とある公園
真幌市内の公園にて、康介はベンチに座っていた。ここで、とある人物と会うことになっている。あたりは暗く、人通りは完全に途絶えていた。
さりげなく、スマホで時間をチェックしてみる。現在、午後九時三分だ。待ち合わせの時間は、午後九時のはずである。しかし、それらしき人物の姿は見当たらない。となると、どこかに隠れてこちらを観察しているのだろう。刑事か、そうでないかを判断している最中かもしれない。
今回の待ち合わせの相手は、裏社会の住人である。裏社会で長く飯を食ってきた人間の中には、刑事と一般人を見分けるのが上手い者がいる。人混みの中でも、一目で刑事を発見してしまうのだ。ある意味、職人芸であろう。
もっとも、これは刑事の方も同じである。逮捕すべき人間と、そうでない人間を見抜く目を持った者がいる。理屈ではなく、これまた職人芸なのだろう。
あの高山裕司もそうだった。奴は、康介と初めて会った時から全てを見抜いていた。あの男があまり出世していないということは、警察組織で上にいくには実力以外の何かが必要……という事実を証明しているのかもしれない。
「あ、どうも。お待たせしてすみません」
さらに三分ほど経った頃、にこやかな表情で近寄って来た者がいる。二十歳くらいの、細身の青年だ。どこにでもいるような風貌で、派手でも地味でもない服装である。コンパで、人数合わせのために呼ばれた学生……といった雰囲気だ。
もっとも、今の裏稼業には、こういうタイプの方が多い。見るからに悪そうな風貌の若者というのは、そのほとんどが実は堅気だったりする。裏社会の住人で、がっつりタトゥーを入れて人相も悪くアクセサリーじゃらじゃら……というタイプは、むしろ少なくなってきているのだ。ことに若い世代は、上の世代のそうした格好を「痛い」と見ているケースが少なくない。
「じゃあ、まずは確認から……」
言いながら、康介は公衆トイレに入っていく。多目的トイレで、中は広い。そのため、良からぬ目的に用いる者も少なくない。康介もまた、良からぬ目的に使用するつもりであった。
続いて、若者が入ってくる。鍵を閉めると、ポケットから何かを取り出した。
白い粉の入った、小さなビニール袋だ。粉というよりは、氷砂糖に近い。口の部分はジップロック式になっており、開けたり閉めたりが容易である。通称・パッチンパケと呼ばれる物だ。違法な薬物をやる者たちには、人気の品なのだ。
そう、若者が渡してきたのは覚醒剤であった。
「ものの方、確認してください」
若者に促され、康介はビニール袋に指を入れた。白い粉を小指に付着させる。
嘗めてみた。苦い。それも、単なる苦味ではないのだ。強い苦味と同時に、微かに頭がすっとするような感覚を覚えた。若松に言われた通りの味だ。これは、本物であろう。
康介は頷くと、金を渡した。若者は金を数え、ニッコリと微笑む。
「じゃあ、気をつけて」
ペこりと頭を下げ、外に出ていった。外に対し、何の警戒心も抱いていない様子だ。康介は、思わず苦笑する。若者は、外にか何が待っているのかわかっていない。
少しの間を置き、康介も外に出た。途端に、スマホにメッセージが来る。
(奴らのガラは押さえた。お前のおかげで上手くいった。ありがとうよ。あと、ゴミはさっさと捨てとけ)
若松からのものだ。ガラとは、身柄のことである。奴らとは、先ほど出ていった若者のことだ。
今回の仕事は、裏社会の者たちに話を通さず、勝手に商売をしている薬物の売人を潰すことだ。たまに、こうした者がいる。外国人のバイヤーとネットを通じて知り合い、日本に薬物を持ってくれば儲かるよ……と声をかける。特に海外では、覚醒剤は安く作れる。
また、客もネットで簡単に探せる。ある隠語を使えば、向こうからホイホイやって来るのだ。結果、簡単に金を得られる。
だが、世の中は甘くない。裏の世界の住人に話を通さず商売をしていれば、いつかは目をつけられる。
今回の場合、初めに康介が買い手のふりをしてターゲットの売人に接触する。向こうも用心はしているだろうが、最終的には乗って来るはずだ。待ち合わせ場所と時間を決めて取り引きをすれば、末端の人間が現れる。
若松は今、その末端の人間たちを押さえたのだ。恐らく、他にも数人のチンピラを用意していたのだろう。トイレから出て来た若者の後をつけ、車に乗り込むところを数人がかりで取り囲む。彼らのような末端の人間は、ひとりでは行動しないことが多い。金の持ち逃げや、強盗を防ぐためにも複数で行動するのだ。
後は、若者たちを締め上げて上の人間の居場所を聞き出すだけだ。若松という男は、そうしたやり方をきっちり心得ている。
覚醒剤を持ってきた若者たちは、殺されはしないだろう。だが、恐ろしい目に遭わされることは間違いない。若松のやり方は陰険で、ねちっこい。しかも、恐怖心を煽る方法を熟知している。
まあ、いい。知ったことではない。裏の仕事にかかわれば、こうした出来事に遭うこともある。むしろ、早いうちに怖さを知ることが出来てよかったのかもしれない。
自分にも、いつかはそんな日が訪れるだろう。いや、自分の場合は……殺されてもおかしくない。
そんなことを思いながら、歩いていた時だった。突然、スマホが震える。誰かからメッセージが来たようだ。
若松からの追加指令だろうか。そんなことを思いつつ、画面を見る。その瞬間、思わず顔が歪んでいた。
(急で申し訳ないけど、明日頼みたいことがあるの。いい?)
メッセージの送信者は、山田花子だった。
家に帰った後、康介は座り込んでテレビを観ていた。画面では、スーツを着た中年男が、真面目くさった表情で何やら語っている。
男の声は、音として聞こえてはいる。だが、言葉としては頭に入って来ない。耳からの情報が、脳に達する前に次々と消されていく……そんな感じだ。
部屋着に着替えようとした時、ある物の存在に気づく。
覚醒剤の入ったパケだった。あの時、若者から受け取りポケットに入れたままだった。
(ゴミはさっさと捨てておけ)
この若松のメッセージには、別な意味がある。手に入れた覚醒剤のパケは、さっさと処分しろ……と言っていたのだ。
だが、覚醒剤のパケなどどうでもいい。康介の頭を占めていたのは、山田花子の存在だった。
裏社会の住人である自分に、あっけらかんとした態度で、三度目の仕事の依頼をする……この時点で、まともとは思えない。よほどのバカか、あるいは自分に自信があるのか。
しかも、一回目は誘拐、二回目は死体の始末である。短期間に、同じ人物から立て続けにハードな依頼をされるのは初めてだ。
では、次は何なのだろう?
自分は、とんでもない女とかかわってしまったのではないだろうか?
恐怖とも興奮ともつかない異様な感情に襲われ、康介は座り込んだ。かかわりたくないのあるなら、やることはひとつだ。スマホを変えればいい。どうせ仕事用なのだし、何の問題もない。それだけで、奴とは連絡が取れなくなる。
だが、康介の取った行動は真逆だった。
(わかりました。明日は一日空いています。詳しいことがわかり次第、出来るだけ早く連絡をください)
こんなメッセージを送信していた。
不意に、何者かの視線を感じた。見ると、父と母が立っている。最近、妙に出現頻度が高い気がする。
康介は、両親を睨みつけた。だが、父も母も彼と目を合わせようとしない。先ほどは、確かに視線を感じたのに。
「お前ら、何しに来たんだよ。言いたいことがあるなら、はっきり言え」
苛立ち、強い言葉を吐いた。しかし、返事はない。無言のまま、二人並んで突っ立っている。
いったい何が目的なのだろう。父と母は自分の人生を狂わせた。それだけでは飽き足らず、次は精神まで狂わせようというのだろうか。
・・・
それは、異様な光景だった。
二見家のリビングで、太った中年男がソファーに深々と座っていた。全裸で、弛んだ下腹を隠そうともしていない。座っているため正確な背丈は不明だが、高身長というカテゴリーに入らないのは間違いない。髪は薄く、口ヒゲを生やしている。目はぎょろりとしており、いかにも押し出しの強そうな顔つきだ。ガウンを着て葉巻でも咥えていれば、B級アクション映画の金持ちの悪役に見えるだろう。
その隣には、沙織が座っていた。彼女もまた全裸であり、中年男が片手を彼女の肩に伸ばして引き寄せ、もう片方の手で彼女の体を弄んでいる。設置されているテレビからは、昭和のメロドラマが放送されている。
絵面だけ見れば、アダルトビデオの撮影現場のようだ。しかしカメラはない。撮影している人間もいない。沙織の夫であるはずの幸平は、二人の姿を虚ろな目でじっと見ていた。召し使いのように、彼はリビングの隅に立ち尽くしていた。
窓から見える空は、まだ明るい。時刻は、午後四時になったばかりである。そんな時間だというのに、二見家のリビングは狂気と背徳感とが支配していた──
その間、康介は自身の部屋に閉じこもっていた。表情は虚ろで、死んだ魚のような目でテレビを観ていた。
何も見たくなかったし、聞きたくない。そのため、ヘッドフォンを付けた状態で内容もわからないテレビの画面を見つめている。ただただ、時間が過ぎるのをじっと待っていたのだ。
この悪夢が、一秒でも早く終わって欲しい……心の中で、そう祈っていた。
それが、いつ頃から始まったのか、よく覚えていない。
気がつくと、飛田は沙織の肉体を欲望のおもむくままに扱うようになっていた。しかも五十二歳という年齢にもかかわらず、彼の性欲は尋常ではない。昼間だろうが平気でずかずか家の中に入って来て、夫や子供の見ている前で沙織の肉体を貪ったのだ。まともな神経を持つ人間には、ありえない所業である。
どんな世界であれ、トップクラスに君臨するような人間の中には、まともな人間性を捨て去ってしまったような者がいる。「破天荒」「トップの非情な決断」などという言葉で言い変えることも可能な部分だ。品行方正で淡泊な善人では、一代で財を成すことなど出来ないのかもしれない。
もっとも康介にとって、上に立つ人間の資質などどうでもいいことだった。多感な少年時代に、金と権力を持った異常性格者の作り出した環境の中で、姉の冴子と共に育っていったという事実……それは、康介の人格に大きな影響をもたらす。ゆっくりと、しかし確実に彼の人間性を壊していった。