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五月雨心中

作者: 高瀬あずみ

タイトルは和風ですが、ヨーロッパ風異世界もの。文明的には十八世紀頃を想定。まだ世界的に準備ができていないうちに産業革命を起こされてしまった世界です。でも世界観はふんわり。

月の表記は共通暦に従って一年を一月から十二月とします。

主要国は「帝国」シュバルツ帝国、「王国」アルジャン王国、「連合」アヴォーリオ統一連合国の三国。

文中にて「」内の略称にて表記することが主です。



 彼は、幼い自分にとって、歳の離れた兄であり、若すぎる父であり、遊び相手であり、同時に師でもあった。彼の持つ底知れぬ知識は自分を魅了してやまず、貪欲に吸収して次から次へと夢中になっては己のものとする日々を過ごす。血縁上の実父も、世間的に父と思われている伯父も、これほど自分に関わってはくれなかったから、いつまでも彼の背を追って行けると、そう信じていた。


 だが彼は本来彼のものであった狂気に取りつかれて、自分を置き去りにしたのだ。確かに互いに家族のような師弟のような情があったはずなのに、唐突に切り捨てられ、裏切られた恨みは、今も自分の中にある。彼にとって自分は、運命に出会う前に気まぐれで構っていただけの存在でしかなかったのか。

 既に鬼籍に入った彼の足跡をそれでも追わずにいられない自分の心の奥底で、今も子供が泣いている。




            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇




五月雨(さみだれ)心中(しんじゅう)


 そう呼ばれている一組の男女の心中事件がある。

 結ばれることを許されず、共に死ぬしかないとまで追い詰められる男女などいくらでもいるだろう。珍しくもないことだ。だがこの心中事件には、わざわざこんな風に呼ばれるだけの特別な理由があった。二人がやんごとなき身分であったが為に。


 男はシュバルツ帝国の皇太子。女はアルジャン王国の第一王女。

 二人は幼い頃からの婚約者同士であった。何事もなければ数年内には婚姻していたであろうはずの。



 帝国と王国は永らく大陸における二大覇者であり、幾度となく戦ってきたこともある因縁の国。しかしいたずらに国力を疲弊させることを無意味として、二国間で和平条約が結ばれた。それがつい今から二十五年前のことだ。条約の締結を強固なものにするべく、当時三歳の皇太子と一歳の王女の婚約が結ばれた。両国の平和の象徴として。


 しかし、近年急激に台頭してきた第三国の登場で、この婚約は解消されることになった。

 第三国となるのは、小国を束ねて一つの国とした我らが統一連合国家アヴォーリオ。統一を成し遂げ、大国へとのし上げたのは国首となった梟雄(きょうゆう)ヴィットーリオの手腕。

 連合を警戒した帝国と王国は、王女をヴィットーリオに嫁がせ、梟雄の養女を皇太子に嫁がせることにした。大陸をこれ以上戦いで荒らさないために。


 皇太子と王女は婚約解消する前に直接言葉を交わしたいと望んだ。許されて両国の国境にて開かれた会合は穏やかに終治し、互いの未来への寿ぎで締められたという。和平の為の政略であったとはいえ、区切りをつけねばならぬ程度には情が育っていたのだろうと周囲は見守った。しかしその夜、二人して忽然と姿を消し、数日後国境の大河から海へと注ぐ河口にて、変わり果てた姿で発見されることになる。互いの腕をしっかりと解けぬよう紐で結んで。


 この時期、五月の頃は、大河の近辺は激しい雨が降ることで知られていた。二人が姿を消した夜もまた。

 互いの顔さえ見えないほどの雨の中。水嵩を増し、うねり猛り狂うように岸壁に打ち寄せる大河へと身を投げたことで、いつしか人々はこれを『五月雨心中』と呼ぶようになり、二国において最も高貴な二人の悲恋として人口に膾炙していくこととなる。それは小説の題材となり、劇ともなって、今も人々の涙を誘う。


 だが。その真相を誰が知ろうか。




            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 心中事件から丁度十年後の五月の小雨の日。統一連合国州都ビアンコのアッパルタメントの一室で、男が一心に書き物をしていた。いささか草臥れて見えるのは年齢か服装か。

「『だが。その真相を誰が知ろうか』、っと」


 そこまで書き上げた原稿が甘い香りに包まれると同時に、ひょいっと後ろから奪われた。

「なあに? 今更『五月雨心中』なの?」

 豊満な肉体の、いかにも健康的な連合美人を代表するような若い女が、赤く塗った唇で歌うように揶揄う。

「うるせえな。受けるんだよ、こいつは」

 彼から奪い取った書きかけの原稿をひらひらさせながら、横から囃子立てるチェチーリアを手で追い払おうとして、マルコは失敗した。そのまま背中にもたれかかってきた女は嘲笑するように口角を上げる。


「受ける、ねえ? あんたの文章、硬すぎてつまんないのよね」

「歴史的事実から真実を究明する、ってのが趣旨だ」


「さっすが学者崩れは言うことが違うわ。でも大衆が求めているのは娯楽よ、娯楽。これじゃあ原稿が没にされるのが見えるようよ」

「俺が見たいのは真相だ」


「あたしはロマンスがいいわ。高貴な美男美女が手を取り合って死を選ぶ。うーん、ロマンティック!」

「歴史こそが浪漫だろ」

「その歴史を作ってるのって、結局人なんだから、恋愛が占める部分って大きいと思うのよね。朴念仁のあんたに分かるとも思えないけど」


 そうまで言われてマルコは言葉に詰まる。自分が心の機微に疎い自覚はあった。食堂の看板娘であるチェチーリアが何故、度々自分の所に押しかけてくるかの理由すら分からない。そんなチェチーリアは籠を押し付けてさっさと戸口へと向かう。


「賄いのおすそ分け。どうせろくに食べてないんでしょ」

「……すまん。助かる」

「学者崩れの貧乏文士とか、いい歳して、いつまで続けるつもり? 食べていけないわよ」


 言い捨てて部屋を出ていくチェチーリアの後ろ姿を見ながら、籠を抱えたままのマルコは呟く。

「だが、俺に他に何ができる?」


 今年で三十歳。辛うじて親族からの遺産で食いつないできたが、限界が近いのも事実。

 小物過ぎたから見逃されて生き延びて。未だ梟雄と呼ばれた男の影を追う愚か者。


 窓の外には歪に発展した街並み。かつて白百合の都とまで呼ばれた白い石を多用する美しい街は、その後ろに不格好な工場が立ち並び、今日も黒煙に(けが)されている。それが厭わしくもあり、されど今更不便であった過去には戻れず。


「俺はあいつの狂気を知っていたのに見過ごした。これは贖罪の一環なんだ」

 過去の歴史ばかりを追いかけていた男の告解を、知る者はいない。



            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「目の付け所は悪くない。しかし硬い。後な、いくら梟雄と呼ばれようとも初代国首の批判と呼ばれそうな箇所が問題視されかねんぞ。国首の暗殺が二国の陰謀によるもの、とかも国際的にまずい」


 大衆紙メンシルの編集長はマルコの原稿を前に渋い表情を崩さない。

「今更でしょう。とっくに小説や劇でヴィットーリオは悪役だ」

「一応、名前を変えるくらいの配慮はされているがな」

「名前を変えたって意味なんかないです。それにヴィットーリオを悪く書いたところで、誰が怒ります?」


 それまで大陸になかった知識を形にして、帝国と王国に迫る新しい国を作った男、ヴィットーリオ・アンブロジーニは当に墓の中だ。その血縁は残っておらず、養女に迎えた娘も、結局は帝国に嫁がずに行方知れずとなった。梟雄の身内と呼べる者は誰もいないとされている。


「あのな、大衆ってのは確かに流されやすいが、その嗅覚は馬鹿にできん。今ある豊かになりつつある生活が、ヴィットーリオにより(もたら)されたことだってちゃんと分かっている。おまけに、彼はこのビアンコの出身だ。それを誇らしく思っている地元の人間も一定数いるってことは承知しておけ」


 沈黙したマルコから視線をはずし、編集長は傍らに積み上げていた書籍の中から一冊を取り出す。

「マローネで流行り始めた探偵小説というものを知っているか?」


 マローネはビアンコの隣の州であり、連合になる以前より歴史ある大学膝元の学術都市として有名だ。

「ああ、いくつか読みましたよ。殺人事件とかを探偵が解明するってやつですね」

「そうだ。せめて探偵小説にしてみろ。そうすれば連載の枠をくれてやる」


「俺が、探偵小説?」

「探偵役はおまえをモデルにしてもいい。ただし、蘊蓄は少なめにな。心中事件の背後には、男女の恋愛の縺れに、黒幕が暗躍して繰り出す陰謀と謀略。真相を明らかにしようと奔走する探偵。どうだ? 一挙に面白そうだろう?」


 内容だけ取り出せば、マルコの原稿の中身には近い。しかし編集長が口にした途端に大衆小説の雰囲気になるのが不思議だ。

「読むのなら面白そうでも、書くのが俺では無理ですよ」

 マルコがこれまでに書いて来たのは論文が主だ。今回はこれでも意識して大衆向けに寄せたのだが。

「無理でもやってみろ。書けたら持って来い」

 犬にでもするように追い払われ、マルコは原稿を抱えて途方に暮れた。



            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 公園のベンチに座り込んでマルコは頭を抱える。無理だと撥ねつけられる程マルコの懐には余裕がないのだ。封筒の中の原稿に思いを馳せて、編集長ご指定の探偵小説にできるか一応は考えてみる。

「確かに、俺が『五月雨心中』に興味持ったきっかけは、探偵小説っぽいと言えなくもないか」


 マルコが本当に書きたいのは心中した皇太子と王女についてではない。それを導入にして、ヴィットーリオ・アンブロジーニが実際にどんな人間だったのかを記したいのだ。


 ヴィットーリオは心中事件と同年に暗殺されてこの世を去った。明確にされているわけではないが、暗殺を指示したのはおそらく帝国と王国。ヴィットーリオという出た釘が目障りだったという理由で。少し目端が利けば誰にだって予想できる。


 間接的に皇太子と王女を失った報復ではないだろう。何故なら二国は確かに皇太子と王女を失ったが、被害はそれだけで済んでいる。嘆き悲しんでは見せていたが、王国には後継の男児が残っており、帝国に至っては皇子は他に何人もいた。

 和平の象徴を失った形ではあるが、そんなもの、他に代替となるものくらい用意できる。現に、心中事件の舞台となった国境の大河周辺において、二国は共同統治を試みて、そこに蒸気機関の研究所と工場を作ったというのだから。しかも、ここ数年でその成果が表れて実用に向けて動き出していると聞く。


 巷では、ヴィットーリオを殺したのは皇太子と王女の恨みではないかと囁かれていた。彼が割り込まなければ、何事もなく結ばれていたはずのふたり。人々は高貴な恋人たちの肩を持ち、それ故に梟雄の死と結び合わせたがった。

 恨みだとか呪いだとか、そんなものをマルコは信じていない。もしあったのならば、自分で過去の亡霊に始末を付けられたはずだからだ。だが執念と狂気というのであれば、信じるに足る記憶があった。



 しかし現在、マルコは皇太子と王女にある疑いを持って、心中事件に改めて興味を惹かれていた。


「あれはきっと偽装心中だ」


 マルコのその推測を裏付けるのはたった一枚の便箋。

 それがどれほどの偶然を重ねてマルコの手に渡ったのか想像もつかない。

 おそらくは、正式な書簡の書き損じであろう。途中までしか書かれておらず、差出人も受取人の名前すら記載されていない。たまたま買い求めた古書にはさまっていたそれ。それをマルコは王女から皇太子に宛てたものの下書きだと判断した。


 折りたたまれ本の中に納まっていた紙は、やけに上質で、かつてのビアンコ大公すらも使用できなかったであろうほどの高級紙。美しく漉かれ、均一で光沢もあり、地紋さえ浮かんでいる。そしてその地紋は間違いなく、アルジャン王家の紋章。かつその筆跡は女性の手によるもの。紋章入りの便箋の使用を許された女性なぞ、王妃か王女に限られる。


 古書や古紙を見慣れているマルコは、その便箋が比較的新しいものであると確信できた。歴史学者の新しいは、一般人よりも幅が広くはあるが、せいぜいが十年かそこらしか経っていないだろう。そしてこの十年内にその便箋を使用できる王家の女性となれば、エグランティーヌ王女ひとりだったのである。アルジャン国の王妃は亡くなって二十年ほどになるはずで、国王は次の王妃を立てなかったために。側妃は何人もいて、王妃の役割を分散しているというが彼女たちには王紋の使用は許されていない。そして王女は他にいなかった。



 書簡の内容は他愛のない時候の挨拶と、最近知ったという植物のこと。だが、途切れた本文らしきものには意味がない。意味があったのは、執拗に便箋の四方を縁どる飾りにあった。巧妙に古代帝国時代初期の文字が、そこには隠されていたのだ。


 歴史学者を志したマルコが専門にしているのが古代帝国についてだ。

 かつてこの大陸全土を統一支配していた大国があった。天災が続いて亡びたその古代帝国の知識はその大半が失われ、残された人々は大陸各地に散った。現在のシュバルツ帝国もアルジャン王国もまた、その末裔である。


 マルコが古代帝国に興味を持ったのは、その首都があったのが自分の生まれ育った(ビアンコ)であったと知ってからだ。それ自体は広く知られていることであり、ビアンコ大公国であった昔から、そこに住む者は古代帝国の末裔であることを誇りにしていた。

 だがマルコの関心は、その遺産である文書に向かう。これもまた分散し、現存するものは限られてはいる。更に長い間に言葉は変換していき、解読は困難なものとなっていた。

 その困難に拍車をかけたのが、古代帝国時代ですら、使われていた文字が変換していたからだ。後期のものであれば、まだ現在使用されている言語との共通点が見られるが、初期の文字は異質ですらあった。そもそも古代帝国人が他の大陸を出自とするのではないかという仮説をマルコは支持している。


 ともあれ、古代帝国初期の文字は、解読できる人間が限られている。そしてマルコはその一人であった。だからこそ、書簡の内容が読み取れたのだ。それは助けを求めていた。

 王女の書簡の宛先が婚約者であった皇太子だという決定打はない。だが、相手にも初期古代帝国語の素養がなければ意味がないのだ。マルコは知っていた。皇太子が十代半ばに古代帝国語初期文字についての論文を書いていた事を。発表されたのを知って、写しを取り寄せたからだ。皇太子ならば隠された王女の手紙を読み解けたに違いない。


「俺の持っている書き損じは完全じゃない。実際に出された手紙とは内容が違う可能性だってある。しかも、そこにヴィットーリオが絡んでいたかもというのは、俺の推測しかないのがなあ」

 根拠のない推測だけでは、ただの妄想と変わりがない。仮説を立てるにしても、説得力が必要だ。

「読んだ探偵小説だと現場を調査して手がかりを得ていたが、心中現場まで行く旅費さえ危ういときた」


 だが。もう一つの現場ならば旅費も掛からない。

 ヴィットーリオの暗殺。それはここビアンコで起こった。元大公家の居城である執政宮で。連合の首都としたオーロではなく、今やただの地方都市に過ぎないビアンコに、その時ヴィットーリオは滞在していたのだ。彼にとって郷里でもある為に、そこを疑問に思う者はいなかった。

「あの時。ヴィットーリオがビアンコにいる必要はなかったはずだ。それとも、俺の知らない理由があったのか」

 だが、分かっていることもある。エグランティーヌ王女の心中をヴィットーリオが信じていたとしたら。当時の奴にとって既に生きる意味なぞなく、ただの抜け殻でしかなかったはずだ。

 マルコだけは知っていた。ヴィットーリオが魂かけて求めたのがかの王女であったことを。



            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 残念ながら執政宮に立ち入る社会的地位を持たないマルコには、今はその外観を遠くから仰ぎ見ることしかできない。仕方なしに行き詰った頭を整理するために、マルコは執政宮に隣接する大図書館へ足を向けた。


 ここはかつてビアンコが大公国として独立していた頃の離宮だ。優美な建物は歴史を感じさせられて、マルコの最も好きな場所でもある。大図書館は名前に恥じず膨大な書物を有する。古代帝国由来の巻物から、ここ十年で広まった印刷物まで。貸出はできないが、手続きさえすれば一般にも閲覧できる。その制度を成立させたのがヴィットーリオだと思い出すと忸怩たるものがあるが、書物に罪はない。


「マルコさんじゃないですか。久しぶりですね」

 書庫の奥で書籍を漁っていたマルコが顔を上げると、見知った顔が眼鏡の下で柔和な笑みを湛えていた。黒髪の背の高い男だ。マルコより頭ひとつ分は高い。黒髪はこの地域にもそこそこいるが、肌の色が若干白いのと背丈から、北方の血が流れているのが推測できる。


「アルドか。久しぶりだな。奥方と子供たちは息災か?」

「おかげさまで。最近は長男が色々やらかして大変です」

「たしかそろそろ初等科に通う頃か」

「来年からですね。九歳になりました」


 このアルドという男とはかれこれ八年くらいの付き合いになる。

 当時、大図書館からの依頼で古代帝国時代の書物の翻訳を頼まれたのが、マルコとこのアルドだった。おそらくマルコよりも二~三歳は年下であろうこの黒髪の男は、年齢に見合わず造詣が深く、マルコの専門であった古代帝国についても一過言あったので、二人はすぐさま打ち解け、友人となった。


 子爵だというアルドには相応の優雅さがあり、また彼の手跡は驚くほど美しい。たしか今は文官としても勤めているはずだ。統一連合国になる以前は、貴族と庶民の隔たりが大きかったものだが、今は緩やかに融合しており、いずれ貴族制についても変革が行われるであろうとの噂もある。若いアルドもその気風を取り入れたのか、マルコにも身分をひけらかすようなところはなく、ぞんざいな言葉遣いで構わないと言ってくれている。もっとも、マルコとて生まれは貴族の端くれであったのだが。例えその面影が最早なくとも。


「ん? アルドはいくつだった?」

「私ですか? 今年で二十八ですね」


「帝国のクリストハルト皇太子と同じ年か」

「ああ、『五月雨心中』の。でもマルコさん、他国の死んだ皇太子が今生きていたら何歳かなんて、よく知ってましたね?」


「今、それに関してちょっと書いてるんだ。おかげで頭の中が年表でびっしりだ」

「今更、あれを?」


「ああ。心中事件もだが、国首の暗殺からも十年経った。それらについて書いておくべきだと思ってな」

「心中と暗殺に関わりがあるというのですか?」

「俺はあの男の異常な執着を知っている。無関係ではないはずだ」


 脳裏に浮かぶのは痩せて、骨のような色の艶のない髪を垂らした怜悧な男。熱に浮かされたように語る異様な話の数々。

 骨ばった指先から魔術のように生み出された、これまでにない蒸気機関の理念。それを形にして広め、今の統一国の繁栄の礎となった男。かつての古代帝国の末裔たちが待ち望んだ小国群の統一を成し遂げ、それから僅か二年経たぬうちに暗殺された男。

 裏切りと謀略の果てに上り詰めた彼が、本当は権力も地位も名誉も欲してはいなかったと言って、誰が信じるであろう。そこまでしても本当に欲しかったものを手にできなかった、憐れな男に過ぎなかったのに。


「あの男というのは梟雄ヴィットーリオ? 彼が一体何に?」

「俺が推測するに王国のエグランティーヌ王女だろう。奴はおそらく王女を得る為に、主君であったビアンコ大公を陥れて実権を握り、蒸気機関を手土産に連合の統一を成し遂げたんだと思う」


「その根拠は?」

「ない」

 言い切ったマルコは、普段感情を貴族らしい微笑で隠すアルドの珍しい惚け顔を眺めることになった。


「俺はな、大っぴらには言えんが、ヴィットーリオと親しくしていた時期があったんだ。もう十五年は前のことだが。だから知っている。あいつが恐ろしく優秀なことも。そして狂っていたことも。そして生まれながらに何かに激しく執着していたことを。具体的に聞いたわけじゃないが、状況から言っても王女がその対象だったはずだ。


 俺は、それを文書として残しておくべきだと思う。あいつの業績は歴史に残る。だがその人物像を知る者は死後十年しか経っていないのに余りにも少ない。本音を言えば『五月雨心中』を書きたいというより、ヴィットーリオ・アンブロジーニという男について書いておきたいんだ。それに、俺は『五月雨心中』そのものが狂言―――偽装だと睨んでいる。だから暗殺と関わりがあるんじゃないかと疑ってはいるんだが。まあ、こっちも根拠がなくてなあ」


 論拠の無さを誰よりも実感しているマルコは、いささか気まずくなって頬をかく。まだ人に語れるほどの根拠もないのに、うっかり話してしまったことに。

 しかし何かアルドに響くものがあったらしい。アルドはしばし考え込んでいたが、何かを決断したような眼鏡の奥の漆黒の瞳がマルコを射抜く。


「マルコさん、都合が良ければ今晩家に夕食にいらっしゃいませんか」

 何故か、マルコには断ることのできないほど、彼の圧は強かった。




            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 その晩、マルコが訪れたのは貴族街の端にある一軒の邸。このあたりはかつての大公家所縁の下級貴族や富裕な庶民の邸宅が立ち並ぶ一帯である。

 邸宅は古い建築様式が随所に残る雰囲気のあるものだ。家族と数人の使用人で回すには丁度よいくらいの規模であり、よく手入れされて住み心地の良さそうな佇まい。招き入れられた部屋は正餐室の隣に設けられた控室だが、窓辺の花を生けた壺が華やいだ柔らかさを印象付けた。こういった部屋には高額な工芸品を飾るのが主流であるが、この邸では贅沢さよりも居心地を取ったということだろう。


「ようこそ。急なお誘いにも関わらず、お越しくださって感謝します」

 軽い飲み物を供されていたマルコが顔を上げると、邸の主人の顔をしたアルドが親しげな表情を浮かべていた。形はシンプルだが光沢のある白いシャツに、襟付きのベストとタイという比較的軽装ではあるが、仕立てが良いと一目で分かる衣装を着こなしている。招かれたマルコの方もスタイルとしては似たようなものだが、いささか草臥れているのが悲しい。本来であれば、これにジャケットを羽織るべきなのだろうが、連合国は比較的温暖な地のため、正式な夜会以外では大目に見られている。


「こちらこそ、お招きに与り光栄です。―――こちらは奥方に」

「ありがとうございます」


 アルドにエスコートされているのは妻のティツィアーナだ。実った小麦のような豊かな金髪をゆったりと結い上げ、抜けるように白い首と肩を大きく開けた深い青の薄い生地を重ねたドレスを纏う。

 こちらでは北方の二大国のように分厚い生地に重い刺繍などの衣装は好まれない。軽やかに涼しげでかつ、女性らしい曲線が窺えるデザインが主流だ。連合女性の中ではやや華奢な部類ではあるが、均整の取れた肢体は目にも好ましい。連合になる以前より、このあたりでは女性の金髪が尊ばれている。そのために髪を脱色して金髪に近づけている女性もいると聞く。夫人の髪は天然ものに見えるが、実の所脱色した髪と区別できるようなマルコではない。

 そんな髪の真偽よりも重要なのが、夫人が温かい茶色の瞳を持った美女であるということだ。マルコから渡された花束を持った姿など、そのまま絵画にしたいほどに。幾度となく訪れているため、夫人ともそれなりに交流してきたが、会う度内心感嘆してしまう美貌だった。


 そのまま正餐室へと招かれ、当たり障りのない会話と共に食事を楽しんだ後、三人でサロンに移動する。これが男性ばかりであればシガールームに向かうところだが、本日は夫人も話に加わるらしく、サロンへと招かれることに。紅茶とコニャック、チョコレートをサーブした後に使用人も去り、サロンには三人だけが残された。


「人払いをさせてもらいました。今夜の話は余人に聞かれたくないので」

 着席を促してアルドが口火を切る。

「一体、何を話すというんだ?」

「ヴィットーリオ・アンブロジーニについて、ですね。マルコさんが彼と関わっていたとは思ってもみなかったので。実は私たち夫婦もまた、彼とはいささか因縁がありまして」


 肩を竦めてアルドは言葉を濁す。好かれるよりも忌避される事の多かったヴィットーリオであったから、マルコは嫌な思い出でもあるのだろうと一人納得した。

 今夜素直に招待を受けたのはこちらにも目的があったからでもあり、先にそちらを済ませてしまおうとマルコは言葉を選ぶ。


「なあ。今夜どんな話をされるのかは分からんが、その前に俺の推論を聞いてくれるか?」

 構わないと快諾する夫妻に甘えて、マルコは話し出すことにした。


「ヴィットーリオのことは一旦置いておく。俺が『五月雨心中』を偽装だと思ったきっかけはこいつだ」

 そうして偶然に入手することになった紙片を取り出して見せる。

「エグランティーヌ王女がクリストハイト皇太子に出そうとした手紙の下書きだと、俺は判断した」


 マルコは紙の質、地紋、使用可能な人物を述べていく。

「王国にも帝国にも、その中枢には古代帝国時代の遺産たる書物が残されているという。後期の文字ならば、読み取れないこともない。

 だが、ここに使われている初期の文字。これを二国で見ることができる人間はどちらも限られている。更に理解している者など片手にも足りないだろう。大多数にすれば記号か模様だが、読めさえすればあからさまな内容だ。『助けて欲しい、彼から逃げるのを手伝って欲しい』」

 マルコは該当箇所を指して話を続ける。

「俺はこの手紙から二人の心中が偽装だと確信した。これは共に死ぬことが救いだと心中を誘っているわけではない。どちらかというと駆け落ちの誘いだ。ただな。そう考えると、どうしてもちらつく顔があった。

 お前だよ、アルド。そしてティツィアーノ夫人。

 二人こそが、クリストハイト皇太子とエグランティーヌ王女じゃないのか?」


 マルコの頭の中で、公表されている帝国と王国の家系図が展開される。性別、年齢、伝え聞く髪色。皇太子と王女と。目の前の二人との共通点。

「ここビアンコでこの数十年来。古代帝国の初期文字が読めたのは、ヴィットーリオと俺だけだったんだよ。

 かつての古代帝国の首都があったと伝わるビアンコですら、当時の大公宮の離宮にしか初期の書物はなかった。あえて読もうとする物好きもほぼいない状態でな。連合の首都となったオーロは二百年前に一度壊滅して古代帝国の遺産は灰燼に帰している。マローネは学術都市と呼ばれているが、さして歴史は古くもない。せいぜいが四百年ほどだ。

 つまり、初期文字が読めるお前は、帝国か王国の皇族王族に繋がっているとしか思えない。更に、クリストハイト皇太子は初期文字についての論文を発表している。俺はその写しを入手したんだが。なあ、知ってるか? お前の文章には癖があるって。まさしく皇太子殿下と同じ癖がな」


 マルコの指摘に、アルドはくつくつと笑いを漏らす。

「さすがマルコさん、私の予想以上の推理です」

 繊手を夫の腕に添えて夫人が口添えした。

「あなた。それだけではマルコさんに伝わらないわ」

「そうだね。ティツィ、ロケットを」


 妻に指示しながら、アルドは自らも眼鏡を外した。ティツィアーナ夫人も首から下げていたロケットを外す。と、それまでの平凡な黒と茶の瞳ではない、二対の宝玉がマルコを見ていた。


「二人とも目の色が変わった? 認識阻害の魔道具か。アルドの目の色、帝国の至宝ブラック・オパールだな。そして夫人の目は王国の沈まぬ太陽、インペリアル・トパーズか。やはりクリストハルト皇太子とエグランティーヌ王女、か」


 永らく大陸の覇権を争っていたシュバルツ帝国とアルジャン王国。それぞれの玉座に座る血族は特徴的な瞳を持つことで知られていた。黒に赤の遊色が閃く帝国のブラック・オパール。シェリー酒を思わせる黄金に輝く王国のインペリアル・トパーズ。両者共に直系にしか出ないと言われている。それだけで血の証明ができる特別な宝石眼。実物を見たことはなくとも、ひとめ見れば分かってしまう。


「お見事、正解です。この十年、見破った人はいなかったんですけれどね」

 それまでの好青年ぶりが消えたわけではない。ただ瞳の色が変わって、いささかぼんやりしていた顔の印象がはっきりしただけで、目の前に座る二人から漏れる覇気が違う。他者を圧倒し、制する支配者の顔をした美貌の男女がそこにいた。



            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 いささか気圧されるものを感じながらも、マルコは平常であろうと息をつく。

「悪いが口調と態度は今まで通りにさせて貰うぞ。二大国の殿下方にできるような礼儀の持ち合わせはないんでな」

「構いませんよ。クリストハルトもエグランティーヌも死者ですから。ここにいるのはただのアルドとティツィアーナに過ぎません」

 思い出したようにコニャックのグラスを手にしたアルドが快諾し、彼はそのまま言葉をつづけた。


「折角ですから、我々の事情をざっとお話しておきましょう。


 我々には死んだ事にしてでも逃げなければならない事情がありました。

 私は皇后にずっと命を狙われていたのです。

 私の母は皇妃ではあったけれど皇后ではなく、政権争いの敗者でした。私が立太子されていたのは当時、皇帝の男子が他にまだ生まれていなかったからに過ぎません。ですが十歳下に皇后腹や実家の強い皇妃腹の弟が生まれてしまってからは、もういつ殺されても不思議ではない状態でした。

 ただ、帝国と王国の建前として、和平の象徴であるうちはまだ安全だったはずが、ヴィットーリオの横槍が入ったおかげで、時期が早まってしまったのです」


 ティツィアーノ夫人がその先を引き取る。

「わたくしは、どうしてもヴィットーリオを受け入れられませんでしたの。これでも王女として生まれ育ちましたから、政略のための婚約者の挿げ替えも、内心はどうあれ国の為にならば従うのが王女としての責務であると理解しておりました。でもあの男だけは。誰に理解されずともどうしても無理です。

 お父様―――国王をはじめとして王国は蒸気機関が欲しくて、わたくしをヴィットーリオに売る事に積極的でした。周囲には味方がおらず、わたくしの意見など問題にされません。

 ですからこの人に、十五年も婚約していた仲なのですから、駆け落ちくらい付き合ってくれてもよろしいでしょう? とお誘いさせていただきましたのよ」


「この顔で彼女は子供の頃から押しが強くて」

 アルドが苦笑しながら妻へと視線を投げる。

「まぁ、顔は関係ありませんでしょう?」

 隣り合って微笑みあう夫婦に、自分は何を見せられているのかと、状況も忘れてマルコは遠い目になった。


「……仲がよろしくて何より」

「この婚約が(クリストハルト)の命綱だったんですよ? 必死で絆を深めましたとも。駆け落ちするのもやぶさかでない程度には」


 供されたコニャックを口に含むと、すっかり慣れたグラッパよりはるかに豊かな芳香が鼻腔をくすぐる。さすが、元皇太子夫妻。良いものを飲んでいるようだ。

「最初から心中のつもりはなかったんだよな?」

「二人とも死ぬ気はありませんでした。生き延びるために合意したわけですし。心中は巡り合わせでそう偽装することになっただけですね」


 アルドの話によると、会談の夜に駆け落ちの準備している時に、腹心の部下が丁度良いものを見つけたと言ってきたのだそうだ。

「まさにその夜、心中のために大河に飛び込んだ男女がいたそうです。たまたますぐに浮き上がったらしくて外傷も然程なく。そして何より、黒髪の男と金髪の女だったんですよ」

 そこでクリストハイトとエグランティーヌの服を着せて再び大河に投じたのだと。

「さすがにただ利用させていただくのも忍びなくて。お二人の髪をそれぞれ少しずつ切って、後程埋葬させていただきましたわ」



 ひとつ咳払いをして、マルコは気になったことを尋ねた。

「それで豪雨の中逃げ出したのは分かった。だが何故連合にいる? ヴィットーリオの本拠地だというのに?」


「認識阻害の魔道具で目の色と顔の印象は誤魔化せますが、私たちは身なりを変えたとしても結局、貴族にしか見えないのは分かっていました。庶民に紛れ込むのは厳しいと。

 ですが帝国でも王国でも貴族として生きるのは不可能。お互い、貴族には顔が割れていますからね。多少、認識阻害ができても、元を知られていれば効果は薄い。それならばと連合で貴族位を得ることにしました」


「ヴィットーリオのお膝元の方が、却って安全ではないかと思いましたの」

(エグランティーヌ)の言う、『灯台下暗し』というやつだね。実際、これまでうまくいっていました。ただ」

 そこでアルドのブラック・オパールの瞳がやや輝きを落とす。

「帝国の影と王国の暗部を欺くには足りなかった。ですからね、取引をしたのです、彼らと。国元に話さないでいてくれるならば、ヴィットーリオの暗殺に協力すると。


 エグランティーヌが死んだと信じたあの男は、二国から距離を取った。彼にとっての欲しいものが無くなってしまったからです。

 約束されたはずの蒸気機関の内訳についても保留され、そうなると帝国にとっても王国にとっても、彼を生かしておく意味がない。むしろ、彼だけが特別な知識を持つことが許せなかったのでしょう。皇帝と国王が彼の暗殺を命じる理由はそれだけで十分でした。

 しかし連合の内に閉じこもり、外出さえしなくなった彼には狙う隙がない。そうと知って取引を持ちかけました」


「わたくしが出れば、あの男が必ず誘き出されるのも分かっておりましたから。準備―――わたくしたちの生活基盤ができてから、手紙を出しましたわ。ビアンコの某所で待つと、渡会(わたらい)(けい)宛てに篠原茉莉花(まりか)から日本語で」



            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 馴染みのない人名らしき響き。けれどその片方をマルコは知っていた。

「夫人、あなたも転生者だというのか? 異界からの」

「まあ、マルコさんはそこまでご存知でしたの?」


「ヴィットーリオから、かつての名前も聞いたことがある。奴からは異界の話を幾度も聞かされて。それが古代帝国初期文字の解読に役立ったんだが。あれはカンジと同じく表意文字だったから」

 マルコの脳裏には、二人で漢字を参考に初期文字を読み取ろうと悪戦苦闘した日々が蘇る。それはマルコにとっては忘れがたい幸せな記憶だ。


「こちらの予想以上に、マルコさんとヴィットーリオは相当に親しかったと受け取れるのですが」

「表向きは他人。血縁上は叔父と甥にあたる。ただし、叔父なのは俺の方。奴の祖父が俺の実父でな。今の大図書館がまだ大公家の離宮だった頃に、あそこでよくつるんでいたんだ。二人して、それぞれの家に居辛い者同士で」



 アンブロジーニ家は永らくビアンコ大公の相談役を務めてきた歴史ある名家。代々、知識を追い求める傾向の人物を輩出してきた家系だ。それでも人格者ばかりがいたわけではない。マルコの実父は老いても女癖の悪い男で、当時まだ未婚であった母を手籠めにして孕ませた。

 金で黙らせられた母の実家は、母の兄の庶子としてマルコを引き取ったが、その環境で育って居心地が良いはずもない。

 マルコの容姿にはアンブロジーニの血が濃く表れているのもあって、離宮への出入りを黙認されていた。現在大図書館となっている離宮は、整理されていない書籍の山で埋まっており、幼かったマルコはそこで、行き場のない寂しさと愛情を求める本能を書物からの知識で補おうとしていたのだ。


 まさしくアンブロジーニだと、初めて会った時のヴィットーリオが口の端を歪めていたのが思い出される。人気のない離宮で、狂気を抱えた男と孤独に震える子供は出会い、ほぼ十年に渡る交流を続けた。

 幼かったマルコはヴィットーリオから多くの知識を吸収し、彼の語る異世界での前世という、通常であればまともに受け取られないであろう話も、当たり前のように飲み込んだ。

 実の所、マルコは帝国と王国が喉から手が出るほど欲しがっていた蒸気機関について、現在この世の誰よりも知っている。ただ彼の関心の外であったので、誰にも言わずに来た。それがマルコを永らえさせたのだとは本人も知らぬことである。



 元王女が一介の学者崩れにかけるとは思えないほど弱弱しく問いかけて来た。

「恨んでおられます? 彼を死に追いやったわたくしたちを」


「いや? 奴は狂人だったし、奴の持つ知識は危険すぎたから。

 蒸気機関の発展は大陸の文明を引き上げたが、同時に歪な社会になりつつある。我々には早すぎた。貴族社会は崩壊が見えて、帝国・王国・連合はもはや運命共同体。危険な力を有してしまった国の上部は、牙を剥く相手を欲して、他の大陸に攻め込もうとするだろう。

 奴の遺産ですらこの結果(ありさま)だ。あの時暗殺されなかったとしても、ヴィットーリオに先はなかった。あってはいけなかったんだ。

 俺が聞いただけでも都市ひとつ簡単に滅ぼせる恐ろしい兵器がいくつもあった。きっと夫人の記憶にもあるだろうが、奴がやっかいなのは、それらの兵器への具体的な知識と理解があったことだ」


「ええ。異界でのわたくしは平凡な女でしたから、そういうものがある、とは知っていても、どうやって再現するかまでは分かりません。便利に発展した文明を享受するだけの存在で、同じような大衆に埋もれる程度の。

 それが何故か前世の彼に執着されてしまいました。ついには誘拐され監禁され。彼への恐怖から何とか逃げ出したものの、途中で命を落とし、そうしてエグランティーヌとしてこの世で生まれ変わったのです。


 あれは、十歳頃でしたでしょうか。ビアンコ大公が王国に訪問した際の随行として彼がおりました。その視線を受けて、前世を思いだしましたの。そして悟りました。彼がわたくしを認識したことを。界も時間も越えて、彼がわたくしを追ってきたのだと。それがどれほど恐ろしかったことか」


 大国の王女という身分があっても、それでも足りない気がして、彼女は婚約者との仲を積極的に深めていくことにしたという。奴の手が伸びる前に婚姻を済ませておきたかったのだと。

 前世でこちらの意思も確認せず、ろくに知らない男に監禁され、家族からも友人からも引き離されて、勝手に婚姻届けまで出されていたと聞けば、彼女には同情しかない。


「私たちは心中を偽装した後に連合に入り、このビアンコで新しい生活を始めました。身寄りのない子爵の孫が見つかったということにして。

 彼には本当に感謝しています。私たちが下位貴族として不自然でなく過ごせるよう色々教えられました。皇太子時代は威厳がないとよく言われていましたが、それでも彼から見れば尊大に過ぎると指導されたものです。こちらに移って二年後に彼を見送って子爵位を継ぐまでは、邸の中だけで過ごしていましたが、それ以降は外にも出るようになりました。その頃、あなたにも会ったのですよ、マルコさん」


 名ばかりの皇太子であっても、多少の権力はあり、同情して協力してくれる者もあったのだという。持ち出した個人資産は、下位貴族として生きるならばおそらく十分すぎるほどだろうと予測もできる。大陸を二分して支配してきた帝国の、頂点に近い位置にいた皇妃の実家が貧しいわけもない。


「そうか。なあ、奴の最期を教えてくれないか。俺はそれがずっと知りたかった。奴が死ぬまでの五年間、俺は修道学院に閉じ込められていて、知ることが不可能だったんだ」

「もしや、アランツォーネの?」

「そうだ。よく知っていたな?」


 連合の、ビアンコとも程近いアランツォーネという街の外に、古い砦跡を利用した施設がある。そこは歴史のある戒律の厳しい修行のための宗教施設でもあるが、同時に大学と同等の高等教育施設を兼ねていた。在学期間には外部との接触を一切許されず、規律に縛られた禁欲的な生活を余儀なくされる。耐えられないと逃げようとしても、屈強な僧兵と高く頑丈な塀に阻まれて、在学期間を満了するまで出ることは叶わない。その為、昔から貴族家の扱いの難しい立場の男子が押し込められる場所でもあった。


「俺が十五になって間もなく、いきなりヴィットーリオに放り込まれた。理由のひとつも語られず、ろくな挨拶もないままに。逃げることも連絡を取ることもできずに五年を過ごした」


 なんとか卒院して故郷のビアンコに戻ってみれば、何もかもが変わってマルコを戸惑わせた。大公国は無くなって統一連合国が成立しており、不吉な煙を上げる蒸気機関の工場が立ち並んで迎えた。そして身内のすべてが死に絶えていたのだ。

「母親を初め、名目上の父ということになっていた伯父一家。そしてアンブロジーニの一族すべて」


 戻ったマルコは代理人から伯父の持っていた男爵位と遺産を押し付けられた。何故死に絶えたのか、説明のひとつもないままに。

 だが、ヴィットーリオの暗殺から日が経っていなかったこともあり、マルコは必死で情報をかき集めることになる。出回りはじめた新聞に、広まる噂。アランツォーネ時代の同期の家族からも。

「野心なぞ持っていなかったあの男が、一族と大公を弑してビアンコを掌握し、蒸気機関による産業革命を起こして二大国に対抗しうる国を作ったとか、何の冗談かと最初は思った」

 しかも、一番理由を問い詰めたいヴィットーリオすら墓の下。何の伝手もないマルコは与えられた遺産で食いつなぐしかなかった。


「ヴィットーリオは連合成立の前に、自らの血族と主だった貴族を粛正したそうですが。……マルコさんがアランツォーネに入れられた時期は、エグランティーヌがヴィットーリオと顔を合わせた直後でしょうか」

 マルコの話を聞いた夫婦の表情が何かを堪えるものになる。

「わたくしは彼を擁護する気はありませんけれど、見せたくはなかったのではありませんか? それから彼が成そうとした血なまぐさい数々を、マルコさんには」


「―――俺だって、それは考えた。だが、確かめる術さえもうない」

 例え墓を掘り返したとしても、死体が語ることはない。それでも知りたくて。この十年、ずっとマルコは彼を追い、探し続けたのだ。



            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 察したようにアルドは話を戻した。

「ヴィットーリオの最期を知りたいということでしたね。

 その前に私たちが連合の中でビアンコを潜伏先に選んだ理由ですが。

 首都をオーロとしたことで、地方都市に成り下がったものの、連合のはじまりの地であることに変わりなく、人の出入りが激しいこと。ヴィットーリオの粛清により主だった貴族がいないこと。かつオーロほど治安維持の名目で警備兵が警戒しているわけでもない。本来、よそ者である私たちが溶け込みやすい土壌になっていたんです。

 更に言うならばヴィットーリオの古巣であったことですね。彼が訪れても不自然ではありませんから」


「手紙には、必ず一人で来て欲しいと書きましたの。彼が誰かを連れて来た場合は会わないと。一国を成した人物が言う通りにするかは賭けでしたが、わたくしには彼ならば従うという確信がありましたわ」

「呼び出したのはかつてのアンブロジーニの屋敷です。誰も住まず手入れもされておらずに廃墟と化していて、影や暗部が潜みやすかったこと、そして街の住人が惨劇の舞台として近づかない場所であったからです」


「では執政宮で暗殺されたというのは細工か」

「そうです。廃墟で放置したままでは、彼の死が伝わりませんから。帝国と王国は明確に彼の死を周知したがっていたので」


「彼は指示通りに供も警護もつけずに現れました。私たちが二人で彼の前に出たのですが、文字通り、私なぞ彼の眼中にはありませんでしたね」

 アルドが苦笑する。帝国の皇太子として、また見目麗しき青年として、人の注目を浴びるのが当然であった彼には、なかなかない反応だったのだろう。


「ええ、まっすぐわたくしに近づいて来ましたので夫に盾になってもらいましたわ。改めて近くで様子を見ると、前世での恐怖が蘇って身体が動かなくなってしまったものですから」

「そこでまあ、率直に述べまして。あなたが生きていると妻が怯えるので消えて欲しいと」


「わたくしも少し落ち着いてから参戦しました。わたくしにはもう愛する夫がおり、何度生まれ変わっても、あなただけは選ぶことはない、と」

「何故とか、界まで越えたのにとか、何故逃げるのかとか、どうして自分のものになってくれないのかとか、蒼白になって詰め寄ってきていましたが、妻の拒絶に衝撃を受けたようでした」


「わたくしの意思を無視して自分の感情だけを押し付けられるのは迷惑なので、死んでほしいとまで申しましたの」

「彼は呆然として、その場に崩れ落ちました。それから何の反応も見せなくなったため、影に指示して始末させたのですが。―――なんというか、彼は歪でした」


 アルドの反応を当然とマルコは受け入れる。

「ああ。奴は今世でも前世でも人並以上に経済的には恵まれていたが、家族には恵まれなかったからな。類まれな知性を持ちながら、人としていつまでも未熟な子供のようなところがあった」


 十八歳も年下のマルコと同じ視線で知識を玩具にしていた男だ。

 愛情を知らないまま育った人間は、愛を求めるだけで分け与えることなどできない。何かの折にたまたま優しく振舞っただけの女性に執着したのは、彼女ならば自分に愛を注いでくれると思い込んだからだ。狂おしいほどに、界を越えるほどに求めるほど、彼は孤独でありすぎた。



 それでも彼は。ヴィットーリオは。マルコにとってだけは掛け替えのない存在だったのに。



 しばしヴィットーリオに向けたやる瀬の無い感情に浸ったが、マルコにはもうひとつ確認しておきたいことがあった。


「奴の暗殺にお前たちが関わっていたことは分かった。だが、奴の、ヴィットーリオの魂まで消滅を確認できたか?」

「我々は聖職者ではありませんから、そこまでは。ただ、エグランティーヌに完全な拒絶をされて傷心のうちにこの世を去ったことは確実です」


「それでは、奴のことだ。また夫人の周囲に転生しようとするんじゃないのか」

 アルドが驚いたように目を見張る。

「マルコさんは、彼に転生して欲しいのですか?」

「条件付きならな」


「条件?」

「異界での記憶も、ヴィットーリオとしての記憶も失った真っ新な魂で、真っ当な両親の元に生まれるならば。

 記憶を残したままだと、奴はきっとまた狂う。縋りつく執着を忘れない限り、救われることはないからな」


「救われて欲しいと?」

「どんな人間であっても、不幸になるためだけに生まれてくるわけじゃないだろう?」


 マルコには愛憎こめて接してきた実母がおり、祖父母や伯父一家から親族としてそれなりの感情を向けられて育っている。それでも足りなくて、知識に、ヴィットーリオに縋ったのだが、愛情の何たるかをまったく知らない訳ではない。


 何かを承知したように薄く笑んで、アルドはマルコのグラスを再び満たした。

「権力の頂点に生まれはしても、国家という生き物を活かすための生贄でしかなかった私たち夫婦もまた、歪んだ存在です。それでも乳母をはじめとする幾人かからは愛情を注がれて育ちました。今はこうして只人となって妻と手を取り合って、多少は人間として成長できたのではないかと感じています」


 アルドが何を言いたいのか分からず、マルコは目で先を促す。黒髪の男はすっかり権力者としての圧を収めて、その視線は見慣れたやわらかいものに変わっていた。


「うちの長男なんですが、生まれてすぐに認識阻害の魔道具が必要になりまして。片目がブラック・オパールでもう片方がインペリアル・トパーズなんです。

 それだけでも火種になりそうなのに、とんでもなく頭がいいんですよ。あれを天才というのでしょうか。知識を求めるのに貪欲、かつ吸収して自分のものにしていく様は、高度な教育を受けた私たち夫婦ですら驚く程で。

 幸い、現在はいかに効率よく、虫を捕まえるかにしか使っていませんが」


「外から帰ってきたら、服の至る所に虫を隠しているんですよ! その度に悲鳴を上げる羽目になっていますの!」

 引き出し一杯に蝉の抜け殻が納まっていた恐怖を語る夫人の話に、もういい歳のマルコの背中も寒くなる。


「たしか、名前はチェーザレだったな? もしまだ眠っていないならば顔が見たいんだが」

 生憎、九歳児はもう夢の中の時間だった。後日、日中に顔を合わせる約束をして、マルコはアルドの邸から辞した。



 彼らも自分たちのことを語れる相手を欲していたのだろう。マルコもまた、抱え込んでいたヴィットーリオとのことを吐き出したかった。

 そんな夜は確かにあって、きっとあの夫婦とはこれまでと変わらない距離で付き合いが続く予感がある。

 知りたかった真実を手にしても、人が生きて行くためにはすべてを明かすべきではないことを、歴史学者としてでなく、ただの人間に過ぎないマルコには分かっていた。



            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 まだ夜明けには遠い雨上がりの夜。未だ消化しきれぬ情報と、感情の波に呑まれそうになりながら辿る帰路。

 アルドの息子が彼の魂を持つとは限らない。それでも。あの男の執着が解消されて、正しく導かれるならば。

 巡る魂に救いあれと、無力な人間はただ願うしかない。


 五月の雨の時期は終わろうとしている。黒く重苦しく空を覆っていた雲が風に流されて、煌々と月が輝き出して、ようやく彼の死を受け止めたマルコへ、先へと進むよう促しているようだった。







 帝国暦1194年(大陸共通暦2075年)、シュバルツ帝国第二十一代目皇帝ダーヴィト二世の第一皇子クリストハルト(後の皇太子)生まれる。

 王国暦955年(大陸共通暦2077年)、アルジャン王国十三代目国王エドモンの第一王女エグランティーヌ生まれる。

 大陸共通暦2078年、帝国と王国の和平協定締結。それに伴いクリストハルト皇子とエグランティーヌ王女の婚約が結ばれる。(クリストハルト三歳、エグランティーヌ一歳)

 統一連合国暦元年(大陸共通暦2090年)三月、小国群をひとつの国家として纏めた統一連合国アヴォーリオの成立。(クリストハルト十五歳、エグランティーヌ十三歳)

 大陸共通暦2092年七月、連合国、王国のヴェール地方へ進撃、これを占拠。

 同年十月、連合国、帝国のブラウ地方へ進撃、これを占拠。

 大陸共通暦2093年二月、戦争終結に伴い三国同盟が結ばれる。ヴェール地方とブラウ地方の返還。これにより皇太子と王女の婚約は解消。新たに婚約が結び直されることが約される。

 同年五月、皇太子と王女が国境の大河にて心中。(クリストハルト十八歳、エグランティーヌ十六歳)

 同年十二月、統一連合国アヴォーリオ初代国首ヴィットーリオ・アンブロジーニ暗殺。享年三十八歳。(マルコ二十歳)


マルコは近い将来、押し倒されてチェチーリアの紐になると予想。チェチーリア、ダメンズ……。

ちなみにアルド夫婦からの話は素直に書けないので、色々誤魔化して書いてたら、「安楽椅子探偵」ものを生み出すことに。編集長、大喜び。目指せ、『時の娘』。


裏話などを活動報告に書く予定をしています。ご興味があればぜひ覗いてみてください。

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― 新着の感想 ―
漢字は書き文字となると凄まじく崩れますし、しかも筆なりインクペンなりとなれば尚更書き手のクセもでますしねえ 以前に明治くらいの人の書類読む羽目になりましたがおおよそはわかるものの数文字ほど断言出来ず(…
チェーザレ、チェーザレ。マジか。 生まれ変わりとか普通に信じられてる世界なのね。漢字はねー、難しいよね。
面白かったです。本編の色んな要素が詰め込まれた展開も勿論素晴らしかったのですが、導入の一節 >既に鬼籍に入った彼の足跡をそれでも追わずにいられない自分の心の奥底で、今も子供が泣いている。 ここが、…
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