喫茶店『エルロック』にて
「いやあ、まいったまいった。昨日、うちにデコスケ(刑事を指すスラング)が来やがってよ。しつこいったらありゃしねえ」
いきなりの若松の言葉に、康介は面食らっていた。とっさに言葉が出ず、テーブルのコーヒーに口をつける。さりげなく彼の顔を見たが、普段と同じだった。
ふたりは、喫茶店『エルロック』にいる。昼の二時だというのに、他に客はいない。もっとも、この店には何時も客がいない。
かつて裏社会にいたマスターは、カウンターでのんびりと雑誌を読んでいる。客が何を話そうが、気にかけない。この手の話には、もってこいである。
そんな場所に、康介は呼び出された。前回と同じく、金を渡すため……のはずなのだが、開口一番のセリフがこれである。思わず、はあ? という声が出そうになった。
「どういうことです? 誰かが下手打ったんですか?」
聞き返すと、若松は面倒くさそうに顔をしかめる。
「違う違う。小川恵一のことで、事情聴取に来やがったんだよ。本当にまいったぜ」
「小川恵一? 誰ですか?」
反射的に聞き返していた。全く聞き覚えのない名前である。その小川なる人物が、どうしたというのだろう。
「例の、山田花子を紹介してくれたおっさんだよ。行方がわからなくなっちまった、ってのは前にも言ったよな。で、親が警察に捜索願いを出したらしいんだよ。結果、俺んところにも刑事が来やがったってわけさ。まあ、しつこいったらなかったぜ。別件で引っ張ろうって魂胆が見え見えだったよ」
別件で引っ張るとは、すなわち別件逮捕である。若松のような海千山千の犯罪者を逮捕する際に用いられる手段だ。まずは、周辺で起きた別の小さな事件に対する任意の事情聴取、という形で呼びだす。ターゲットが警察署に来たら、取り調べ室で締め上げる。これは、刑事のよくやる手口だ。
警察署の取り調べ室は、心理的に圧迫感を受ける構造になっている。取り調べでは、直接の暴力は振るわれたりしない。代わりに、心理的な攻撃を加えてくる。そのやり口は様々だ。無言のまま長時間放っておかれたり、関係ない世間話を長々と続けたり……それらは、容疑者の心を折るのが目的である。康介も、過去に取り調べを受けたことがあった。その手口がどんなものか、ちゃんと知っている。
その取り調べた刑事のひとりが、先日久しぶりに会った高山裕司である。だが、今は高山などどうでもいい。それよりも小川なる男の方が気になる。何気ない風を装い、相槌を打った。
「ああ、その男ですか」
「その刑事が言ってたんだけどな、小川には結婚を考えてる相手がいるって言ってたんだとよ。両親に、そう言ってたらしいぜ。いつか紹介する、とも言ってたって話だ」
心臓が口から飛び出しそうになった。うんうんと頷きながら、どうにかごまかす。もっとも、鼓動は異様に早くなっていた。
結婚を考えている……と言われて真っ先に浮かぶのは、山田の部屋にいた男だ。より正確に言うなら、山田の部屋で死体と化していた最初の男である。地味な雰囲気で、脂肪が多く運ぶのに苦労した。
(結婚してください、だってさ)
山田は、確かにそう言っていた。やはり、あの男が小川恵一なのではないか。
「そんなおっさんが、いきなり姿を消した。これは、どういうことなんだろうな。お前、どう思う?」
動揺しつつも、どうにか平静な表情を保つ康介。そんな彼に、いきなり質問をぶつけてきた。
「さ、さあ、どうなんでしょうね。まあ、生きていればいろいろありますよ」
とっさに出たのは、こんな言葉だった。若松の目が、すっと細くなる。
「おかしいな。前に、お前は言ってたよな。山田はヤバい、と。けど、今は違うみたいだな。なんで宗旨変えしたんだ?」
言いながら、顔を近づけてくる。
「ひょっとして、あれから山田と会ったのか?」
またしても、心臓が飛び出そうになる。だが、今回も平静を装うことが出来た。
「いや、会ってないですよ。俺が山田をおかしいと思ったのはですね、あいつ普通の顔してたんです。本当、どこにでもいるような見た目で……クラスにひとりくらい居るじゃないですか、印象が薄い同級生が。山田は、そういうタイプだったんですよ。そんな存在感のない奴が、俺たちみたいなのとかかわるなんて変だ……と思っただけですから」
自分でも驚くくらい、スラスラと言葉が出た。その答えに、若松は首を捻る。
「うーん、そうか。そういうことか」
納得はしていない様子だった。この男、まだ自分を疑っている。だが、今さら正直に言うことも出来ない。こうなった以上、嘘をつき通して真実に変えてしまう以外にないのだ。嘘というのは、つき通すだけの覚悟がない限り言うべきではない。裏の世界なら、なおさらだ。
若松は黙ったまま、もう一度首を捻る。ややあって、口を開いた。
「実はな、山田花子についての情報が欲しいって奴がいたんだよ。あいつと直接顔を合わせたのは、俺の知り合いの中では、お前と小川だけだ。ちょっと会ってやってくれねえか?」
「えっ……」
想像もしていない言葉だった。康介は完全に意表を突かれ、とっさに反応が出来なかった。
すると、若松は不審そうな目でこちらを見る。
「嫌なのか?」
「別に嫌ってわけじゃないんですが……」
それきり、康介は言い淀む。山田を捜している男とは、いったい何者だろう。万が一、その男が山田を捜し出してしまったら……何が起きる?
考えを巡らせる康介に、若松は首を捻りつつも語り続ける。
「どうも山田が絡むと、お前は歯切れが悪くなるな。けどな、会ってもらいたいんだよ。何たって、そいつはマル暴の刑事だった男だ。悪さが過ぎて辞める羽目になり、今じゃあこっち側の人間だよ。ただし、あちこちの連中に顔が利く。役に立つ情報もくれる。俺としちゃあ、良好な関係でいたい相手なんだよ。頼む。小川が消えちまった以上、お前しかいねえんだわ」
頼む、などと言ってはいるが、その裏にあるものは明白だった。絶対に会って話をしろ、これは命令だ……ということなのだろう。
「わかりました。会いますよ」
康介には そう答える以外の選択肢が残されていなかった。これ以上、若松に不信感を抱かれたくない。
すると、若松はニッコリ笑った。
「お前なら、そう言ってくれると信じていたよ。じゃあ、向こうにも伝えておく。また、連絡するよ」
帰り道、康介は重い足取りで歩いていた。その胸には、不安が渦巻いている
山田を捜している男とは、何が目的なのだろう。以前マル暴の刑事だった男が捜している、となると……やはり、殺しの件を調べているのだろうか。
その時だった。スマホの振動を感じ、表情を歪める。嫌な予感がした。なぜか、あの女ではないか……という思いが浮かぶ。
スマホの画面を見る。予感は的中していた──
(お金渡すの忘れてたよ。ちゃんと言ってくれなきゃあ。なんで連絡くれないの?)
山田花子からだ。確かに、前回の分の金は受け取っていない。そのことはわかっている。実のところ、金などもらわなくていい。その代わり、二度と俺の人生にかかわらないでくれ……という思いがどこかにあった気がする。
メッセージの文章自体は軽いものだ。もっとも、絵文字などはどこにも見られない。色気の全くない文章である。男の気を引くことに長けた女の文章には見えない。ましてや、こんな文章をもらって心を動かされる男などいないだろう。
だが、康介は心を動かされていた。文体が、以前と比べて僅かながら変化している。くだけたものになっており、親しみを感じさせる……たったそれだけのことに、激しく動揺していた。
立て続けに、ふたりの男の命を奪った山田。にもかかわらず、今は「なんで連絡くれないの?」などという軽いメッセージを送り付けてくる。これは、裏の世界で生きてきた者から見ても異様だ。
康介はかつて、プロの殺し屋と仕事をしたことがある。自身も、人を殺した経験はある。殺人という行為は簡単ではない。プロの人間が仕事として行う殺しと、弾みで犯した殺人とは根本から違うものである。
口論の末頭に血が昇り、相手を殴ったら打ち所が悪く死んだ……これは珍しいことではない。これまで、信号無視や万引きすらしたことのない人間にも起こりうる事態である。実のところ、人を死なせてしまうような事件の大半が、このケースなのだ。
そのため法律では、被害者を最初から殺すつもりで犯した殺人罪と、殺すつもりがなかったのに死なせてしまった傷害致死罪とでは、受ける罰の重さに大きな差を付けている。つまり、明確な殺意を持って人を殺した場合、それだけ悪質だと見なされるのだ。
それ以前に、明確な殺意を持って殺人を犯せる者は何かが違う。おそらく、生まれ持った資質なのだろう。その資質がない者が人の命を奪えば、確実に精神を病んでしまう。その事実を、康介は己の体で理解していた。
山田には、間違いなく人殺しの資質がある。しかも、元マル暴の刑事だった人間が行方を捜しているのだ。そんな女と、接触していいはずがなかった。
にもかかわらず、康介は返信していた。
(わかりました。いつでも連絡をください。そちらの都合に合わせます)
康介は、山田に対し相反する気持ちを抱いている。かかわりたい、という想い。かかわりたくない、という想い。その二つが、常に心の中にある。普通に考えれば、絶対にかかわってはいけない人間なのだ。
ところが、今の康介は山田に会いたかった。これがなぜなのか、自分でもわからない。正直に言うなら、あの女が怖い。それなのに、会いたいという気持ちに逆らうことが出来なかった。炎に引き寄せられる蛾のように、彼は山田へと引き寄せられていく。頭では、その危険さに気づいているのに、自身の行動を止められなかった。