~てるてる坊主を逆さにつるしたことがある?~ *2*
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それはおそらく他人のそら似だと思う。けれどそれを考えてもルテと違わぬ顔だった。
「……姫子さん?」
「えっ」
心臓が跳ね上がってとっさに姫子は胸を押さえる。
この少女はおそらく初対面で、そんなこの子がなぜ自分のことを姫子だとわかったのか。
「彦坂あすなろさんが言ってた、あなたのことを……。姫子さん、ですよね?」
そう言ってベッドのシーツに足を隠した状態で、この少女は、緋村照乃という少女は顔を下に向ける。
「あすなろくんについて聞きたいの!」
姫子は彼女の両肩に触れて、彼女を揺すった。けれど無表情をした彼女は、視線が定まらない目つきで、あくまで反応らしい反応を見せない。ただ口が動くだけ。
「さっき彦坂あすなろさんのお父さんとお母さんから、根掘り葉掘り聞かれた。もう何も言いたくない」
それを聞いて姫子はすぐに「ごめん」と言う。」
病気を抱えてる状態でそんなことをされたら身が持たないだろう。姫子も避けるべきだった。
「ごめん」
もう一度同じ言葉を言って、姫子は両肩から手を離す。
「ううん、でも……」
テレビが設置された卓の引き出しから、姫子は何かを取り出した。
茶封筒だった。
「姫子さんに渡せって、彦坂あすなろさんが言ってた」
震えた手でおそるおそる封筒を取る。
封を開けて、中に一通の便せんが入っていた。
『姫子へ、僕の大切な人に会いに来てくれてありがとう。君はとても優しいんだね。いま姫子がこの手紙を読んでるということは、そういうことだよね――』
優しいのは果たしてどっちなのだろうか。いま目の前にあすなろがいたら、怒鳴ってやりたいくらい姫子は自分が優しくないと思っている。
『――僕の大切な人、緋村照乃さんに会ったんだね。照乃はとてもいい子だから、決して悪いようにしないで欲しい。そんな言葉こそ君を怒らせてしまうことかもしれない。いつも君の気持ちがわからなくて、本当にごめんなさい――』
ボールペンの字がわずかにぶれていた。あすなろはこの一言を書くのに、心がぶれるほど勇気が必要だったのだろう。姫子だからこそ察しがつく。
『――僕が、照乃をこんな状態にしてしまったのは、全部僕のせいだ。彼女は僕の配慮が欠けたばかりに、ダムに飛び込んでしまった。すべて僕が悪い――』
悲痛な気持ちが伝わってくる。昨日、あすなろがダムに飛び込んだというのも、それと何かしら関係があるのだろうか。姫子はそのまま読み進める。
『――照乃はダムに飛び込んで助け出されたけれど、無事ではなかった。彼女はすべての記憶を失っていた――』
姫子が照乃を見る。視線の合わない表情。本当はこんなことを言ってはいけないだろうけれど、照乃は疲れたような顔でひたすらぼうっとした顔をしていた。記憶どころか魂まで抜けてしまったかのように。
『――君はもう一人の照乃に会ったよ――』
その一言が文中に突然出てきて、姫は不意によろけて一歩足が下がる。
もう一人の照乃。そんなことはここにあすなろを呼びつけて問い詰めるまでもなくわかる。
これは、ルテのことだ。
『――彼女は照乃ことを知っていた。いや、こう言うべきだ。彼女こそ照乃の思い出そのものだ。彼女は照乃のことをすべて知っていた。まるで照乃自身であるかのようにという言葉も的確ではない。彼女はもう一人の照乃同然に記憶をすべて持っていた。それだけでなく性格も癖も考えも同じだった。こう言うべきだ、たぶん彼女は照乃の魂なんだと――』
言っていることがまるでわからない。
『――彼女は言った。あのダムの場所に行けって、たぶん彼女はそこで何かを話すのだろう――』
ルテ、あんた何をしようと考えてるの? おぞましく泥々とした感情が渦巻いているのを想像せざるをえない。
『そこで何を話すのかはわからない。そのために僕は行かなくちゃいけない。ことの真相がわかったら、僕は戻ってくる。この手紙はどうか姫子に読まれて欲しくない。もし現に読まれているとしたら、僕はいまここに戻っていないことになるから。願わくば姫子に読まれないことを祈って、この手紙を書いた……――』
読んでしまった。あすなろはここまで書いて、きっと心底辛い思いを抱えていた。手紙を読んでしまった自分を姫子は責めたい。責めたかった。けれど、
『――姫子、君は何も悪くない――』
この手紙を読んでしまった姫子に手を差し伸べて救いを与えるようにあすなろの心に触れる。手紙はそこで終わっていた。
「あすなろくん……」
姫子は鞄にあすなろの手紙を入れた。
外は変わらず、降り止まない雨が音を立てていた。
もしあすなろと同じようにダムに飛び込んだら、姫子も彼に会えるだろうか。
そんなことは絶対に許されないことだ。
けれどその足でダムに向かおうとする。気づけば足が勝手に動いていた。
ダムに近づこうと試みたが、それはできないことを知る。
そこへ向かう途中で人がたくさんいて、制止された。
警察があすなろの遺体を引き上げようとダイバーの人員を潜らせているらしい。見ることは愚か、そもそも行くことができない状態だった。
こんな雨の中だから、捜索なんて止めてしまえばいいのに。と理由のわからないことを心の中で言ってしまう。そんなことを不意に思って、途端に自分を嘆く。「いったいあたしは何をしたいんだか」と呟いて、自分を呪った。
姫子は何もできずに帰途に就こうとした。
帰り際にダム近くに公園があるのを見つける。
ここに来たのもはじめてだった。あすなろはここに来たことがあるだろうか。
もしかしたらルテが近くにいるかもしれない。
姫子は逆さ状態で掴まれそうな場所を探した。
そして、ちょうどよくとどまれそうなところに辿り着く。
東屋である。
赤茶色の屋根をしていて、雨の様子も雨の音も雨の涼しさもつぶさに観察できる。
ルテと話をするのには、素晴らしすぎるほど適所だ。ルテにはもったいないぐらいだ。
それでもルテはいくら姫子が待っても来ないのだけれど。
「まったく」とぼやきながら、心中で姫子は来い来いと、命令口調で願った。
次第にあたりが暗くなる。いま何時だろうか。鞄の中にあるスマートフォンの電源を入れようとした。だが、そのとき何かが地面に落ちた。
黒焦げになったてるてる坊主だった。
そこで姫子は、はっとなって息を呑む。
もしかして、これを逆さにつるせば、ルテは来るだろうかと。
試みに姫子は、東屋に糸がかけられる場所を探す。
ハンカチを破いて採取した糸で適当に見繕って、ひっかかる場所にその糸をかける。
――てるてる坊主を逆さにつるしたことがある?
あすなろの声が不意に蘇った。彼もはたしてルテを呼び寄せる方法を知っていたのだろうか。そんなことはわからない。
けれど、ルテに会いたい。ルテに会って、なんとしても生きたままの彼に会いたかった。
あすなろは絶対に生きている。姫子はそう信じたかったし、信じなくてはならないとわかっていた。
だから……ルテ、ここにあすなろを連れてこいと願いながら、姫子はてるてる坊主に想いを込めた。
てるてる坊主を逆さにつるした。