家近くのコンビニ
その日、康介は近所のコンビニに買い物に来ていた。
時刻は午後二時であり、客は康介の他にはいない。そもそも、康介が住んでいるのは真幌市である。かつては日本でも有数の工業地帯として知られた町だったが、今は見る影もない。不況の波が容赦なく押し寄せ、町から景気と活気とを根こそぎ奪ってしまった。後に残ったのは、ヤクザと不良外人と失業者とホームレスくらいである。後は、宿泊費の安さに目をつけた外国人バックパッカーと、話題作りのため悪さをするユーチューバーくらいか。
そんな場所にて、康介は食品の入ったビニール袋をぶら下げ歩いていく。空き家や空き地が目立つ上、道路には時おり血痕や注射器などが見受けられる。
正直、この町は歩いているだけで生命力を吸い取られていきそうな錯覚に襲われる。太陽すら、この町を射す光を抑えているような気がするのだ。
事実、ここで生まれ育った若者たちは、中学もしくは高校を卒業すると同時に、スーツケースを抱えて出ていってしまう。さらに、家出人や行方不明者の件数も全国でトップクラスだ。若者たちは理屈ではなく、若さゆえの感性から敏感に気づいているのだろう。
この町にいれば、いつか自分も真幌市の住人になる。つまりは、まともな人間でいられなくなる可能性が高い……ということに。
康介もまた、この真幌市の住人なのは間違いない。
暗く薄汚れた通りを、康介はとぼとぼ歩いていた。家までは、あと二十メートルほどの距離である。さっさと帰ろうと、足を速めた時だった。
「二見康介くん、だね。ちょっと、おじさんと話していかないかい?」
後ろから、不意に声をかけてきた者がいた。立ち止まり、ぱっと振り返る。
そこには、くたびれたスーツを着た中年男が立っていた。身長は百六十センチ強、体重は七十キロ前後といったところか。角刈りの頭は、白いものが半分以上を占めている。耳は潰れており、餃子のような形だ。顔には皺が目立つが、目つきは異様に鋭い。そこいらのチンピラなど、ひとにらみで退散させられるだろう。
康介は一瞬、裏の世界の住人かと思い身構えた。が、男は笑顔で近づいて来る。
「久しぶりだな。ずいぶんでかくなったなあ。俺の顔、忘れちまったのか?」
その時、ようやく目の前の中年男が誰か思い出した。
「た、高山さん。お久しぶりですね。この辺で、何か事件でもあったんですか?」
そう、彼の目の前にいたのは高山裕司だった。かつては少年課の刑事であり、少年時代の康介を取り調べたこともある。
高山は無言のまま、康介を凝視する。頭のてっぺんから爪先まで、睨むような鋭い目線を向けている。かつて取り調べを受けた時と変わらず、灰色のスーツに黒いネクタイに黒の革靴姿だ。もう六十近い年齢のはずなのだが、背筋は未だピンとしている。多少は無駄な肉も付いているだろうが、衰えは感じさせない。そこらのチンピラなど、一瞬で捻り潰してしまえるだろう。その圧力すら感じる視線に気圧され、康介は思わず目を逸らした。
目の前にいる男は、刑事ドラマで役者が演じているような刑事とはまるで違っている。どこがどう違うのか、と問われても、具体的な答えを出すのは難しい。実生活で海千山千の犯罪者たちと数多く渡り合ってきた結果、自然と身に付いたものなのだ。こればかりは、どんな名優だろうと醸し出すことは出来ないだろう。強引に言葉にするなら、体から発せられる圧力が違う、としか言いようがない。これが、俗にオーラと呼ばれているものなのかもしれなかった。
そんな高山は、問いには答えず無言のまま康介を睨み続けている。ややあって、口を開いた。
「こんなところで立ち話もアレだな。ちょいと、家にお邪魔させてもらっていいか?」
「はあ? 嫌ですね。これから忙しいんですよ。やらなきゃならないことが山積みでしてね。拒否します。どうしてもウチに来て中を調べたいなら、逮捕状を用意してください」
冷めた口調で言葉を返した。その途端、高山の目が吊り上がる。優しい笑顔から、一瞬にして鬼の形相へと変えられる……ベテラン刑事と裏稼業の人間に、よく見られる特徴た。
「生意気いってんじゃねえぞ、このクソガキが」
「生意気じゃないでしょう。俺だって、招く人は選びますよ。普通のことです」
恐れる様子もなく言い返す。相手の申し出を拒絶してはいるが、表情に敵意はない。口調も穏やかなものだ。裏の世界で飯を食っていれば、こんなやり取りは日常茶飯事である。
すると、高山は苦笑した。先ほどまでの凄みのある表情が、一瞬で消え去る。
「そうかい。お前がろくでもねえ生き方をしてるのは、いろんな連中から聞いて知ってるんだよ。だがな、安心しろ。今回は、お前が目当てじゃねえ。俺が捕まえたいのは、別の人間なんだよ。ここには、たまたま来ただけだ」
「そうですか。まあ、俺みたいな善良な一般市民の知ったことじゃないですがね」
すました表情で、康介は即答する。その顔を見て、高山はため息を吐いた。
「お前、本当にやさぐれちまったな。こんな風になるくらいなら、ガキの時にお前をきっちり捕まえとくべきだったよ。あん時だったら、少年院で済んでたのにな」
ドスの利いた声だ。康介を睨みつける目は、まさに鬼刑事のそれである。そこらのヤクザなど、比較にならない恐ろしさだ。しかし、康介は怯まなかった。彼とて、伊達に裏の世界で生きてきたわけではない。平静な顔つきで、首を傾げて見せる。
「はあ? 俺は逮捕されるようなことなんかしてませんよ。あの件も、俺は全くの無関係ですから。やったのは誰か、あなただってご存知のはずですよ」
その途端、高山はクスリと笑った。おかしくて笑った、という雰囲気ではない。
「笑えるな。よくもまあ、んなことが言えるよ。あれはな、全部お前がやらかしたことだろうが。俺にはな、わかっているんだよ。まあ、今さらどうにもしようがねえけどな。証拠も出て来ないだろうしよ」
「さあ、何のことやらわかりませんね。証拠もないのに、いい加減なこと言わないでください。弁護士に電話しますよ」
とぼけた表情を作り、言葉を返す。もっとも内心ではイラついていた。あれは、康介にとって思い出したくもない記憶だからだ。
その時、高山が顔を近づけてきた。鼻と鼻とが触れ合わんばかりの位置だ。しかし、康介は落ち着いている。あえて目線を逸らし、冷めた表情で迎え討つ。ここで、相手の気合いを受けてやり合う必要はない。攻撃的な気持ちを受け流すのも、ひとつの駆け引きなのだ。
しばらくの間、そのままの状態が続いだ。ふたりの、交わることのない視線……だが、先に根負けしたのは老刑事だった。不快そうな様子で舌打ちし、ゆっくりと語り出した。
「おい、調子こいてんじゃねえぞガキが。お前が、あの若松市郎とツルんでることはわかってんだ。今は忙しいから、お前みてえな雑魚に構ってる時間はねえ。だがな、すぐに取っ捕まえてやるからよ。今のうちに、お務めの練習でもしとくんだな。お前は確実に、三年や四年じゃ済まないからよ」
そう言うと、高山は向きを変えた。こちらに背を向け去って行く。
少年時代、康介は高山に取り調べを受けた。その当時は、高山という刑事が随分と大きく見えた。本当に、恐ろしい男に思えた。しかし今になって、この中年刑事の後ろ姿を見ると……記憶より、ひどく小さく見えた。
なぜか、高山に対し哀れみのような感情を覚えた。警察など、今の彼にとって敵でしかないのに。
家に帰り、ドアを開ける。と、父と母がいた。どちらも無言のまま玄関に立ち、じっと康介を見つめている。
康介にとって、よくあることだ。そして康介が不快になるのも、お決まりのパターンである。この二人の存在には、未だに慣れることが出来ない。
「いい加減にしてくれよな。ここは、お前らの来るところじゃねえんだよ」
舌打ちしつつ、二人を無視し中へと入っていく。このところ、しばらく見なかったが……また、現れるようになったらしい。
「さっさと失せろ」
ぶつぶつ呟きながら、奥に入って行き明かりをつける。すると、壁ぎわにもうひとりいるのを見つけた。
姉の冴子だ──
「今日は、あんたもいるのかよ。本当にうっとうしいな」
鋭い目で睨みつけたが、冴子に怯む気配はない。悲しげな瞳で、じっと康介を見ている。
康介は目を逸らし、座り込んでスマホをいじり始めた。恐らく、高山との再会が原因だろう。あの男は本当に、ろくなことをしてくれない。先ほど老刑事に対し感じていた哀れみの気持ちは、綺麗さっぱり消え失せていた。代わりに、昔の記憶が甦ってきた。
絶対に思い出したくなかった映像が、次々と脳裏に浮かんで消えていく──
・・・
デボン共和国で地獄を見た日から、二見幸平は完全に変わってしまった。
PTSDか、あるいは他の心の病かは不明である。確かなことは、幸平の中から、社会人として必要とされる能力が完全に失われてしまったということだけだ。日がな一日、ずっと自室にこもっている。家族とは、話そうともしない。中で何をしているかというと、虚ろな目で椅子に座りテレビを観ているかスマホをいじっているか、床で寝ているだけだった。家族を養おうという気力は全く感じられず、性的にも不能になっていた。当然ながら、仕事など出来るはずもない。
会社からは、毎月わずかばかりの金が振り込まれてはいる。しかし、これでは今までの生活レベルは維持できない。
こうなった以上、取るべき手段はひとつだ。自宅を手放し、安いアパートに引っ越す。生活レベルを収入の額に見合ったものに変え、二見幸平を通院もしくは入院させる。場合によっては、様々な手当ての申請も考えるだろう。身の丈に合った生活レベルにまで落としていけば、家族四人が生きていくには何の問題もないはずだった。
ところが、二見沙織は違う選択をした。現在の二見家で、ただひとり大人の判断が出来るはずだった沙織。同時に、家の全権を握ってもいた。見栄っ張りである彼女は、生活レベルを少しでも下げることに耐えられなかったのだ。夫が壊れてしまっている事実を、世間に公表したくもなかった。
沙織は、二見家の実情を誰にも知られることなく、今の生活レベルを維持する手段を考えた。だが、そんな都合のいい方法などあるはずもない。涙金が入ってくるとはいえ、幸平が働けない以上、収入はがくっと落ちる。幸平が働けない以上、今度は沙織が稼ぐしかないが、彼女には商才はない。もともとアルバイトすらしたことがなかった。さらに言うなら、自分が働いているという事実を近所の人間に知られたくなかったのだ。
そんな沙織に手を差しのべたのが、金融会社社長の飛田孝則である。この男、貧乏な家に生まれたが、たった一代で巨万の富を得た傑物だった。無一文の状態から、様々な手段を用いて金をかき集めていき、手段を選ばないやり方でのし上がっていった。表社会でも裏社会でも、飛田の名前は知れ渡っていく。全盛期の頃の彼に逆らった者は、マグロ船送りか山に埋められたか、あるいは事故死で片付けられた……などという噂すらあった。
やがて三十歳の時には、大手金融会社を初めとする数社の代表取締役という肩書を得ていた。名前を言えば「そういえば、そんな会社聞いたことあるな」という答えが返ってくるような会社の社長である。
五十二歳の現在、彼は飛田グループ会長の座についている。もっとも仕事はセミリタイアしており、暇と金はたっぷりある状態だった。
そんな飛田が、どういった経緯から沙織と知り合ったのかというと……この男、もともと幸平とは知り合いであった。いや、友人といってよかったかもしれない。最初は仕事で知り合ったのだが、やがて個人的に会うようになる。さらにはお互いの家を行き来するような関係になっていた。
どういったルートを用いたのかは不明だが、デボン共和国での事件も知っていた。二見家の状況を知ると、沙織に援助を申し出る。もしかしたら、最初は純粋な同情からの言葉だったのかもしれない。今となっては不明だ。
確かなことはひとつ。援助が始まって一ヶ月もしないうちに、沙織は……いや二見家の全員が、飛田の奴隷となった。