~Drench(濡れネズミ)のDream(夢見)~
三人組が去ったその後は、静寂に沈み込んだ雰囲気だけがこの場を支配する。
「露子……」
名前を呼ばれて、露子は姫子とあすなろのほうを向く。
「うち、二人が嫌い」
目を見開いた露子に、二人は当惑した顔をする。
「そんな、あたしとあすなろくんは」
「弁明なんかしなくていい、どう言ったってうちは姫子ちゃんとあすなろくんが嫌いよ」
取り乱しているせいか、露子が自分でも何言っているのかわかってないのだろうと、そんな風に姫子は軽く考えていたが。
「うち、雨のことが嫌いよ」
「えっ?」
「本当に昔からそうだった。うちだって雨乞いなんてしたくないの」
その言葉を聞いたとき、露子の抱える悲しみに触れたような気がした。それはきっと決して触れてはいけないものだったのだろう。それをわざわざ露子は自分の心から引き出している。
「雨なんて鬱陶しい。雨の音も、湿った空気も、濡れ落ち葉も、鬱陶しくて仕方ない。それなのにうちは雨乞いの巫女の役割を着せられる」
どう答えていいのかわからない。姫子はただ露子の話すがままに任せるしかなかった。
「あんたらのことが、うちは嫌い。雨のように鬱陶しくて鬱陶しくて嫌いよ」
「そんな、あたしたちは親切心で」と姫子が言いかけると、目を見開いて露子が姫子を見る。
「それが余計なお世話というものよ、もううちのこと放っておいて!」
露子が後ろ姿を見せて、その場から立ち去ろうとする。
待って、とも言えず。ごめん、とも言えず。露子の放っておいて、という言葉の余韻が姫子に差し迫って、止めているのだ。
何もできなかった。
ただ耳に残る露子の言葉が、姫子の心にのしかかる。
――雨のことが嫌いよ。
――あんたらのことが、うちは嫌い。
――もううちのこと放っておいて!
家に帰り、自室に戻ると先にルテが回り道して戻っていた。
「姫子」
気安く呼ばれて姫子は持っていた鞄を右手に持って振るい、ルテを殴りつけようとした。空振りはしなかったが、ルテの身体を鞄がすり抜けた。
「あたしの気持ちと、露子の気持ちを察しなさい」
「だってあの子が雨を降らせられないのは、本当のことよ」
「うるさい!」
鞄を天井に投げつけて、教科書とノートが畳の上に散乱する。
「出てけ!」
「……。わかった、出ていく」
そう言いながらルテは逆さになったてるてる坊主を手に取った。
「また会いたくなったら呼んで」
そう、例えば。
「思い出の品が燃えてなくなるのを、黙って見ているのが耐えられないときとか……」
「うるさい!」
そして、ルテは自分の姿を消す。彼女が手に持ったてるてる坊主も一緒に消えた。
ただ一人自室に残される姫子。日差しが傾いて、電灯もつけず、ただ暗いだけの部屋で座り込む。
「まったく」
自分も悪いのはわかっている。けれど、いまはルテのお気楽で、デリカシーのない、そんないい加減な心で迫られるのが許せなかった。
◆
「あすなろくん……」
目の前にあすなろがいた。だが違和感がある。あすなろの姿はいつもと比べて少年の顔立ちに近かった。
「……さん、君にプレゼントを持ってきたんだ」
それを聞いて、心がふわっと開かれるように嬉しい気持ちになる。
小さな紙袋の包みを渡され、小さな手で受け取る。
「うれしい、ありがとう。いま開けてみていいかな」
シールを取って紙袋を開くと、中にキツネの顔をした髪留めが入っていた。
「君に一番似合うと思って選んだ。いろいろ考えたんだけどこれが一番かなって思った」
どうして自分は、このキツネと相性がいいのかわからない。そんなに自分はキツネのような性格に見えるのか。それでも頬と目頭が熱くなる。
「ありがとう、ずっと大事につけてるね」
はじめてあすなろからもらったプレゼントに、心臓の鼓動が心地よかった。
学校の窓ガラスの向こうにある空は、鉛色をした雲に覆われていた。廊下に一人あすなろが待っていた。
「どういうことなの! あすなろくん」
「ごめん、僕は君とは付き合えない。僕はその、……さんが僕なんかといるよりも、もっと幸せになれる道があると思うんだ」
なんであすなろがこの場で別れ話を言うのか。
「その、本当にごめん。でも僕は……さんのことが好きになった。それだけは事実だ。その、僕がこんなことを言うのは……」
「それがあすなろくんの優しさだって言うの?」
どきっとした目で、あすなろはこちらを見る。
「それを優しさなんて捉えるのは傲慢よ」
「……さん」
「あすなろくんは、女の子に嫌いになるほうが心が穏やかなんでしょう?」
「そんな、僕は」
「絶対に許さない、このまま嫌いになったで済ませてやるものか。一生後悔させてやる!」
そう言いながら学校の廊下を出た。
後ろで自分を「待って!」と必死の声で響く。けれどそれも聞こえなくなる。
雨が降り始め、やがてその雨足も激しくなる。駆け抜けるほどに雨音は大きくなり、そしてあすなろの声は過去の余韻のように聞こえなくなってしまった。
「なんで、あすなろくんのことがまだ好きなの?」
ジャージ姿をした女の子たちに囲まれていた。
「目障りよ、だいたい彼が別れ話を切り出したんだから、あなたも諦めなさいよこのストーカー女」
そんなつもりは一切ない。あすなろのことが許せなくて意地になっているだけだ、ただそういう感情でしかない。
業を煮やして苛立ち、はらわたが煮えくり返った顔で、女の子たちは激昂する。そして髪の毛を引っ張ってくる。
「まだその髪留めをつけているのね? それ、あすなろくんからのプレゼントなんですってね?」
髪留めを掴んで、むしるように奪い取った。
「何するの」
「こんなもの、燃やしてやる」
木材を立てたオブジェが目の前に現れる。キャンプファイヤーで見たことがある。
油の匂いがした。油で湿らせた布を巻いた棒を持ち、マッチを擦ってから布に火をつける。
女の子はキツネの髪留めをキャンプファイヤーに投げ入れた。
「やめて!」
「うるさい!」
後ろから数人の女の子から罵声を浴びながらも、点火させられる。
「いやぁあ!!」
火柱が立つ。やめてという叫び声で、自分はひたすら喚く。
もう数人の女の子に羽交い締めされて、髪留めを取りに行くことはできない。
燃え盛る火を見ながら、涙が溢れ出てきた。
そのとき、雨が降り始めた。キャンプファイヤーがじりじりと音を立てながら火の足が徐々に弱まっていく。
いきなりの雨に女の子たちは、この突然の事態に戸惑いを隠せない。
暴れて自分は、女の子の羽交い締めからの拘束を解き、キャンプファイヤーの中に身体を入れた。周りから悲鳴や金切り声が聞こえるけど、そんなことは無視する。
火柱がいまだ立ち上る中でも、とにかく髪留めを探した。
雨がすべての火を消し去った直後に手に取った髪留めは黒ずんで何の形をしていたのか、すでにわからない。
けれど、自分はたった一言「よかった」と言葉を口にした。
◆
そこで姫子の目が覚める。
「……ゆめ?」
布団の中で寝汗がパジャマに染みていることに姫子は気づく。
異常なほど、ありえないほど怖い夢だった。
すべては経験しているはずもない出来事なのに。やけに生な感覚があった。それくらい後味の悪さが後を引いたような夢だった。
姫子はその生の気持ち悪さで胸が苦しかった。朝早く起きたものの、ただ激しく息を吸って吐く。目覚めて数分の間、そんなことしかできなかった。
――。
テストを終え、体育祭の日が訪れた。
雲がひとつとしてない青空である。どう考えても雨など降るなど考えられない。
「やっぱ、雨降らせられなかったでやんの」
三人組が露子を嘲るのが聞こえる。まだあのことを引きずり、ねちねちとした態度で笑うんだ。露子は何も言わない。反論もしない。けれど、姫子は彼女が内心傷ついていることはわかっている。あれだけ作法にうるさい露子だ。雨乞いが成功はしなかったとて、その仕事に対する熱意は忘れてはいない。そうに決まっていると姫子は押している。
白いシャツと紺色のハーフパンツの生徒たち。
今日は午前と午後でいろいろな種目がある。騎馬戦や綱引きといったスタンダードなものが多いが。なんといっても、この体育祭のメインは午後に控えている。十キロの距離を走る競歩大会である。
無難に午前の部が終わり、購買で買ったパンを食べるために、屋上へと足を運ぶ。
凹の字型になった第一校舎。その屋上から凹型校舎のへこんだ場所にある中庭を見る。誰かが何かしらの踊りをしていた。
露子だ。
何をやっているのだろうか。
この凹型校舎の中庭は、午後になると校舎の陰になる。朝から昼間にかけてならば東から日差しが当たる。午後一時あたりになれば薄暗くなるだろう。だから誰も憩いの場所として使用したりしない。
昔は二階建てだったらしいが、生徒の要望で四階建てに増築された。三階と四階には図書室と視聴覚室ができたという。
露子は踊っている。第一校舎は四階建てだが、かなり狭い。先日、渡り廊下などを増設して第二校舎と合体したが、北の壁から南の壁まで十数メートルしかない。はっきり言えば狭いスペースだ。そんな窮屈な場所で踊るのも無理があろう。
もしかして、露子は雨乞いの儀をしているのか。
通りがかりの生徒から衆目を集めている模様。露子のほうを見るたびに、指差しをしたり、笑ったり、面白半分な様子で見たりしていた。
露子はあのとき、自分が嘘つきだと言って、約束はなかったことにした。
学校を去らなくてはいけない理由はなくなったけれど、姫子にとってそれは屈辱的だと思う。それは露子の傍から見ていた側として、そう言える。まして当事者の露子にしてみれば、屈辱以上だろう。
姫子は階段を駆け下りて、露子に声をかけようと思った。
だが姫子が一階に降りたときにはすでに露子はそこにいなかった。