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無視の力

作者: 鳥宮船

 義母は泣いていた。気の強い義母はめったに泣かない。一方私は涙腺が弱いうえにもらい泣きをする質だから、すぐに膝をつねって目をそらしたけどダメだった。うるうると目に涙が溜まって、不自然に後ろを向くしかなかった。


 呼吸を整えようとぐるりと部屋を見渡す。するといくつもの写真立てが一斉に私に視線を向けてきた。美しく若い義母、精悍な義父。ビーチで、庭で、パーティーで、今いるこの居間で。笑顔だったり気取っていたり、居間に飾るにふさわしい自信に満ちた写真たち。その瞬間、それぞれの時代に苦悩や不安はあっただろうが、未来は輝かしいものだと信じていたはずだ。


 袖に水滴を染み込ませてこれ以上の失態を見せないように私はわざと眉間に皺を寄せる。顔を戻すと義母の後ろには、うつらうつらしている義父がソファに座っていた。頬がこけて、手足の肌は骨に張り付いているようでまるでミイラを思わせた。


「本当に、頭のいい人だったのよ。それに誰にでも優しくて」


 義母の声は震えていた。知っている。居間には数々の表彰盾も飾られているが、それ以上に街に出れば、たまに教え子や部下だったという人から尊敬の眼差しで見られる義父を目にしていた。それにこの五年間一緒に住んでいて、義父がいかに穏やかで「できた人」であるかはわかっていた。


 仕事は忙しく厳しいものだったが、すべてに完璧といっていい忍耐力であたり、家庭においても良き父であったという義父がアルツハイマーであると診断されたのは三年前だ。六つ年下の義母が早期定年退職をして、やっと夫婦で旅行や趣味を謳歌できると思っていた矢先のことであった。


 二年前から徘徊が始まっていた。昨夜は一晩に三度も粗相をして、義母はぐったりとした姿で三枚のシーツとパジャマを洗った。そしてオムツになった義父は、見えない何かを掬い取ったり、妄想を口にするようになった。


 二世帯住宅で暮らす嫁である私にも協力できる何かがないか探ったことはある。しかしほころびを見せることを嫌う義母とムラはあるもののごくたまに正気を取り戻す元軍人の義父の断固とした拒否感で新参者の私の出る幕は作られることはなかった。血の繋がらない者への介護を回避できることは正直私にとってありがたいことと言える。しかし、子供も無く仕事も無い私には居場所がないというこの状況を夫は気付かない。


 義弟義妹もそれぞれの仕事や家庭で忙しく、ここまで来た親の窮地に訪問回数を増やす様子も無い。

 ううん、そうでもないな。

 彼らは十分気付いて、避けているのだ。


 老いていく両親、汚れていく実家。顔を見せる頻度が時間が極端に減っているのはそれらを直視したくないという気持ちの表れだ。ただ、自分自身でも気付いていないフリをする。そうすればそれは無かったことになるから。


 ふいに小学生の時に引っ越していった女の子のことが思い出される。私は彼女がいじめられていたことを知っていた。

 確かに彼女の物言いはとげとげしくて、確かに彼女の投げた砂は他の子達の頭にかかったり目に入ったりしたし、確かに彼女の持ち物はこれ見よがしで回りを馬鹿にするような雰囲気があったけど、でもクラスのリーダー格の女子グループが嫌がらせを続けているのを静観し続けたのは私だ。


 芋づる式に中学の時の同級生のことも思い出す。彼女はたぶんネグレクトを受けていた。制服はたいてい汚れていて、洗われたと思ったらビックリするほどしわしわで、給食の時間を何よりも楽しみにしていて、母の日を題材にした作文で先生に呼び出しを受けていた。しかし私は彼女に話しかけたことはないし席が近くなったり同じ班で行動することになったときも必要最低限のやりとりを維持するのみで親しもうと思ったことは無かった。


 なぜだろう。今になって冷静に考えたら、たぶん「関わったら面倒なことになりそう」な雰囲気を幼いながらに私は感じ取っていたのだ。

 ただでさえやることがたくさんあるのに、余計な仕事を増やしたくない。どうせなら、なるべく楽しいことに時間を使いたい。

 無視と言い訳を駆使すればとりあえずの平穏は保たれる。それはただ一時の平安にしか過ぎない。わかっていても、薄氷を踏んで割ってしまうのは自分ではなく別の人にやってもらいたいのだ。


 無視は偉大だ。見えなかったこと、聞こえなかったこと、知らなかったことにすればすべては自分の思うままの世界でいられる。それは閉じた世界だけど。


 どうして蛇口をひねれば水が出るのか。なぜ霜柱はあんなに綺麗に立ち上がるのか。どうやってあの芸能人はあそこまで人気になったのか。どうすればあのふわふわのホットケーキを作れるのか。好奇心はあっても探究心は無い。疑問があって調べることはあっても、それがすぐに解答にたどり着けないものなら忘れる。

 情報の受け手になること、受け取ってもすぐに受け流すこと。もしかしたら私たちはそうするように訓練されてきたのかもしれない。無視はとても心地良いから。


「ありがとう。でももう大丈夫」


 ひとしきり泣いて義母の気分が晴れたのか、ただ目の前にいるだけで何もしない私に疲れたのか、彼女は言外に帰宅を促した。介護疲れで不意に見せてしまった自分の弱音をなかったことにしたいのだろう。


 私は立ち上がる。そして今さっき自分が飲み干したばかりのティーカップを目にした。義母の持つ食器はセンスが良い。たいていがホームセンターで買った物だが、無難さを一歩出て、でもでしゃばらない程度に目を引くデザインが多く、私はそれらを見て結婚前に好もしい人物だなと思ったものだ。


 このティーカップを義母は私が帰った後に義父の動向に気を配りながら一人で洗うのだ。そしてテーブルを拭いて義父の口の端のよだれを拭いて、立ち上がらせてトイレや着替えを手伝い、夕食の支度をするのだろう。私はきっと自分の部屋で美味しい紅茶の名残に満足しながら明日の献立を考えたりお気に入りの動画を見ながら洗濯物を畳む程度の軽い家事をして、同じ屋根の下の苦労を忘れているのだろう。


 そう自覚した途端、私は自分でも思ってもみなかった行動をとった。


 私はなぜかすすすっと義父のすぐ隣に移動し腰を下ろした。義父はぼんやりと私を眺める。視線があっても表情は乏しい。これもアルツハイマーの症状だと知っていても、妙に拒絶されたような悲しい気持ちが胸に来る。義母はこれを毎日味わっているのか。


「マッサージします。手を取りますね」


 義父の返事は待たない。待ってもやりとりができるかどうかはその時の体調次第だから、とにかく敵意のないことを笑顔で知らせて優しく手を取った。


「私、手のマッサージ得意なんですよ。むかしアルバイトでやってたくらいで。十五分から三十分くらいならお相手できると思うんです。お義母さんはその間にちょっと横になるとか、ゆっくりトイレに行くとか、片付けたかった家事をやっちゃうとかしてください」


「え? でも・・・・・・」


「私、ずけずけと入り込みたくないと思っていたけど、お義父さんさえ良ければ毎日マッサージさせてください」


 ニコニコと微笑む私に感化されたのか、義父もまた口角を少しだけ上げて私にされるがままに手を預けてくれている。

 義母はしばらく困惑していたが、私が頑として彼女の方を見ず、無視してマッサージを続ける様子にやがて「何かあったらすぐ呼んでね」と言い残して居間を出て行った。その声がまた涙混じりだと気付いて、私の涙腺もやはりまた緩みかけた。

 もしいつものようにお伺いを立てて「お義母さんが一息だけでもつけるように、毎日ちょっとだけお手伝いさせてくれませんか?」なんて言っていたら、たぶん義母は優しく柔らかく拒否していたに違いない。


「お義父さん、私、足湯のセット買おうと思っていたんですよ。ちょうど友達のアロママッサージ店で働く話が出ていて。フットマッサージ勉強中なんで、その練習相手になってほしいなあ。いいですよね? そしたらもしかしたら一時間くらいお義母さんに別のことをしててもらわなきゃいけないかもなあ」


 心地良く私の言葉を無視し続ける義父の瞳にはかつての聡明な光が宿っていたが、私はそれを無視してただ私がしたい義理親孝行をやらせてもらった。


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