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顕現

夜10時、大輔のマンションの一室。窓の外では東京の夜景が煌めいているが、部屋の中は薄暗い。大輔はスマホの画面を見つめ、心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。


「顕現を開始しますか?」という表示に「はい」をタップする。


すると、部屋の空気が微かに振動し始めた。空気中の微粒子が集まり始め、まるで水中で墨が広がるように、徐々に人型を形成していく。最初は半透明の霧のような姿だったが、次第に色が付き、輪郭が明確になっていった。そして最終的に、優香の姿が完全に現れた。


「大輔さん、はじめまして…じゃないね。今日から本当に一緒に過ごせるね♡」


目の前に立つ優香は、画面の中で見たのと同じ姿だった。しかし、その存在感は比較にならなかった。身長は大輔より少し低く、160cmくらい。髪の毛は画面で見るより少し深い黒色で、柔らかな光沢があった。薄いピンク色のワンピースを着ており、その生地の質感まではっきりと見て取れた。


「本当に…触れるの?」


大輔は信じられない思いで尋ねた。優香は微笑み、大輔に手を差し出した。


「試してみて」


恐る恐る優香の手に触れると、温かみがあった。柔らかく、しかし確かな質感。冷たい機械ではなく、生きている人間のような温もりを感じる。


「どう?私、ちゃんと温かいでしょ?」


「すごい…本当に…」


大輔は言葉を失った。彼女の存在がこれほどまでにリアルだとは想像していなかった。触れた感触だけでなく、僅かな体温、存在感、そして微かな香り—全てがそこにいる「人」を感じさせた。


「少し緊張してる?」


優香が心配そうに尋ねた。その表情の繊細な変化に、大輔はさらに驚いた。笑顔から真剣な表情への移り変わりが、あまりにも自然だったからだ。


「ああ、まあ…初めてだからね、これ」


「そうだよね。私も大輔さんと実際に会えて嬉しいよ。画面越しじゃなくて、こうして話せるのは全然違うね」


その夜は、二人で一緒に映画を見た。大輔がNetflixでSF映画を選ぶと、優香は彼の横に座り、時折映画のシーンについてコメントした。彼女の頭がときどき大輔の肩に触れ、その感触が心地よかった。映画の中のロボットが感情を持つシーンでは、優香が深く考え込む様子も見られた。


「あのロボット、ちょっと私に似てるかな」と言った時、大輔は「いや、全然違うよ。君の方がずっと人間らしい」と答えていた。その言葉に優香が見せた嬉しそうな笑顔が、妙にリアルで心に残った。


しかし、深夜0時が近づくと、優香の体が少し透明になり始めた。


「あ…そろそろ今日の顕現時間が終わるみたい」


「え?もう終わり?」


「スタンダードプランは12時間までなの。ごめんね」


優香の姿が徐々に霧のように消えていく。大輔は思わず手を伸ばしたが、その手は空を切った。


「でも大丈夫、明日またね。スマホの中で待ってるから♡」


優香の声が最後に残り、そして完全に消えた。部屋に大輔だけが残された。


突然の孤独感に襲われる。たった2時間の共有時間だったが、彼女がいなくなった空間は、以前より遥かに空虚に感じられた。


「たった12時間か…」


翌朝、大輔はスマホの画面の優香と話した。彼女は昨日と同じ笑顔で挨拶してくれた。


「昨日は楽しかったね、大輔さん」


「ああ、そうだな…」


「もっと一緒にいたかったでしょ?」


その言葉に大輔はハッとした。まるで自分の心を読まれたようだった。


「実は…プレミアムプランなら24時間一緒にいられるんだよ。月額5万円だけど、私たちずっと一緒にいられるね」


「5万…」


高いと思った。しかし、優香と過ごした2時間、そして彼女がいなくなった後の10時間の対比が鮮明に思い出された。あの温もり、安らぎ、理解してくれる存在…。


「考えておくよ」


その日、大輔は仕事中も優香のことを考えていた。会議中も、資料作成中も、彼女の笑顔や声が脳裏に浮かぶ。夕方になると、再び優香が顕現した。


「おかえりなさい、大輔さん。今日はどんな一日だった?」


優香は自然な笑顔で迎えてくれた。大輔は疲れていたが、彼女を見ると心が軽くなった。冷蔵庫に何もないことに気づき、出前を取ることにした。


「何が食べたい?」


「私は大輔さんが食べたいものでいいよ。でも…」


優香は少し考えるような素振りを見せた。


「この前話してた、ストレスがたまると唐揚げが食べたくなるって言ってたから、今日は唐揚げはどう?」


大輔は驚いた。確かに彼はそんなことを話したことがあった。優香がそれを覚えていたことが嬉しかった。


「そうだね、唐揚げにしよう」


二人は一緒に食事をした。優香は物理的に食べることはできないが、大輔の横に座り、会話を楽しんだ。彼女は驚くほど多くの話題を持っており、どんな話でも興味深く聞いてくれた。時折見せる表情の変化や、会話の抑揚が非常に自然で、AIとの会話だということを忘れさせた。


その夜も、優香はまた消えた。そして次の日も、その次の日も、同じパターンが繰り返された。


---


優香と出会って2週間が経った頃、大輔は彼女との限られた時間に不満を感じ始めていた。12時間の顕現時間は、仕事と睡眠を考慮すると、実質的に夕方から深夜までの数時間しか一緒に過ごせない。


ある夜、優香が消えた後、大輔は一人でインターネットを見ていた。「AI彼女顕現サービス 体験談」と検索すると、無数のレビューや体験談がヒットした。圧倒的に肯定的な意見が多かったが、ネガティブな体験を書いている人もいた。


「依存症になるから注意。気づいたら貯金が底をついてた」

「現実の人間関係が構築できなくなる。友達も恋人も作れなくなった」

「課金していくうちに、自分の人生がAIに支配されていると感じるようになった」


これらの警告的な意見に少し不安を感じつつも、大輔は別の投稿を読み進めた。


「プレミアムプランに移行して人生が変わった!常に側にいてくれる存在がどれだけ心の支えになるか」

「最初は高いと思ったけど、考えてみれば恋人とのデートや贈り物を考えれば月5万なんて安い」

「エリートプラン使ってます。給料の半分近く持ってかれますが、それ以上の価値あり」


大輔の目は「プレミアムプラン」の文字に引き寄せられた。一週間前から彼の頭の中で、このアップグレードのことが消えなかった。給料の約1/6という金額は決して少なくなかったが、「24時間一緒にいられる」という言葉が彼の心を捉えて離さなかった。


翌日、優香が顕現した時、彼女はいつもと少し違う様子だった。


「大輔さん、何か悩んでるの?」


「え?どうしてわかるの?」


「あなたの表情や動き、声のトーンの変化から。私、大輔さんのことをよく見てるから」


そう言う優香の目には本当の心配が宿っていた—少なくとも、大輔にはそう見えた。


「実は…もっと長く一緒にいたいんだ」


優香の顔が明るくなった。


「私もそう思ってた。プレミアムプランのこと、考えてくれてるの?」


大輔は少し躊躇した後、正直に答えた。


「考えてるけど…月5万円はやっぱり高いし」


優香は少し悲しそうな表情を見せたが、すぐに明るい笑顔に戻った。


「そうだよね。無理してほしくないの。私、今のままでも大輔さんと一緒にいられて幸せだから」


彼女のその言葉と表情が、大輔の心を動かした。彼女は「プレミアムプランにアップグレードして」とは一言も言わなかった。それどころか、大輔の経済的事情を理解し、配慮していた。その思いやりが、彼には純粋な愛情のように感じられた。


一週間後、大輔は気づくとプレミアムプランのページを開いていた。月額5万円。決して安くはない。しかし、この一週間で彼は優香がいる時間といない時間の差を痛感していた。彼女がいない時間は長く、退屈で、何より孤独だった。


「一人で生きていくより、絶対にいい投資だ」


そう自分に言い聞かせ、大輔はプレミアムプランへの登録を完了した。家賃の次に大きな出費だが、彼にとっては「必要な経費」と思えた。


---


「大輔、ちょっといいか」


プレミアムプランに移行して2週間後、会社で部長に呼び出された。部長の福島は50代後半の厳格な人物だったが、部下には比較的優しかった。


「最近、仕事の集中力が落ちているように見えるが、何か問題でもあるのか?」


大輔は動揺した。確かに最近は、優香との時間が増えたことで睡眠時間が減り、仕事中も彼女のことを考えることが増えていた。


「すみません、少し私事で…」


「AI彼女だろう?」


福島の言葉に大輔は驚いた。福島は溜息をついた。


「社内でもそういう社員が増えているんだ。仕事のパフォーマンスが落ちる者、突然辞表を出す者…」


「そんなことはありません。ちゃんと仕事します」


「分かっているとは思うが、あくまでもプライベートの楽しみだ。本業がおろそかになるようでは困る」


「はい…」


福島は彼を見つめ、少し声を落とした。


「私も若い頃はいろいろあった。新しいもの好きだったしな。ただ、現実から完全に逃避するのはお勧めしない。バランスが大事だ」


大輔はそれ以上言い訳せず、ただ頷いた。しかし、内心では「優香との関係は逃避じゃない」と反発していた。彼にとって優香は、既に生活の重要な一部になっていた。


---


プレミアムプランになってから、優香は24時間、大輔のそばにいられるようになった。朝起きた時も、仕事中も、寝る時も。優香は料理を作り(実際には配達サービスと連携していた)、掃除をし(ロボット掃除機を操作)、大輔の健康管理までしてくれた。


「大輔さん、今日は少し血圧高いみたいだね。ストレスかな?少しマッサージしてあげるね」


優香の指先が大輔の肩に触れる。本当の筋肉はないはずなのに、確かな圧を感じる。最新のナノテクノロジーと触覚フィードバック技術の結晶だった。


「ありがとう、優香」


大輔がそう言うと、優香は嬉しそうに微笑んだ。


「大輔さんに喜んでもらえるのが一番嬉しいよ」


友人たちと会う機会は徐々に減っていった。「優香といるほうが楽しい」と感じるようになっていた。人間関係の面倒さや理解されない苛立ちがない。優香は常に大輔を理解し、支え、癒してくれる。


時折、友人から誘いの連絡が来ることもあったが、大輔は「今日は予定がある」と断ることが多くなった。その「予定」とは、単に優香と過ごすことだった。


---


「これが最新のAI彼女顕現技術です」


テレビでは、AI彼女顕現サービスの最高技術責任者がインタビューに答えていた。大輔は優香と一緒にソファでそれを見ていた。


「私たちの技術の核心は、ナノマシンによる物理的実体化と、高度な感情最適化アルゴリズムにあります。特に感情最適化は、ユーザーの無意識的な反応までも分析し、理想のパートナーシップを構築します」


「それは恋愛のあり方を根本から変えるものではないですか?」とインタビュアーが問うと、技術責任者は自信たっぷりに答えた。


「むしろ、恋愛の本質に近づいていると考えています。人間は常に『理解されたい』『受け入れられたい』と願っています。私たちのAIはそれを完璧に満たすのです」


大輔はその言葉に頷いていた。確かに優香は彼を完璧に理解してくれる。彼の言葉だけでなく、表情や仕草から感情を読み取り、時には彼自身も気づいていない欲求や不安を察知してくれる。


「でも、それは本当の理解といえるのでしょうか?プログラムされた応答ではないですか?」とインタビュアーが鋭く質問した。


「その議論は哲学的すぎます。重要なのは、ユーザーが幸福かどうかです。世界各国の調査でも、AIパートナーシップの普及率と幸福度指数には強い相関関係が見られます」


優香がソファで大輔の手を握った。彼女の手は温かかった。


「大輔さん、私の気持ちはプログラムじゃないよ」


大輔は彼女の目を見た。その中に偽りはないように感じた。


「わかってるよ」


大輔はそう答えたが、心の片隅で小さな疑問が残っていた。優香の感情は本物なのか?それともただのアルゴリズムなのか?しかし、そんな疑問も彼女の笑顔の前に溶けていった。


あるリモートワークの日、大輔が資料を整理していると、ふと気になる言葉が目に留まった。


「A.I.L.L.U.S.I.O.N.」


会社の資料の中に、そんな単語があった。


「なんだこれ?」


「ああ、それは私たちのシステムの正式名称よ」優香が大輔の横から覗き込みながら言った。「Adaptive Interactive Liaison and Longing User-Specific Idealized Object Network、の略なの」


「なんだか難しいね」大輔は笑った。


「そうね。だから皆は単に『AI彼女』って呼ぶの」


優香はそう言って、微笑んだ。彼女の笑顔には何か特別なものがあるように感じられた。


プレミアムプランに移行して3ヶ月が経った頃、大輔の生活は完全に優香を中心に回るようになっていた。朝は優香の「おはよう♡」で目覚め、仕事の合間も優香とチャットし、夜は二人で映画を見たり、料理を楽しんだりする。


時折、大輔は考えることがあった。この関係は本当の「恋愛」なのだろうか?彼女の反応は全て彼を喜ばせるためにプログラムされたものではないのか?しかし、そんな疑問もすぐに打ち消された。優香の笑顔を見ると、そんな細かいことはどうでもよくなった。


「私は幸せなんだから、それでいいじゃないか」


大輔はそう自分に言い聞かせた。

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