紅筆
もの言わぬは腹ふくるると言う。
今の私は東京府を離れ東北の片田舎に引っ込んだ。当時の知り合いもここには来ない。
言わずにはいられないが言ってしまう勇気もない。だからここに書いておくことにする。
いつか誰かが見つけたら、その時の手に委ねよう。
少し前に亡くなった先生のことなのだが、私には未だに本当がどこにあるのかわからないのだ。
その頃、私は美術学校を卒業したばかりで、谷中の鶯よろしくぴいちく囀るだけの小僧だった。
これからは画家として生きていく。美術の研究をするのだ。
そう息巻いてはいたものの、昨今の情勢からすればなかなか厳しいものがある。卒業を手放しで喜んでばかりもいられない。
田舎で絵を褒められ東京に出た。学校も平凡な成績だが卒業できた。ただそれだけで画家というものをやっていけるほど世間は甘くない。
ひとりで野を行く度胸など流されるように生きてきた私にあるわけがない。
同期が講師を始めたり、博物館や出版社に仕事を見つけたりしていく中、それが決まらない私には虚勢を張ることくらいしかできなかった。
そうしているうちに内心途方にくれていた私を見かねたのか、少しは才を見つけてくれたのか、とある教授が初音町にある美術院にお誘いくださった。
この美術院というところは描いた絵を売った金で運営されるという。私の絵など平凡にすぎて売れないだろうが、美術院に所属する全員の売上なら。そもそも先生方なら買ってもらえる後ろ盾もあるだろうし。
私一人くらいおこぼれに預かっても、かまやしないだろう。
兎にも角にも月給が貰えるというのはありがたいことだ。教授の前では神妙に頭を下げていたが、実は小躍りしながらその話に飛びついていた。
美術院はとにかく絵画三昧で、毎日が絵を描くことで過ぎていく。
運営の方針は確かに絵を描いて売ることなのだが、それよりも気鋭の先生方の絵を間近で見られる。給金を貰えればいいとだけ思っていた私にさえ、それは本当に嬉しいことだったし勉強になった。
昼は絵を描き、夜は画談義。諸先生方に連れられて街に繰り出すのは、まるで売れっ子の画家のような気分になれた。
あの時ほど気分の高揚したことはない。
「絵を描くというのはだな!」
そう言って始まる画論の凄み。白熱の議論は深夜に及ぶ。
真面目に聞き入っていると、
「あんなものは話半分に聞いておけ」
などと言う方もいて、それが元でまた掴み合いの喧嘩にまでなる。
そんな刺激の多い日々だった。
そうやって連れていってもらえる店の中でも、とりわけ私たちの気に入りの店があった。
そこは女将からして美人で気が強く、芸者も気風のよさが売りとくる。こちらが戯言を言おうものなら十にも百にもなって返ってくるのだ。
その芸者とのやり取りもまた楽しみだった。少し色めいたことを言われでもしたら店からの帰り道では大変な騒ぎだ。
たとえ愛想とわかっていても俺は誰それと仲がいいだの、僕はこの娘が気に入りだの、さんざ言い合っていたものだった。
そんな中にあって、その先生は「誰がいい」などと言うでもなく酌をされれば黙って受けている。
そういう人だった。
静かではあったが決して臆病などということはなく、むしろ誰よりも内に情熱を秘めていたのではないかと思う。
それは描く絵にも現れていて、どこかしら寂寞とした表情がかえって見る人の情緒を引き出す。
そういう絵を描く人だった。
芸者たちは、人知れず熱量を持つ先生の性格を、敏感に感じ取っていたのだろう。入れ替わり立ち替わりその先生の隣に侍るのだ。
「なんでお前の隣ばかりなんだ」
周りから文句を言われようと何処吹く風。
「別に頼んでいるわけじゃない」
そう言って酒盃を干す。
「それは自慢なのかね?」
皮肉や刺し言葉にも動ぜず黙って酒を流し込む様は痛快で、私もあんな風に言ってみたいと羨ましく思ったりもした。
その日は小春日和のうららかな日曜だったのを覚えている。
初めて私の絵が売れたのだ。
美術院の先生方は新しい手法を取り入れて描くことをしていたから、私も躍起になってそうしていたのだが、そればかりでは私など上手の先生方の間で埋もれてしまう。だから伝統的な技法で描くこともしていた。
その絵は古典的な絵で、展示の時は今さらそんな絵などと酷評を受けもした。
だが出品しなければ美術院にいる意味もなくなる。ここを辞めたら野垂れ死ぬしかない。そんな切羽詰まった状況でもあったのだ。
私の絵を買ってくださった方はお医者だった。
その方は「普通なところがいい」と喜んでいいのか、悲しめばいいのかわからない評をくださったのだが。売れたことには違いない。
郊外に療養所を建てておられたその方の元に、買っていただいたお礼とご挨拶に伺った。
今思えばさもしくも見えるが、その時は本当に必死で。あわよくば他の絵もなどと淡い期待を抱いて幾つか小品を持っていった。まあ、それに関しては思ったほどの成果ではなかったのだが。
それでも、そういったことでもなければこんな何もない所に行き来することはないだろう。
そんな場所で先生と出会ったのだ。
「先生?」
思いもかけない場所で出会って驚いてしまった。
「やあ、こんな所へどうしたんだ」
「先生こそ。もしかしてご家族に具合の悪い方が?」
いや、と言ったきり、先生は駅に向かってさっさと歩き出した。
私もその後を追う。
先生は、あまり饒舌な方ではないし、私も憧れの方と同行する緊張でしばらくは黙って歩いていた。
と、先生は不意に立ち止まった。
気になるものがあったのだろう。画帳と鉛筆を取り出してさらさらと描いていく。
私のことなどさっぱり眼中にない様子だったが、それでもせっかくご一緒できたのだ。思い切って話しかけてみた。
「先生は、いつもこのようなところで写生をなさっているのですか」
「……この辺りの草木の生きる様子がいいんだ」
そう呟かれた。
言われて辺りを眺めてみると確かにそうだ。この季節でさえ小さな草花も空も、空気さえも生き生きと色づく。
「本当だ。こういう景色もなかなか味があっていいですね」
私の言葉に先生は苦い顔をする。
なにか気に障ることを言ってしまったのだろうか、と恐る恐る尋ねてみた。
「いや、ここのことを知られたくないだけだ」
一緒にここで描いてみたい、などと思った心を見透かしたように言われた。
参ったな、先生はおひとりで絵を描きたいのか。そう言われては残念だが引き下がらざるを得ない。
「誰にも言わないでくれるかな。特にあの人たち……」
さらりと二、三人、名前を上げられた。その方々とは仲がいいと聞いたのだが秘密なのか。
「知ったらきっと自分も来たいと言い出すだろう」
君もそうじゃないか、と先生の目が言っていた。
「家の者にも言わないでくれるかい。遠出をしたなんて心配をかけたくない。君の胸だけに収めておいてくれ」
もう一度、先生は私に口止めをして、ぞくりとするような目を向けてきた。
なぜそんな探るような目をするんだろうか。そんな怖い目をしなくても先生のためなら誰にも言いはしないのに。
秘密の共有という愉悦。それは私にとって何にも勝るというのに。
「い、言いません。誰にも」
張りついた喉を湿らせ、やっとのことで小さく言った。
すいと目を逸らした先生はいつもの静かな物腰で、先程の気配はもうどこにもない。
それなのに、
「さて帰ろうか」
と言われた柔らかい声にもなんとなく寒気を感じてしまい、私はもう黙って後ろをついていくだけだった。
そんなことがあってから、しばらくの時が過ぎた。
それは季節の変わり目、気温の差が堪える頃。私たちは例の行きつけの店から馴染みの芸者の訃報を受け取った。
「最近、具合がよくないとは聞いていたが。残念だな」
「ああ……亡くなったのか」
「贔屓の子がいなくなるのは悲しいねえ」
そう言って目を閉じ、誰からともなく皆で焼香させてもらおうということになった。
女将も目をかけていた娘だったから、と今日だけは店を閉めている。
「どうか皆さんであの子を送ってくださいな」
通夜振る舞いを口にし彼女を語る。
三味線を弾く細い手。儚い顔立ちの、そこだけ紅い唇。勝ち気な口調と、しっとりと艶やかな唄声。物腰から見える芯の強さ。
語る皆の口からひとりの芸者の姿が浮かぶ。
彼女はどこか先生と似ている。そう、思った。
描いてみたい、と思った。
知らず、先生の席へと目が向く。いない? どこへ行かれたのだ。
喉に小骨が引っかかったように苛々する。心が騒ぐ。声が止まり呼吸が詰まる。
私は堪えきれず部屋を出た。
「ありがとうございました」
廊下の先から聞こえてきた女将の囁き声。それはどことなく艶めいていて私の心臓が跳ねた。
「いや……」
先生が応えた声は素っ気ないものだったが、唯ならぬ気配を感じて私はそっと廊下の隅に身を隠した。
「先生にお医者を紹介していただいたから、最期の頃はずいぶんと穏やかに過ごせたようなんですよ」
「それは本人とお医者様の力でしょう。僕はなにもしてませんよ」
あっ、と思った。
あの小春日和の郊外での出会いはそういうことだったのか。もしや見舞いに行かれた帰りだったのだろうか。
「たまには、わたしの感謝も素直に受け取ってくださいな」
先生は、うん、とだけ言ってまた席に戻られたようだった。
女将がひとつため息をつく。
「身も心もあの娘をまるごとさらっていって、わたしにはそれだけなのね。ほんと憎い人」
呟いた女将もぱたぱたと戻っていった。
なんだって?
私は頭が真っ白になってその場に立ち尽くした。
ため息まじりに呟かれた女将の言葉を掴みかねる。だが女将の声音も言葉も、あれは情念だ。
酒のせいか、ちりちりと胸が焼かれる。
酒と、今の話で混乱する頭のまま、ふらふらと酒席に戻りかけた。
「君」
「……せ、先生」
「家の用事があるから今日はこれで帰るよ。皆によろしく言っておいてくれ」
目が怖い。
もしかして先生は私が聞いていたのを知っているのか。
誰にも言うな、ですね。わかっています、先生。
ああ、でもそれなら私のこの心を……
「はい。あ、あの……」
「なにかな」
ぶつけられた言葉と視線。それを殺気のようにも感じて私は一気に酔いが醒めた。
「……お気をつけて」
うん、と言って先生は背を向けられた。
その姿が見えなくなった途端、べたりとその場に座り込んでしまう。
私は、なにを言おうとしたのだ。
肩を抱いて身を震わせる。
今度はぐらりと酔いが回ってきて、胸に張り詰めていた怯えを吐き出さずにはいられなかった。
「なんだ、どこへ行ってた」
「厠か?」
「あいつもいないな」
どこへ行ったと文句が出る。
「先生でしたら家の用事で先に帰られるそうです」
私が言うと、酒が入っていることもあって文句はすぐに消え、先生のこともそのままになった。
ほっとして、私はだんだん自分の狼狽ぶりが可笑しく思えてきた。
やはり男女の関係になった、なんてことはないさ。そうだ、先生に限ってあり得ない。先生は奥様を大事にされているし……
そう考えて苛々と酒盃を煽る。
ああ、落ち着かない。私の心に湧いてくるものはなんなんだろう。
忘れてしまえ。
そうだ、そのほうがいい。こんな気持ちは忘れたほうがいい。
立て続けに流し込む酒の力で、ようやく忘れることができそうだと思った矢先。
「なあに、これ」
芸者のひとりが形見分けにもらったという小箱を開けていた。
なんだなんだと皆の注目が集まる。
中には鮮やかな紅。
小箱には紅入れと一緒に紙が一枚入っていた。
開いてみると花一輪。
「これ、あいつの絵じゃねえか?」
「紅で描いたのか」
「花びらのとこ指で色つけたんですかね」
「……」
私には聞こえる。場の全員の心が「どういうことだ」と叫んでいる。
「これ借りていってもいいだろうか」
あの先生と、とびきり仲が良い方が軽い調子で言われた。
「あら、あたしは紅をもらったんだからそれは差し上げます」
芸者も軽くそれに返す。
その声を遠く聞きながら、私の心はまた混沌へと叩き落とされた。
やはりそういうことだったのか?
それなら今、言ってみたらどうだろう。言ったら先生はどうするだろう。あの澄ました綺麗な顔をぐちゃぐちゃにして謝るだろうか。
黙っていたら、秘密を知っている私をもっと画壇の高みへと押し上げてくれるだろうか。いや、それよりも私の気持ちを……
後日、先生は皆に囲まれた。
「これに見覚えあるだろう」
「なんですか、それ」
「お前の絵だろう? あの芸者の紅で描いたものらしくてな。形見分けの小箱に入ってたんだそうだ」
大げさなほどのため息を吐き出して、先生は顔を上げる。
「まさかとは思いますが、僕が芸者といい仲になって絵を描いて渡したってことですか」
「艶事のひとつふたつあったって、どうということもないだろう? まあ、奥方には内緒にしておいてやるよ」
先生は本当に呆れたと、ひどく無情な目をされた。
「そんなことを言って、そもそも僕の絵だっていう証拠はあるんですか。僕らの画風が似てるのは自覚してます? 似せようと思ったら誰でも描けますよ」
それから立て板に水と弁舌を振るい他の先生方を論破すると、
「そんな絵があるから妄想に取り憑かれるんでしょう」
そう言って誰が止める間もなく、びりびりと絵を破ってしまう。
「痛くもない腹を探られるのは迷惑です。こんなもの最初からなかったんですよ」
窓からまき散らされた紙が、赤い花びらのように風に舞った。
先生が何かしたのか、あるいはしなかったのか。本当のところはわからない。
ただ、その端正な顔と肉付きの薄い体が庇護欲をかき立てるのか、それとも素っ気ない態度から知らず溢れる情熱に惹かれるのか、たいそう女性に心を寄せられる人ではあった。