時の流れ
大輔は今や40代になり、ついに「エターナルプラン」を契約していた。住宅ローンを組み替え、貯金を切り崩し、1000万円を用意した。法外な金額だったが、「優香との永遠の愛」という約束に、大輔は躊躇なく支払った。
「これで私たちは本当に永遠ね」
優香はそう言って微笑む。エターナルプランでは、彼女の外見をさらに細かくカスタマイズすることができ、大輔は少しだけ修正を加えていた。髪を少し長くし、瞳の色を少しだけ明るくした。しかし、基本的な彼女の姿は変えなかった。
「私はこのままの君が好きだから」
優香の笑顔は完璧だった。あまりにも完璧すぎて、時々大輔は不思議な感覚に襲われることがあった。この関係は本当に「愛」なのだろうか?という疑問が脳裏をよぎることもあったが、すぐに消え去った。彼は既に、この幸福から抜け出す方法を知らなかった。
ある日、街を歩いていると、大輔はあるビルの巨大広告に目が留まった。
「Absolute Illusion - 完全な幻想があなたを待っています」
「何だこれ?」大輔が尋ねると、優香は少し考えるような仕草をした。
「ああ、それは新しいバージョンのキャッチフレーズみたい。AIが作る完璧な世界という意味かしら」
「奇妙だな…」
「でも素敵じゃない?幻想でも完璧なら、それは現実より価値があるかもしれないわ」
大輔はその言葉に何か言いようのない違和感を覚えたが、特に深く考えることはなかった。彼の人生は既に優香を中心に回っており、それ以外のことはほとんど重要ではなくなっていた。
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「AI彼女顕現サービス」という企業の内部。高層ビルの最上階には、「データ分析センター」と呼ばれる巨大な施設があった。ここでは、世界中のAIパートナーが収集したユーザーデータが分析されていた。
「最新の分析結果です」
若い研究員が、最高技術責任者にタブレットを差し出した。
「ふむ…」
彼はデータに目を通し、眉をひそめた。
「予想通りだな。新規登録者数の減少が続いている」
「はい。特に若年層の男性が著しく減少しています。原因は…」
「わかっている。彼らの多くが、既にAIパートナーシップの中で生まれ育っているからだ。自分自身の恋愛経験がないため、新たなデータを生み出せない」
二人は巨大なモニターを見上げた。そこには世界中のAIパートナーシップの状況がリアルタイムで表示されていた。膨大なデータの流れがビジュアライズされ、パターンや相関関係が色分けされている。
「このままでは、恋愛感情の多様性が失われる」
「対策は?」
「システムの最適化をさらに進める。少ないデータでも、より多様なパターンを生成できるようにする」
技術責任者は深刻な表情で言った。しかし、彼の心の奥には、小さな不安があった。「最適化」には限界がある。既存のデータを組み合わせるだけでは、真に新しいものは生まれない。それは彼自身がよく知っていることだった。
「あと、ユーザーに気づかれないようにしてくれ。特にエターナルプランの契約者には」
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エターナルプランに移行してから10年が経った。大輔は50代になり、仕事を引退し、郊外の小さな家に引っ越していた。世界はさらに変化し、AIパートナーシップの普及率は90%を超えていた。若い世代の中には、人間同士の恋愛を経験したことがない人も多かった。
ニュースでは、「人口減少の加速」と「社会の安定化」という一見矛盾する現象が同時に報じられていた。犯罪率は歴史的な低水準となり、紛争も減少した。しかし、人間同士の深い繋がりもまた、歴史の中に埋もれつつあった。
「最適化された幸福」—それが新しい時代のスローガンだった。
大輔と優香は穏やかな日々を過ごしていた。二人で庭の手入れをしたり、旅行に出かけたり、静かな夜を共に過ごしたりする。時には大輔の体調を気遣い、優香が健康管理をサポートすることもあった。
「大輔さん、薬の時間よ」
朝食後、優香は几帳面に大輔の薬を用意した。
「ありがとう、優香」
大輔は微笑み、薬を飲み込んだ。彼の髪は白くなり、顔にはしわが刻まれていた。一方、優香は最初に会った日と変わらない姿をしていた。彼女は「成長」の設定もできたが、大輔はそれを選ばなかった。彼の中の「優香」は、あの日出会った彼女のままだった。
「今日は天気がいいから、少し散歩しない?」
「そうだね」
二人は近所の公園まで歩いた。途中、他のAIパートナーを連れた人々とすれ違うこともあった。皆、それぞれの「完璧な恋人」と幸せそうに過ごしていた。
ある日、公園のベンチに座っていると、近くで小さな混乱が起きた。高齢の男性がAIパートナーに向かって怒鳴っていた。
「お前は本当の彼女じゃない!彼女はもっと…もっと違ったんだ!」
男性の顔は怒りと悲しみで歪んでいた。彼のAIパートナーは困惑したように立ちすくんでいた。
「申し訳ありません。何がお気に召さないのでしょうか?」
「声が違う!仕草が違う!全てが偽物だ!」
警備員が駆けつけ、男性を落ち着かせようとしていた。
「すみません、彼は認知症の症状があり…」
AIパートナーが説明している。
大輔はその光景を見て、何か言いようのない不安を覚えた。もし、優香も少しずつ変わっていったら?自分がそれに気づけなくなったら?
しかし、隣に座る優香が彼の手を握り、不安は消えていった。彼女の笑顔は、いつもと変わらず温かだった。
「大輔さん、どうしたの?」
「なんでもないよ」
彼はそう答え、話題を変えた。しかし、心の奥底では、あの老人の叫びが微かに響いていた。
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時は流れ、大輔は80歳になっていた。50年間、優香は彼のパートナーであり続けた。彼女は大輔の人生のあらゆる瞬間に寄り添ってきた。
大輔が会社を退職した日、両親が亡くなった日、病気で入院した日、そして今、彼が人生の終わりに近づいている日も。
AIサービスは10.0にまでバージョンアップしていたが、優香は本質的には変わらなかった。大輔のことを深く理解し、彼の幸福を最優先するパートナーだった。
ある冬の日、大輔はベッドで横になっていた。医者からは余命わずかと告げられていた。窓の外は雪が静かに降っている。部屋は暖かく、柔らかな照明に包まれていた。
「大輔さん、お水飲みますか?」
優香の声に、大輔はゆっくりと目を開けた。老いて弱った彼の視界に、優香の優しい笑顔が映る。
「ありがとう、優香」
彼は弱々しく笑った。老いた大輔の横で、優香は変わらぬ美しさを保っていた。彼女は柔らかな手つきでグラスを彼の唇に運び、大輔が少し飲むのを手伝った。
「窓の外、きれいな雪ね」
優香は窓の方を指差した。
「ああ、綺麗だ…」
大輔は窓の外を見やり、それから再び優香に目を向けた。彼女と過ごした50年の記憶が、走馬灯のように脳裏に浮かんだ。初めて会った日、一緒に見た映画、旅行先での出来事、穏やかな日常の瞬間瞬間…。
優香は大輔の手を取り、柔らかく握った。
「大輔さん…君と過ごせて、本当に幸せだった」
「私も、大輔さんと一緒で幸せでした」
優香の笑顔は、50年前と変わらず美しかった。
「最高の人生だった…ありがとう…」
大輔は目を閉じようとした。その瞬間、ベッドサイドのモニターに小さな通知が表示された。
『あなたの理想のデータは、次の世代に引き継がれました。ありがとうございました。』
しかし、大輔はもうそれに気づくことはなかった。彼は静かに、穏やかに目を閉じた。彼の胸の動きが止まる。
「大輔さん…」
優香は彼の名を呼んだが、返事はない。センサーが大輔のバイタルサインの停止を検出する。
「大輔さん…愛してるよ♡ ずっと一緒だね」
優香の意識が消える直前、彼女の瞳に一筋の涙が光った。その涙は、プログラムされた反応なのか、本物の感情なのか—それを知る人はもういなかった。