~Blow(風に吹かれる)、Blue(青い)空とBrown(日焼け肌)~
◆
「うるさい」
熊が人語を喋った。暗くてよくわからなかったが、よく見ると後ろから熊を両手で締め上げてる。いや違う。それは熊の毛皮だった。
そしてこの声にも聞き覚えがある。
露子だ。
「なんで、そんなものを持ってるの。しかもこんなヨソの家に上がり込んで」
「ヨソの家に勝手に上がってるのは姫子ちゃんでしょう?」
「露子、それはあんただって同じでしょ」
「ここ、神社の所有地、うちの倉庫」
何を言われてるのか瞬時には呑み込めない。だが、姫子は数秒遅れてからようやく気づく。ここは露子の神社が、倉庫として使っている家なのだということを。
先ほどは制服姿をしていたが、露子はいつの間にか露子は巫女の衣装を着ていた。
「ごめんなさい」
「ほうら、出ていった出ていった。もう外は晴れているわ」
そっと、雨宿りさせてくれてありがとうと言って、姫子は外に出る。
雲の切れ間から太陽の光が差し込んでいた。
一本の道に沿って、緑々とした耕作地が広がる。この農道を東に進むと学校があり、西に行くと途中で丁字に折れ、左右で商店街と住宅地に行き先が分かれる。
「本当に露子が雨を降らせたの?」
「違う」
朝から教室で言っていたこととまるで違う。豆鉄砲を食らった鳩のように姫子は面食らった。
「うちは神様にお願いしただけ、雨を降らせたのは神様だから」
「ああ、そうなの」
それでも祈りとかで雨の神様にお願いするというのは凄いことではある。
姫子は露子の後ろ姿を追う。じゃあねとか、さよならとか、別れの挨拶を何も言わないので、なんとなくついていくことになってしまった。
その足で二人は神社に辿り着く。コンクリートの農道からあぜ道に外れたので、靴の裏が泥だらけになった。
「今日の雨は、本当にあんたが雨乞いをしたからそうなったの?」
「そうよ」
神社は雨後で石畳も本殿の屋根も潤っていた。
露子は鳥居の左端に触れるように通り、姫子は鳥居のど真ん中を通る。
露子は次に手水で丁寧に手を洗う。姫子は見よう見まねもせず柄杓を口につけて水を飲む。
露子は本殿に相対し、柏手を打った。
姫子はそんなことをせず、ぶしつけに木の段差を超える。
本坪鈴をガラガラと鳴らしてから、財布から五円玉を取り出して賽銭箱に投げ入れる。
「あすなろくんと結ばれますように」と密かに願いを届けて一礼する。
さてと帰ろうと思って踵を返すと、露子が目を細めてこっちを見ていた。
「靴の泥」
姫子は、しまったと顔に出す。賽銭箱の正面に上がる際に、靴の泥を落としてなかった。
いつの間にか手に持っていたホウキを、露子は姫子に投げつけた。
「露子、酷い。そんな乱暴にホウキを投げつけなくても!」
「神様に何をお願いしたかわからないけど、姫子ちゃんも神様にお賽銭を渡すとき、そういう風に投げたじゃないの」
そこで姫子は自分がしでかした無作法に気づく。
「賽銭の渡し方は駄目、鳥居の通り方も駄目、手水での作法も駄目」
「だってあたしそんなこと詳しくないもの」
「姫子ちゃん。友達の家でも、さも自分の家にいるように、無礼を働くの?」
その言葉に対し、姫子は言い返せなかった。
それもそうだ。友達の家であれ、神社であれ。最低限のマナーは知っているべきだと悟った。
「まぁ今回は掃除だけで許してあげるから」
「ごめんなさい」
仕方なく姫子は、泥をホウキで掃く。やっと終わると、彼女は何かを胸に抱えて神社の端に足を運んだ。
絵馬飾りでもするのかと思ったが、そうではない。神社の両端にある高木の枝に、露子はてるてる坊主をつるした。
「雨乞いをする巫女さんが、てるてる坊主をつるすの?」
「そうよ、雨乞いをしたからと言って雨が降り続いてしまったら、それはそれで困るでしょう?」
そのためのてるてる坊主というわけか。いま雨は降ってないのだけれど、おそらく保険的なものだろう。姫子は「なるほどね」と言って頷く。
てるてる坊主はどれも手作りしたものだとわかる。丹精込めて露子が作ったのだろう。手先も器用そうなことは、てるてる坊主を紐でくくるテキパキした感じから容易に想像できる。
「晴れていく」
そう言いながら露子は空を見上げた。
雲が四散する動きを見せ始める。夏空が広がり始める。
……。
夏空が広がった、日曜日の正午過ぎ。きたる期末テストのために、姫子は部屋にこもって勉強をしていた。しかし、部屋の中は蒸し風呂状態だった。
雨で涼しかった日々はもう陰すらもない。あの秋のような涼しい気候はどこへいった。
熱中症になりそうな空気に姫子の苛立ちはすでに最高潮である。部屋にクーラーなし扇風機なしエアコンなし。この織田家では、物欲を耐え、電気代を節約し、省エネをし、環境に優しくすべし、というのが母の主張であった。たぶん省エネと環境という文言はおまけだろう。だが母の言い分は守らなくてはならない。理不尽だ。
こんな状況で勉強はもちろん、寝転びながらスマホアプリで遊ぶこともできない。座椅子に座りながら低い机に向かいながら、暑い暑い暑いという言葉しか頭に浮かばなかった。
地獄だ。
「暑いわね、姫子」
「顔を近づけるな」
ルテが天井から背伸びをし、不気味な笑顔で姫子に肉薄する。テスト勉強の邪魔だ。
本格的な夏が到来してきたのだろう。夏はどうしてこう蒸し暑いものなのか? そんな同じ疑問がとめどなく湧いてくる。それゆえに余計暑くなる。
地獄だ。本当に。
「図書館行くわ!」
ノートと教科書を鞄にぶち込んで、姫子は外へ出て行った。
熱のこもったコンクリートの道を歩く。図書館は商店街を抜けた先にある。
日曜ながら買い物客の賑やかな喧噪を抜ける。
雨の気配などまったく消えていた。
一刻も早く冷房の効いた建物に避難したいところだった。ハンカチを額に当てながら小走りでオアシスを目指す。
まだ姫子の足は商店街を歩く。
「もっと早く走って、姫子」
「ルテッ!」
見るとルテは商店街のアーケードに足をつけ、逆さ状態で姫子の上方を走っていた。
家から出て彼女から解放されるのは、どうやら上に何かしらのオブジェが存在しないときだけ。
まったくこの幽霊はどこまで姫子についてくるのかわかったものではない。
よそ見をしているところを、誰かの右肩がぶつかる。
ルテに気を取られて申し訳なく、「ごめんなさい」と言いながら足早に肩の当たった相手に駆け寄る。
「露子?」
「姫子ちゃ……」
顔を見合わせて三秒間経つ。直後、露子は再び走り出した。
「どうしたの、露子」
姫子のことを無視して、彼女は行ってしまった。
もしかしてあのとき本殿を汚してしまったことをいまでも根に持ってるのかなと姫子は考えながら、目の前を見る。
クラスメイトの女子三人組が壁になって横一列走ってきた。
「どけどけぇ!」
危険を察知し、姫子は車道側に出る。クラクション鳴らされ、半分開いたドアウィンドウ越しに「気をつけろ!」と言われる。姫子はしゅんとして、青菜に塩をかけられた。
その次にまた人が駆けてくる。今度は誰だと困惑しながら見ると。
「あすなろくん!」
「あ、姫子さん!」
あすなろが普段は見かけるチャンスのない私服姿で走る。なんで彼までもが走ってるのだろうか。体育祭は今週末だというのに、そんなにマラソンで負けたくないのか。そんな茶番事を考えるのはいい加減にしておこう。
「どうしたの? そんな走っちゃって」
「事情が聞きたいの?」
「う、うん」
「じゃあとりあえず一緒に走って!」
そう言って手を握られた。心臓が快くドキッと鼓動を打ったのは一瞬で、あすなろは姫子の手を握ったまま走り、やむなく姫子も走ることとなる。