~Petrichor(雨降りの匂い)から始まる。Prolog(物語りの日和)~
人気のない放課後の生徒玄関に二人がいる。織田姫子は、彦坂あすなろと対面していた。
七月七日。梅雨が終わったばかりなのに、鉛色の雲が空を覆っていた。
たったいま姫子は、あすなろからラブレターを返却された。だが、彼の答えた言葉は姫子の欲しい言葉ではなかった。
「僕はこんな人間じゃないよ?」
優しくて優しくて優しくて優しくて、と。
どれだけ「優しい」という言葉と、「優しい」の同意語を、ラブレターに書き連ねたことか。
あすなろは自分は優しい人間ではないと告げるだけだった。
ラブレターに書かれた言葉の真偽とか文章の良悪とか、そんなことを聞いているのではない。
けれど、あすなろは、ただラブレターの文章内容と自分自身が一致しないと、伝えるだけに留めていた。鈍感であることは前々から知ってはいたが、ここまで来るとあきれかえる。
遠回しに交際をお断りしているとか、暗に姫子のことが嫌いだとか、そういうことを言おうとしている、とか察しろとか言われそうだけれど。そんなことは全然ない。あすなろは、本当にどんな言葉を姫子に返して欲しいのか、理解ができていないのだ。
玄関の外から、雨音がしっとりと聞こえ始めた。
姫子はこれまでどれだけ足りない勇気を搾ったことか。
ラブレターは国語の問題じゃない。告白に対する返事が欲しいのだ。
だから姫子は「他に言うことないの?」と聞けば、「え、僕になんて言って欲しいの?」と鈍感さを貫く。
そこで「好きか嫌いか言ってよ」とでも姫子が返せればよかった。
できなかった。彼女には、それを聞くだけの勇気がもう残っていなかった。
ただ姫子にも落ち度はある。ラブレターに「好きです」とも「付き合って下さい」とも書かなかったから。ただ結びとして「あすなろくんをお慕いしてます」と書いただけだった。
「なんでもないよ」
姫子はたまらず生徒玄関から雨が降りしきる外へと飛び出した。
傘も差さず雨の中をひた走った。悲しいことは特別なにもない。何も変わりはしなかったのだから、あすなろとまた顔を合わせることはできる。けれど胸はとても痛かった。そのうち息が苦しくなった。
あすなろを目前にして身体が熱くなったのは、とても恥ずかしかったから。だが雨に濡れてそのうちに熱は引いていった。ようやく冷静になるときが訪れた。
「あたしって本当に勇気がないわね。なんて情けないの、姫子!」
所詮、姫子という人間の価値はこの程度なんだ。あらためて姫子は気づかされた。
勇気がないのか。あすなろのことが好きで、ラブレターを書くと決めたとき、姫子には勇気が湧き上がった。けれど長くは続かなかった。下駄箱にラブレターを入れるころには、最後の勇気を振り絞ったのだから。あすなろを目前にした時点で、勇気は搾り尽くしていた。
雨の道を通り抜けて姫子は、家に帰り着く。お風呂場に入ってシャワーを浴びた。身体を拭いてお風呂場から出ると、脱衣カゴのそばに着替えの服が置いてあった。気を利かせて母が置いてくれたようだ。
着替え終わって階段を登って自室に入る。姫子の家は和洋折衷の建築で、一階は洋室で二階は和室に作られていて、姫子の部屋も和室だった。
襖を開けて自室に入り、薄暗い部屋の電灯をつける。
姫子はここに何かがいることに気がつく。
ゴキブリやネズミのたぐいが出たというわけではない。明かりがついた瞬間に、その違和感に気づいた。
姫子のものではない人影が目の前にすっと伸びていた。しかも驚くべきは人影が上から伸びていた。誰かが逆さづりされているかのように。
確実に姫子の後ろには誰かがいる。
母が仕掛けた悪いいたずらか? 姫子は意を決して後ろを振り向いた。
そこには逆さになって天井に足をつけた一人の女の子がいた。不気味な笑顔で姫子の様子を見ていた。
短髪だが、この子の髪は重力に従うように下がっている。
息を呑んでから姫子は、生まれて始めて恐怖の悲鳴を上げた。
一階から足音が駆け込んできて、襖をぴしゃりと開けて母が入ってきた。
「どうしたの! 姫子!」
青白い顔で母親は姫子の様子を見る。
「お母さん、女の子が……」
裏返りそうな声で姫子は母親に言う。
姫子を怪訝そうな顔で見てから母親は、自室を見回す。女の子は不気味な笑いを浮かべながら、微動だにせず天井にいる。
「女の子がどうしたのよ?」
「そこに、上にいるじゃない!」
天井を見上げても母親は何ひとつ合点のいく反応を返さない。
「女の子なんていないわよ、あんた以外に」
「見えないの?」
不思議そうな顔で、母親は首をかしげる。
「あんた、大丈夫?」
女の子が笑みを浮かべたまま、人差し指を立てて「しーっ」と口パクで姫子に言う。そして、彼女が手のひらでパンと叩くと、たちまちに姿がきえさった。
「あ、あれ?」
姫子は改めて部屋を見回す。もうどこにも女の子の姿はない。
「大丈夫? 姫子」
「な、なんでもない」
「疲れてるのね、きっと」
心配の顔つきで母親は、部屋から出ていき、階段を下っていった。
本当に疲れているのかもしれない。姫子はため息を吐いて、窓から見える雨の風景を見つめる。
その突然、やにわに窓が開く。
「おばさん、出ていったかしら?」
逆さ状態のまま、再び女の子が窓から顔を出して登場した。
姫子は猫のように後ろに飛び上がり、クッションに尻餅をついた。
「危なっかしいわね、あなた」
あきれかえりながら女の子は、窓枠をまたいでふたたび天井に足をつける。
「ったく、驚かさないでね。あんな大きな悲鳴をあげられたら、私だって心臓が再び動き出しそうになるわよ」
意味の取れない言葉がちらほらと出てくる。だがそんなのはともかく、本当に驚かせたのはどっちなのよ、と姫子は訴えたくなる。
「織姫様と彦星様は今日も会えないわね、あなたのせいで」
「は?」
確かに今日は七夕だが、なんで姫子のせいなのか皆目見当がつかない。しかし雨は激しく降っている。
「てるてる坊主を逆さにつるしちゃって」
窓辺の「それ」に女の子は人差し指で触る。逆さになったてるてる坊主があった。
このてるてる坊主は小学生の頃、運動会が開かれるのが楽しみで作ったものだ。運動会の後もなぜかお守りのように思えて、あれ以降ずっとつるしたままだった。
いまはなぜかてるてる坊主が確かに逆さまになってる。糸がところどころほつれて絡まっている。おそらくカーテンレースを動かした際に逆さづりになってしまったのだろう。
「てるてる坊主、逆さまになってるわね」
「そうね、逆さだから、るてるて坊主ね」
女の子が姫子を怖がらせているのか、それとも笑わせようとしているのか、まったくわからない。
「あなた、幽霊?」
「わからない、でもてるてる坊主を逆さにつるしてる家があったから、あなたのところに行きたくなった。だからこうやって来たのよ、なんか愛着湧いちゃって」
こうやって話をしてると、悪霊でも背後霊でもなさそうだった。親近感が湧いて、敷居に……いや、天井に上がり込んだ彼女をもう一度見た。
長袖長ズボンのジャージ姿。よく見ると綺麗な顔つきである。先ほどの不気味な薄ら笑いさえしなければ普通にかわいい子である。
「ふふ、くふふふ」
「その不気味な笑い顔やめて」
「ふふ、ごめんなさい」
姫子が注意を与えてから彼女とどう接するべきか考える。
「あんた、名前はなんて言うの?」
「私の名前は……ええと、わからない」
幽霊になって自分の名前を忘れてしまったか。女の子はちょっと困惑した表情を見せる。自分の名前が出てこないという感覚を理解しがたい。けれど、そんな状況に直面したら普通にそういう顔になるのだろう。
「てるて……いや、るてるて坊主に惹かれてやってきたんだから、ルテって呼んでいい?」
「あ、安直!」
「あんたがあたしを驚かせた罰よ」
たとえ思い出してもこの子をずっとルテと呼び続けてやる。これは懲戒と受け止めよ、という具合に姫子は笑った。
あすなろからラブレターのちゃんとした返事をもらえなかったけれど。この日はじとじとした雨の風景にも関わらず、心の曇りがすっかり拭われた。