~てるてる坊主を逆さにつるしたことがある?~
太陽が遠くの山の端にかかるまで、二人は一緒に商店街を回った。次はどこそこに寄ろうとか、そんなことノープランだった。けれど、姫子はあすなろと一緒にいるだけでいい。手をつなぐ勇気はない。卑怯で打算だったけれど、勇気を出してあすなろを誘ってよかった。このままだったらずっと後悔を抱える懊悩を抱えなくて済んだ。
「ねえ、あすなろくん。もしよかったらなんだけど」
「なあに? 姫子さん」
「……あたしと、また一緒に映画を見ませんか?」
頬を赤らめながら、あすなろは笑顔を見せる。
「僕は涙もろいよ」
「うん、あたしもそうだよ」
でもそれはきっと悲しみの涙にはならない。誰だって好きなものと好きな映画の前では正直になりたくて、そのときの涙と感情は嘘じゃないから。あすなろくんという人間をもっと知りたい。それはありきたりな言葉だった。でもいまその意味がなんとなくわかる。そういう意味で、ありきたりな言葉ではなくなっていた。
あすなろを前にすると、まだ心臓がどきどきと胸を打っている。そのどきどきが消えるときが来るだろう。けどきっとその先にも経験しえていない何かがある。だから、このどきどきが消えないうちに思い出を作って、そのどきどきの感触を忘れたくない。
「ねえ姫子……さん」
夢の中では、あすなろにさんづけなしの姫子と呼ばれていた。姫子と呼ばれた瞬間にまた胸が高鳴る。さんをつけ直されると、わくわくした気持ちがしぼみそうになる。
「姫子でいいよ、あすなろくん」
「あ、うん……」
たぶんあすなろは人を呼び捨てにしたことがないのだろう。
あすなろは空気が読めない。人との距離の取り方もきっと下手だと思う。
でも姫子は彼が優しいことを知っていた。
姫子と無礼に言われたかった。無礼を許すという意味ではなく、姫子がそう呼んで欲しい。こういうのを心の錠をひとつ解く、という言葉で表すのだろう。
「姫子、つまらないこと聞いてもいい?」
たわいもない世間話だろうか。
「てるてる坊主を逆さにつるしたことがある?」
「え?」
誤って、てるてる坊主を逆さにしてしまったあのとき、ルテはやってきた。
ルテが来たことを聞いているのだろうか。
いやそんなことは考えにくい。たぶん冗談か何かで話を盛り上げるようなことを聞いているのだろう。
「あるよ」
そう言うと、あすなろは笑顔になる。
「そっか」
なぜか話は躍動しない。質問に是と答えたのがそんなにおかしかったのだろうか。そこから関連した話題には発展しそうにない。
「ごめん、なんでもないよ。変なこと聞いて」
「ふふ、変なの」
「ハハハ……」
それから家に帰る途中まであすなろは送ってくれた。
「ここでいいよ、あすなろくん」
「ああ、気をつけて。姫子」
「ありがと、優しいんだねあすなろくん」
そんなことはもうとっくに知っていた。けれどあすなろ自身もそんな人となりに気づいていなかったのだろうか。頬を赤らめて、「そっか、ありがとう」と言う。そんな会話を最後にして、この日のデートは終わった。
◆
夜更け前、姫子を送り終えたその足であすなろは町の総合病院まで向かう。
その病院は夜八時前までの面会が許可されていた。
「……に会いたいんですが」
「少々お待ちください」と言われ受付で手続きをしてから、エレベーターに乗って病棟の二階に到着する。
ドアをノックすると、「どうぞ」とか細い声が聞こえてくる。注意深く耳を立てなければ聞こえないほどの声だった。
ゆっくりとドアをスライドさせて、あすなろはその子と出会った。
「誰? いつもの人?」
個室で彼女は呆然と聞く。ぼんやりとした表情で、気をつけないと勝手に倒れてしまいそうなほど、彼女の身体はほっそりとしている。
ここで出される食事を残すことが多く、彼女はこんなに細くなっていた。もっとも、入院した当初から彼女はほっそりとしたのだけれど。
「いつもの人だよ、彦坂あすなろ」
「そっか、覚えておくよ」
笑顔になるほどの表情筋も衰えていた。たぶん彼女は笑えずに死ぬかもしれない。そんな不安がいつも渦巻く。あすなろは泣きはらした目に手をあてる。さっき涙を流した目の奥がまた熱くなる。
「今日は何をしていたの?」
「……忘れた」
というよりはこの場所で彼女ができること自体が限られている。
ただそうは言っても、本を読んだり、日記を書いたり、そんなことができるような状態ではない。でもあすなろには、はっきりとわかりきっている。彼女はこのままの状態が続けば、二度と本を読むことも日記を書くこともできないまま死ぬ。
あすなろは聞いていた。彼女は漢字もひらがなも忘れたということを。
あのときから、彼女はすべてを忘れてしまったのだ。
「ねえ、照乃。君は本当はわかっているんでしょ?」
「何を聞いてるの?」
返答に困ることを聞かれ、何事を聞いているのかさっぱりわからない顔をする。
もっともこの状態の病人にそんなことを聞くのも酷だ。そのことをあすなろはあらかじめわかっていた。
けれどあすなろは聞かずにいられなかった。
「今日僕を試したでしょ? そうだよね? 照乃」
「……」