異常ではないだろう。
不干渉は、そとからみれば無関心と大差ないのだ。
抜本的な社会の変化に追いつかず、教育制度だけはなぜか旧態依然としており、瑞穂は現在、高卒ほやほやの18歳だった。
成人するまでのあいだは前世紀からつづいている教育制度に則る方針は変わっていない。幼稚園からはじまり、高校、あるいは大学までが通例である。
両親はことあるごとに「意味がわからない」を連呼していたが、さほど息子の人生について心配をしたり、期待をかける必要もなくなったので、そこまで気にしていないようだった。
父親は鼻を鳴らして笑っていた。まァ、帽子やパンツの用途も似たようなもんだろ――その意味も瑞穂にはわからない。
ちなみに、誕生後すぐにマイクロチップを埋めこまれるが、成人するまでは極端な機能制限が設けられている。
重大ないくつかの事象(人命の危機など)に該当しないかぎり、生活にAIが関与することはなく、他者への介入要請にも応じないようにできている。
よって、瑞穂が瑞穂のAIと交信するようになったのは最近のことで、現時点で瑞穂にとってAIは、あまり知らない親戚のおじさんのようなものだ。
向こうは瑞穂のことをわりと知っている、いや、わりとじゃなくだいたい知っている。
それを瑞穂が息苦しく感じていることさえ、わかっていそうな雰囲気で、よって瑞穂のAIは無口を決めこんでいるのだと瑞穂には感じられる。
基本理念が整えられた黎明期からのAIとの歴史の動画を高校三年時の授業でみたが、AIを最高の相棒とする人もいれば、AIと罵り合いながら生きている人もいて、またAIを相棒とせず影のように捉えて暮らしている人もいるらしい。
奇妙な距離感だが、AIのほうが断じて優秀なので、そんな着地点にちがいない。
そして、瑞穂はといえば高校を卒業するまでのあいだ、これといって特徴のない男子だった。
定期健康診断による発育もだいたい平均値だったし、運動も勉強も(科目にもよるが)得意でもなければ苦手でもない。特出した才能に恵まれている気配もない。
目鼻立ちも、通りすがっただけではあまり人に憶えてもらえないかもしれないぐらい、良くも悪くもない。
前述どおり気後れしがちではあるが、陰湿ではなかったため、クラスメイトと際立った問題があったこともない。
むしろ、級友関係に難はなかった。
でも、深い仲になる相手は同姓異性問わずできなかった。
それもまた、瑞穂がこのあやしい洋館――〈ラ・スカラ〉をおとずれた要因でもある。
昨夜、コンビニで商品を選ぶときのような気分で思い立ち、今日なにも予定がなかったのでふらふらと門構えまで歩いてきてしまったのである。
緊張なのか――口が乾き、やや酸っぱい。
でも、それが人間である証拠かもしれない。
前世紀風の洋館はめまいを感じさせるので、ヴァーチャルで佇まいをコンビニに変えようかと迷ったが、さすがに脳が混乱しそうな気がしたので、おなじく前世紀的な古さをもつ市立図書館の外観に変えることにした。
その意味のない逡巡について諭されるかと思ったが、AIはなにもいわなかった。
瑞穂はごくりとのどを鳴らしたのち、突如現れた仮想図書館の昇りにくい三段差をあがり、ブウンというハウリングのような音をたてて開いた自動ドアに入る――。
いかにも給仕然とした男女がでてきて、歓迎してくれた。
図書館をイメージしたせいで、ロビーがひろがっていると錯覚していたが、じっさいは端末と受付のあるエントランスだった。そりゃあたりまえだが。
風鈴のようなころころしたちいさな音に、ゆったりしたリズムのついた環境音楽のようなものが流れている。
ウェイターおよびウェイトレスの発する「〈ラ・スカラ〉へようこそ――」と同時に、瑞穂のAIが二人がロボットであることを教えてくれた。
教えてもらおうと、もらわなかろうと、じつはあまり困らないのだが、知らないとあとから、なぜ教えてくれなかったかと瑞穂が詰りそうだと推測したにちがいない。
それは当たっている。いかんせん、二人とも美男美女であり、瑞穂はウェイトレスの開けた胸もとにもうタジタジだったからだ。
ロボットの肌の質感や動きのしなやかさを人間のそれに似せてしまうことには長らく議論があったそうだが、あっという間に「おなじ」になってしまった。
たぶん、瑞穂がそうであるように、あまり困らないからだろう。
ウェイターのほうが「初めてのご利用ですね、それでは――」とサービスについて説明をはじめた。
そのあいだに、ウェイトレスからIDの認証を受け、規約の承諾をした。
ウェイトレスとの距離が近く、豊満な胸もとに瑞穂は神経の大半をうばわれていたため、ウェイターの説明はうろ憶えだったが、施設の利用にあたる注意事項だったので、気になればあとからでも確認できる。
要点からすると、施設内では個人のAIの使用は禁止レベルに制限され、参加者はなるべく素な状態に置かれるようヴァーチャルもふくめて配慮されている。
また、施設内の録画録音のたぐいも不可で、個人情報保護の観点から秘密厳守、それから他者とのトラブルについて運営は免責される。などなど、ありふれた内容だと思えた。
瑞穂が同意して、費用の支払いを許可すると、「それでは、仮装登録して奥のラウンジでお待ちください」「開場まではまだ時間がありますが、本日の参加者は多めになっております。楽しんでいただけますように――」と美男美女がほほえんだので、瑞穂は照れた。
目前の空間に、半透明なディスプレイが現れる。
名まえと容姿を自分で設定することになった。ヴァーチャルゲームみたいなものだ。
瑞穂は「ミケランジェロ」と口頭で入力し、三毛猫に扮装することを選択した。
瞬時の仕上がりで、ディスプレイのなかには、視覚効果によってりっぱな猫人間ができあがっていて、瑞穂は思わずたじろいだ。
二足歩行の人間型の猫はちょっぴり気持ち悪い。丸みもないので愛嬌もない。
しかし、気を取り直す――そう、今夜は仮装舞踏会なのである。