~Raining(雨が降る)。そして二人はDating(デートする)~ *2*
◆
あすなろが帰りのホームルームでプリントを集める。進路希望調査のプリントだ。といっても、プリントの内容が重要なのではない。彼がこれから職員室でそれを渡すのが重要なのだ。
職員室から出たのを見計らい、姫子は歩み寄る。
「あすなろくん、あすなろくん」
急に出てこられて、あすなろは「おっと」と言いながら怯む。
「どうしたの、姫子さん?」
「ううん、声かけただけ」
友達と出会うたびの挨拶みたいなものだ、という具合に姫子は振る舞う。
「それじゃ」
「あっ!」
姫子はその場でわざとらしく驚いてみせる。
「どうしたの?」
「あすなろくん、いまから教室に戻る?」
「そうだけど?」
あすなろはプリントを出しに職員室に行ったのだから、当然鞄は持っていない。だが姫子は鞄を手にしている。
「あたし図書館の資料を返さなきゃだった!」
学校が授業の資料用に借りた本である。図書室に有用なものがなかったので、よその図書館から借りたのだ。姫子はいまからそれを返しに、ここから数キロ離れた図書館に行く必要がある、という具合に訴える。
「ごめん、あすなろくん。これから教室に行くついでで申し訳ないんだけど、鞄をあたしの席に置いてきてくれる?」
手を合わせて姫子は嘆願の姿勢を見せる。
あすなろは優しいから断ることはできなかった。
「いいけど」
「わぁ、ありがとう。あすなろくん」
目を輝かせながら、気持ちが高鳴るときの鼓動が身体に響く。そんな風に感じながら姫子はあすなろに鞄を渡す。
「今日は空がぐずついてるね。あすなろくん」
「え? 雲ひとつないけど?」
「あれ? そっか、晴れてるね。あたし、お気に入りの傘持ってるんだ。折りたたみだけど」
「え、ああ。うん」
確かに鞄から折りたたみの傘が出ている。なんでそんな会話が出てくるのか、あすなろはわかっていないのだけれど。
「それじゃ、またね」
「うん。また、ね?」
そう言って姫子は生徒玄関に向かって早歩きで去っていく。
◆
あすなろは教室に戻り、鞄を姫子の席に置く。そのときだった、空が急に煙りだした。
「あれ? 雨……」
今日の気象予報はこんな変わりやすい天気を伝えていただろうか。
窓を開けると、激しく降り出した雨粒が窓ガラスを殴る。
雷まで鳴り出して、点いていた教室の電灯が消えて、暗くなった。
これは傘なしで外に出たら、びしょ濡れになるかもしれない。風邪のひとつかふたつを引くかもしれない。
「……。あっ、姫子さん」
優しい彼ならば当然やるべきことだとわかっている。
姫子の鞄から折りたたみ傘を取り出し、急いで彼女にこの傘を持たせなければならない。
当然、あすなろは彼女の折りたたみ傘を持って、教室を出ようとした。
雷が鳴って音が来るより前に教室内が光る。そのとき、誰かの影が見えた。上から下に伸びる影だ。
「え?」
何かがいるのか、振り向いて確認するも、そこには誰もいない。
「気のせい、かな?」
雷鳴が光よりも遅れて轟く。大地にひびを入れるような大きな音が覆ってくる。大きな音が小さくなって、雨音が再び聞こえてくる。「いけない」と言いながら、あすなろは教室を出て、上履きの音を立てながら階段を降りていく。
◆
このときを待っていた。ルテの力は本物だ。あの三人のバカが起こしたバーベキュー火災も消した豪雨を、ルテはまた降らせたのだ。
野外の雨の中を悠々と歩く。姫子は鞄を持っていない、傘を持っていない。そして図書館に返す本も持っていない。元から図書館に返す資料など存在しないのだから。
優しいあすなろなら、きっと傘を持ってここまで来てくれるに違いない。さすがに嘘を吐いて騙したのは、ちょっと気が咎める。けれど、ルテが強く勧めてきたから、背中を押される形で今回の計画を実行することにした。
恋は打算でいいのだとか、姫子には理解しがたいことをルテが言っていた。そう、これは打算なのだ。
肩と髪に大粒の雨で打たれる。雨粒が弾けてすでにびしょ濡れだ。
「ハハハハ!」
おかしいんだから、笑っちゃうのは仕方がない。
「ずぶ濡れだ、あたし雨でずぶ濡れになってる!」
この姿を見たら、濡れネズミとたとえるか、水も滴るいい女の子とか言われるか。果たしていまの姫子の状態はどちらだろうか。彼女は後者のほうを言って欲しいと思う。それはまぁ当然なのだが。
こんなバカをやってるから、冷たいはずの雨もいまは冷たくなかった。
「あすなろくーん、来てぇ!」
たがは外れ、完全に壊れた機械のように姫子は笑った。
図書館までは数キロ。商店街の手前にある広めの図書館だが、そこに至るまで畑や田んぼがあるだけ。雨宿りできるような古民家には行かない。ただそれでも、雨宿りができるような場所はほぼない。きっとあすなろくんは駆けつけてくれる。
後ろを振り向く。あすなろはまだ来ていない。早く会いたいと迫る気持ちもある。しかし姫子は、遅く来て、なるべく遅く来て、と願掛けしながら偽の目的地まで歩くことにする。
二十分くらい歩いて、図書館の前に来た。
ここに特別な用など何もない。返すべき資料の本など、元から存在しないのだから。
まだあすなろは姫子に追いついていない。遅く来てと言ったものの、ちょっと遅すぎるなと思った。
「あすなろくん……」
そこで姫子はこんなことを勘ぐる。
「雨の神様を怒らせたから、天罰がくだったのかな?」
露子にも無礼な作法を神社で見せてしまった。あのとき露子に怒られたことを思い出す。やはりこんな騙し方をしたから、あすなろは来なかったのかもしれない。そんな思いがよぎる。
でもどんな騙し方であろうが、騙すことは駄目なことだって姫子はわかっていたはずだ。
恋は打算でいい! などという、悪霊の勧めに載ってしまったのが運の尽きなのだろう。
「帰ろう」
ため息を吐き、仕方がないよねと言いながら姫子は言った。
これから鞄を取りにこんな惨めな姿を晒すんだ。いい晒し者だ。笑われたっていいと、姫子は自分で自分を蔑む。
街から離れ、雨が降る田園の風景を見ながら歩く。
こんなことだから、自分はバカなのだと姫子は思う。あすなろに振り向いてくれとさえ言えない自分が、こんな方法でデートに誘う材料を作るなんて。
自分のことを「バカバカ」と罵りながら、泥だらけになった道を歩いていく。
田畑は湿ってさぞかし気持ちがいいだろう。
びしょ濡れな自分が不憫に思えてきた。全部自分が蒔いた種なのだから受け入れるしかない。
大粒の雨雫が途端に細くなった。
雨の勢いが峠を越えたのだろうか。ルテもこれ以上やっても意味がないと、そう思ったのかもしれない。
雨が止み、どんよりした雲は変わらずそこに居座っていた。
重いため息を吐く。失敗だったな、と姫子は俯く。
そのときだった、背中に何か硬いものが当たる。
何かなと姫子は疑問に思いながら後ろを見る。
「あすなろくん?」
開いた傘を手に持ち、背中に当てていた。
「ごめん、姫子さん!」
「あすなろくん……」
姫子は決して、遅かったね、と言うことはできなかった。
だが、あすなろは頭を下げてこう言った。
「遅くなってごめん、姫子さん」
そんなことを言われると余計に申し訳なく思ってしまう。びしょ濡れになった姫子は、「あはは」と笑った。さっきまで笑っていたけれど、これは重大なことをやり終えて疲れたときに出る笑いだった。
これは計画通りと言えるのかな、と思いながら傘を受け取った。
もう雨は降っていないのだから、傘を差す意味はないのだけれど。
そして作戦は成功したのだが、平謝りするあすなろを見て姫子は胸が痛んだ。
見るとあすなろもずぶ濡れになっている。姫子は思った。自分って冷酷な人間なんだな、と。
誤魔化すために姫子はずぶ濡れになった自分の身体と、同じく全身が濡れてしまったあすなろを交互に見やりながら、大声で笑った。
あすなろも笑った。苦笑いだったが、姫子が大きな声で笑うものだから、それに同調するように彼も大笑いする。