~Miss(寂しい)と、Missing(欠落)~
ただいまも言わずに帰宅する。薄暗い家が姫子をわざわざ待っていたかのように。母親は帰っていないのだろうか。やけに静か過ぎな気がする。
自室の襖を開け、ひんやりとした畳の上に膝をつける。
ルテがいない。先に帰っていると思ったのに、どこか出かけているのだろうか。でもいまは彼女と話すことができないほど胸が痛い。彼女がいないことはむしろささやかな救いである。
窓を開け放ちにし、雨の降りしきる風景を見やる。しかしながら目視で見えるぎりぎりの程度で、音もしないで雨は降りる。
不思議だ。泣きはらしたいくらい切ないのに、さっきまでだって涙が出そうなほどにちくちくしていたのに、胸がとても重くて涙が出ない。
我慢しているわけではなかった。姫子は母がいないこの状況だからこそ泣きたかったのに。憂鬱がみぞおちに重くのしかかる。悲しみも過ぎれば涙が出ないものだ。
いまとても胸が苦しくてたまらない。
数時間経っただろうか、魂が抜けたように惚けていた。でも姫子にとっては一瞬の時間に過ぎない。
時間が解決してくれると言うけれど、こんな数時間の消化が自分の心を癒やしてくれるほどのものではない。
姫子は、まだあすなろのことが好きだった。
簡単に諦められるほどの問題じゃない。このいまこの瞬間だって、胸をかきむしりたくなるほど感情が暴れている。とてつもなく息苦しい。諦めれば諦めるほど、自分の心は正直者で、胸の中で激しく打ちつけて、そんなことができるわけがない、と訴えるのだ。
仕方ないよ、と一言だけ言うのは簡単である。言葉は言葉でしかないのだから。言葉の力が人を救うなんて言葉があるけれど、そんなのは嘘っぱちだ。
夜が訪れる前に母親が帰ってきて、いつものように振る舞って夕食を取り、部屋に戻った。
そしてひたすら時間を潰すためだけに、ただ座り込んで姫子は部屋の中央でじっとしていた。
だがそこで場違いにも、母親が階段を昇ってきて、襖を軽く叩く。
「姫子、ちょっといい?」
襖を開けてそこにいたのは、おどおどした母親だった。
いつもの母親ではない。何か差し迫ったような顔に成り代わった、別人のような顔をしていた。何か普通じゃないことが起こったのだろうかと疑問に思う。
「あんた、今日の帰り、彦坂くんと一緒にいた?」
どうしてそのことを知っているのか。姫子は無言になってしまうが、いまこの憂鬱な空気を読めていない母親のために教えてやる。うん、と乱雑に一言に言って。
「いま警察の人が来てるのよ、あなたに話を聞きたいって」
警察? そのワードが出てきて姫子は尋常ならない事態であることに気づく。
あすなろに何かあったとしか考えられない。抱えていた懊悩が飛んで、どういうこと? と目の前の母親に聞かずにはいられなかった。
階段を物凄い勢いで下まで降りた。臆面もなく女の子らしからぬ動作で。
玄関に出ると、制服姿の警察が待ち構えていた。
目線をあわせて、姫子は無言で頭を前に傾ける。
「織田姫子さんですね?」
警察のエンブレムを見せてから、警察の人間は写真を見せる。
その写真に写っていたのは間違いなく、姫子があすなろに手渡したままにしてあった折りたたみ傘だった。
一階のダイニングキッチンのテーブルに座り、警察から事情を聞かれる。
姫子の希望で母親には席を外してもらった。
「そうですか、三時頃に彦坂さんと一緒にいたというのは間違いないのですね?」
「はい、あの……あすなろくん……彦坂くんに、いったい何が遭ったんでしょうか?」
わざわざ自分の傘を持ってきた経緯があるから、そのことだけは聞きたい。
胸の中がざわつく。彼に対する心配のほうが強い。
「菅野田ダム」
大雨になると必ず広報で放流の知らせをする、この町の人間ならみんな知っているダムだ。
「今日の五時ごろ、誰かが管野田ダムの中に飛び込んだという目撃情報がありまして」
それが彼なのかはいまの時点では断言できない。少なくとも姫子は断言したくなかった。
「ダムの近辺にこの傘が残されていたんです」
傘の写真を指差して、警察の人が言う。
「それで、あなたにつながったわけです。織田姫子さん。いまのところ、あなたが最後に彼を目撃したというのは間違いないなさそうですね。彦坂あすなろさんといたときのことを詳しく教えてもらえますか?」
気持ちがまったく整理できない。自分の感情に当たり障りのない程度に姫子は答えた。
確かに自分はあすなろと帰り道を途中まで一緒に歩いていた、という具合に。
「そうですか、そのとき彼に何か気になるところはありませんでしたか?」
「いえ、特に。彦坂くんはあのとき……」
そこで姫子は重要なことを思い出した。
「病院」
「え?」
「いえ、彦坂くんは病院へ行くって言ってました」
そこで訝しげな顔をする。
携帯端末を取り出し、確認してくれとか何とか言って連絡を取り、切った。
「いや、夜分近くに失礼しました。では、これで」
「あの……」
姫子は警察の人に言いかける。自分が何を言おうとしているのかわからない。
「飛び込んだのは本当にあすなろくんなんでしょうか?」
そんな質問に意味などないことはわかっている。たぶんこれは警察に対する質問ではない。自分に対して彼が本当に無事なのか? という気休めに過ぎないのだ。
そうして警察の人は去っていった。
翌日、学校ではあすなろが行方不明になったことが話題になった。ただ行方がわからなくなったというのは建前で、地方の新聞にはダムに身投げしたことまで書かれていて、彼が自殺したという暗黙の了解はできた上でみんな話をする。いまだ遺体は見つかっていないけれど。
姫子としては彼の死を受け入れたくはない。そんな気持ちを持った子もいるみたいで、涙を流しながらあすなろのことを話してるのを見かける。ただ姫子は涙すら出てこない。あすなろに好きな子がいたという事実の後だったということは、もうどうでもいい。彼の安否だけが知りたかった。いや、信じていたかったのかもしれない。
昨日からの雨はまだ降り続けていた。
学校から戻り、自室に入る。ルテはいなかった。気まぐれな彼女だから、どこかで油を売っているのかと思う。とはいっても、いまは彼女と喋る気力もないけれど。
鞄を机の上に置き、外を眺める。
あすなろはあの後、病院に行くと言った。このあたりで病院と言えば、街の大病院ひとつしかなかった。その足で隣町の病院まで行くのは無理がある。だから彼はそこに行ったと思う。
病院。
何が待っているかはわからない。彼が故人となった確実な事実が待っているかもしれない。でもあのとき彼が何を考えていたのかとても気になった。
彼のことをもっと知りたいなどと思っていた。けれど、それが遊び半分とか中途半端な気持ちとか、そんなものはすでに通り越している。
あすなろが何を思っていたのか。
あすなろが何を悩んでいたのか。
その感情に一刻も早く近づきたい。触れたい。
その思いが姫子を動かす激情となった。
決意に姫子は右手を握りしめて、相変わらず雨の降る風景を見ながら言う。
「行こう」
向かうには早いほうがいい。
大病院の自動ドアを前に立って横に開かれる。濡れた足で入ると、帰り際の男性と女性とすれ違う。ちょうど姫子の父母と同じくらいの年齢に見えた。横にずれて道を空けると、通りすがりにこんな声が聞こえた。
「あすなろちゃんは、照乃ちゃんのことを思っていたのかね」
「母さん、それはわからないよ。けどな……」
姫子は二人の会話を聞いて気づく。
直接会ったことがなかったけれど、二人はおそらくあすなろのご両親だだ。
照乃という名前が耳に入って、もしかしたら……と思った。
その名前を聞いて姫子は、受付へと赴いた。
二階へと上がり、その人物が待つ病室の前に訪れた。
「緋村照乃……」
ノックをする。か細い声が聞こえてきて、姫子は中に入った。
「失礼します。あたしあすなろくんの……」
息を呑んだ。ベッドの上で身体を起こした女の子。その顔に見覚えがある。いつも見ている顔、彼女は……
「ルテ?」
彼女とまったく同じ顔かたちの作りをしていた。これは、いったいどういうことなのか……。