山田の部屋で
「こいつは、いったいどうしたんです?」
康介は、思わず尋ねていた。
午後十時、彼は山田花子の家を訪問した。楽器などを入れる巨大なケースと台車を用意し、さらに作業服を着た姿でブザーを押す。
山田はすぐにドアを開け、康介を招き入れる。リビングに来た時の第一声が、上の問いであった。
そもそも、この問いはルール違反のようなものである。彼は裏社会における便利屋のような存在だ。依頼があれば、何も聞かずに言われたことをこなす。間違えても、依頼人のプライベートに踏み込むようなことをしてはならない。これは鉄則である。
にもかかわらず、聞かずにはいられなかった。
康介の目の前に、ひとりの男がいる。前回さらったイケメンの若者とは、似ても似つかない。四十歳を確実に過ぎている、地味な顔つきの中年男だった。身長はさほど大きくなく、百六十センチ台だろうか。だが、体重は八十キロはありそうだ。顔と腹周りに、たっぷりと脂肪が付いているのがスーツ越しにも見てとれた。髪は少々薄くなっており、黒ぶち眼鏡をかけている。ソファーの上で口を開け、だらしなく眠りこけている……ように見える。その姿だけを見れば、リビングでくつろいでいる間に眠ってしまったお父さん、といった雰囲気だ。
もっとも、これはそんなのどかな風景ではない。この中年男は、既に死んでいるのだ。
念のため、心臓音や脈もチェックしてみた。やはり予想通りであった。完璧に死んでいる。死体を扱い慣れている康介には、はっきりとわかった。
「ちょっと、ね。いろいろモメちゃって、面倒だから殺っちゃった。安心してよ、ちゃんと死んでるから。生き返ったりする心配はないよ」
山田花子は一切の感情を込めず、淡々とした口調で語る。化粧を落とし、ジャージ姿で立っている姿は、自宅でくつろいでいる二十代の一般女性にしか見えなかった。もっとも、一般女性宅に死体は転がっていない。
裏社会の仕事人である康介から見ても、異様な空間だ。何も言えず、もう一度ソファーの死体へと視線を移す。
死体に外傷はなかった。刃物で刺殺したり、鈍器で殴り殺したわけではなさそうだ。かといって、絞殺したとも思えない。恐らくは、毒を用いて殺したのだろう。
見れば見るほど、地味な風貌の男である。派手な遊びをしてきたような雰囲気は全く感じられない。今まで、地味で平凡な人生を真面目にコツコツ歩んできたように見える。ただ、顔つきに妙な若さを感じた。夫、あるいは父親になった経験はなさそうなタイプだ。
身に付けているスーツはブランド品のようだが、どこか無理して着ているような気がする。顔などから醸し出している雰囲気と、着ているものが全く噛み合っていない。現代人に、公家の衣装を着せているようなアンバランスさだ。
そもそも彼は、この部屋で何をしていたのだろうか。山田とは、どういう関係なのか。なぜ、殺される羽目に陥ったのか。様々な疑問が湧いてくる。
これまで康介は、依頼人の事情など気にしたことはなかった。だが、今回だけは違う。裏の世界に足を踏み入れてから、様々な人間を見てきた。ヤクザ、半グレ、外国人マフィア、プロの犯罪者などなど。そんな連中と渡り合ってきた康介の目から見ても、山田は異常だ。
裏の世界に生きている者たちは、価値観がはっきりしている。彼らの目的は、とどのつまり金だ。しかし、山田の奥底にあるものは見えない。そこには、深く濃い闇が感じられるだけだ。金が目当てだったのかもしれないが、それだけではないものも感じる。
山田の顔を、そっと見てみた。彼女は、つまらなさそうな目で死体を見下ろしている。裏社会に生きる人間は、独特の空気を放っているものだ。しかし、この女の放つ空気は違う。
その時、山田の横顔に見覚えがあることに気づいた。かつて見た誰かに似ているのだ。顔の形が、というのではない。似た雰囲気の女を見た記憶がある。
どこで見たのだろうか……と考えていた時だった。突然、奥の部屋からガタンという音がした。次いで、ドンドンという音が響く。壁を叩いているのか。
すると、山田はそちらに視線を向けた。次の瞬間、つかつか近づいていき、奥のドアを開ける。室内は暗くてよく見えないが、何かがいるらしい。
山田は、その何かをじっと見つめる。冷酷な目つきだ。
「静かにしてくんないかな」
部屋の中にいる何かに、鋭い口調で言った。いや、命令といった方が正確だろう。途端に、音は止む。直後、彼女はすぐに扉を閉めた。
康介は、思わず顔を歪めた。あの部屋には、何がいるらしい。何も見えなかったが、ひょっとしたら前回さらった青年がいるのではないのか。
いや、それ以前に……この家で、何が起きているのか?
そんなことを考えていた時、山田がこちらを向いた。今のやり取りを見られたことなど、気にも留めていないらしい。
「どうなの? 引き受けてくれる? 急な話だし、断られても仕方ないけど」
あっけらかんとした表情だ。ついさっき人を殺し、その死体の処理を頼んでいるはずなのに……八百屋で大根を買って来てくれ、とでもいうような軽さである。この態度からするに、人を殺したのは初めてではないのだ。それ以前に、康介が仕事を断ったら、どうする気だったのだろう。
もっとも、ここまで来たら返事は決まっている。異様なものを感じつつも、彼は頷いた。
「ええ、構いません。引き受けます」
平静な表情を作り、返事をした。その途端、山田がすっと近づいてきた。康介の手を掴む。
康介はびくりとなった。彼は筋肉質のがっちりした体格だし、格闘技もやっており暴力沙汰にも慣れている。山田など、やる気になれば素手で簡単に殺せるだろう。
にもかかわらず、康介は逆らうことが出来なかった。山田に腕を掴まれ、右手に何かを握らされた。なのに、されるがままになっていたのだ。
「今回の代金ね。よろしく」
右手に握らせられた物は、封筒だった。中に札束が入っており、分厚い。確かに、前回の倍は有りそうだ。康介は、思わずペこりと頭を下げる。
すると、今度はもう片方の手を掴んできた。何かを握らせる。
「ついでに、これも処分してくれない?」
手の中を見ると、指輪がある。金で出来ているらしい。康介は貴金属には詳しくないが、見た感じや重さからして本物のようだ。少なくとも、金メッキや十八金の品でないのは確かである。
「これ、どうしたんです?」
聞く必要のないことだった。処分しろと頼まれれば、黙って処分する。それが、この稼業の掟だ。にもかかわらず、康介は尋ねていた。
すると、山田は顔をしかめた。
「そいつがくれたの。結婚してください、だってさ」
吐き捨てるような口調だ。となると、これは婚約指輪か。そいつとは誰であるか、聞くまでもないだろう。だらしない姿をさらしている死体だ。
では、この死体と山田との関係は……。
「こんな指輪買うくらいなら、現金でくれりゃいいのに。君の好きなようにしていいから」
冷めた顔つきで、山田は言葉を続ける。指輪にも、死体となった男にも、何の感情も抱いていないらしい。この女が何者なのかはわからないが、男との関係は見えてきた気がした。
「わかりました。これも処分しておきましょう。では、失礼します」
平静を装い頭を下げると、康介は死体を担ぎ上げた。予想はしていたが、かなり重い。九十キロはあるだろう。死体を運ぶというのは簡単ではない。生きている人間より、遥かに重く感じるのだ。
しかも、この男は腹に脂肪が付きすぎている。ひょっとしたら、用意した箱に入らないかもしれない。その場合、ここで一部を解体するしかない。
だが、それは杞憂に終わった。死体を袋に詰め、折り曲げて箱に入れてみる。すると、問題なく入った。
死体の入った箱を、台車に乗せて運び出す。傍目には、粗大ゴミを処分する業者にしか見えないだろう。
箱を荷台に積み込み、ロープできっちり固定させた後に軽トラを発進させた。
今まで康介は、依頼人のプライベートにここまで踏み込んだりなかった。死体があるなら、始末するだけだ。死体となった者の背景など、考えたこともない。
だが、今回は違う。あの山田なる女の仕事を、マネージャーである若松を通さず受けてしまった。挙げ句、知らなくてもいいことを知ってしまった。
先ほど「始末」した男は、山田の婚約者であったらしい。いや、婚約者のつもりでいただけか。指輪を渡しに彼女の家に行き、何らかのやり取りの後に毒を飲まされ殺されてしまった……そうとしか、考えられない。
数時間後、康介は町外れにある小さな精肉工場の中にいた、彼は今、全ての「作業」を終わらせ、衣服を着替えているところである。
様々な色の汚れが大量に付着した作業服を脱ぎ捨てた後、タオルを手に取り、自らの体に付着したものを綺麗に拭き取る。付着している物質は……人間の血液や脂、そして肉片などである。先ほど、康介が運び込んだ男の肉体を構成していたものだった。
体に付着していたものを拭き取り、着替えた。既に、空は明るくなっている。堅気の人間たちが、活動を開始する時間帯だ。トラックのエンジン音が聞こえている。
疲れてはいたが、このまま寝てしまうわけにもいかない。康介は車に乗りこみ、エンジンをかける。
その時、思い出したことがあった。依頼がきたのは一昨日だ。ところが、あの男が死んだのは昨日である。あの男は、死んだばかりの状態だった。体はまだ温かかったのが証拠だ。
つまり山田は、一昨日の段階で絵図を描いていた。男を家に招き、殺し、死体を自分に始末させる。これが、山田の計画だったのだ。
プロの犯罪者たちは、必要のない殺しはしない。人を殺すとなると、様々な手間がかかる。時間もかかる。捜査する警察の気合いの入り方も変わってくる。刑も格段に重くなる。
そもそも、彼らの目的は金なのだ。金を手に入れるために人を殺すとなれば、それ相応の額が必要である。
では、山田は何なのだろうか。先ほど始末した男は、大金を持っているようには思えなかった。地味で小金を溜め込むタイプかもしれないが、その溜め込んだ金を趣味に惜し気もなく注ぎ込むタイプにも見える。
いや、あの男が何者かなど、どうでもいい。これ以上、山田とかかわるのは危険だ。
ようやく帰ると、家には先客がいた。父の幸平と、母の沙織だ。先客というより、侵入者といった方が適切かもしれない。
康介は舌打ちした。ここ数日間、姿を見せなかったのだが……また現れるとは。
いい加減、消えて欲しい。
「また来たのかよ」
じろりと睨んだが、二人は怯む気配もなく平然としている。康介はため息を吐き、バスルームへと向かった。彼らには、何を言っても無駄なのだ。
シャワーを浴びている時、やっと思い出した。
山田は、あいつに似ている。
・・・
十二年前──
父の幸平は会社の命を受け、二人の若手社員とともにデボン共和国に行った。現地の視察のためである。一週間で帰る予定であったが、ギャングに誘拐されてしまった。
彼ら三人は、地下の施設に監禁されてしまった。食事は一日に一度、残飯のようなものを食べさせられるだけ。見張っているのは、ドラッグをやりながら面白半分に拳銃をぶっ放すような若者たちである。彼らは、面白半分に幸平らをいたぶり続けた。最初は殴る蹴るだったが、だんだんエスカレートしていく。こうした若者は、加減というものを知らない。しかも、ドラッグをやっているものまでいるのだ。そのうち、お互いの残虐さを競い合うようになっていた。人質を、どれだけ酷い目に遭わせられるかを競っていたのだ。
三人は、あっという間に痩せ細っていった。体は、青痣や生傷が耐えない状態である。その環境は肉体のみならず、精神も壊されていった。
やがて、ひとりの若手社員が完全に狂ってしまった。奇声を発しながら、見張りの若者たちに襲いかかって行ったのだ。当然ながら敵うはずもなく、拳銃で射殺される。彼の死体の映像が、松島電器へと送られた。
その時になり、ようやく本社の上層部も動く。現地の警察にもマスコミにも一切告げず、極秘のルートを通じて多額の身代金をギャングに支払う。さらに、毎月決まった額の上納金を支払うことも約束した。
引き換えに、残った二人は解放された。死んだ若手社員は、事故死という形で処理される。言うまでもなく、この誘拐事件の存在を知っているのは一部の人間だけであった。
帰国した幸平は、身も心も完全に病んでいた。想像を絶する恐怖を味わわされ、肉体への暴力を毎日受け続けてきた。平和な日本で平穏に育った彼に、耐えられるはずがなかったのだ。
しかも松島電器からは、デボン共和国で何があったか秘密にするよう言われていた。事件のことは、絶対に他言しませんという誓約書まで書かされていた。もっとも、口外したとしても誰も信じてはくれないだろうが。
彼は毎日、虚ろな目で部屋に閉じこもり、テレビを観ているか、ベッドで寝ているだけだった。外出することはなく、家族との会話すらない。家族を養おうという意欲は失われており、性的にも不能になっていた。当然ながら、仕事など出来るはずもない。
一応、松島電器の社員という立場は残っていた。もっとも、何の仕事もしていない。出社すらしていない状態だ。一応、給料は支給されている。口止め料のつもりであろう。その金額は少ないが、そもそも仕事をしていないのだから仕方ない。
こうなった以上、二見家は暮らしかたを変えなくてはならなかった。生活のレベルを下げ、収入に見合った暮らしをする……普通の人間なら、当然のことだ。
ところが、沙織はそうしなかった。異常に高いプライドを持つ彼女は、生活レベルを下げることに耐えられなかった。さらに、夫が壊れてしまっていることも近所に知らしめたくなかった。
結果、沙織は家族全員を狂気に導く者と接触してしまう。