喫茶店『エルロック』
康介の前の席には、ひとりの中年男が座っている。
年齢は四十代から五十代だろうか。身長はさほど高くなく、ずんぐりとした体型だ。腹周りは恰幅がよく、スーツの上からでも目立つ。ドスの利いた顔つきだが、頬の周りにも肉が付いており丸さの方が目立つ。髪はかなり薄くなっており、着ているスーツはブランド物だ。ファッションに関心のない康介にも、男の着ている服が高級であることは理解できた。
首からは金のネックレスをぶら下げており、手首には金の腕時計を付けている。五百万以上する時計だと、本人が自慢げに語っているのを聞いたことがあった。万が一、食うに困った時は……コンビニに強盗に入るよりは、この男を叩きのめして身ぐるみ剥いだ方が金にはなるだろう、などと馬鹿なことを考える。
そんな男と康介は、喫茶店『エルロック』にてテーブルを挟み向かい合っていた。店は小さく、客が八人入れば満員、というスペースしかない。内装は落ち着いたものであり、騒がしい学生やパーティー好きな人種は寄せつけない雰囲気を醸し出している。
カウンターに立っているマスターは、にこやかな表情を浮かべている中年男だ。ワイシャツにベスト姿だが、身長は高く体格の方も厳つい。康介も常人からみれば「ゴツい」体つきだが、このマスターに比べると細く見えた。切り揃えられた髭とスキンヘッドが、強面の風貌をさらに迫力あるものにしている。
このマスターが、かつて裏社会の住人であったことを康介は知っている。多少、危ない話などしても警察に通報されたりはしない。そのため、この店は裏社会の人間の会談に使われることも少なくない。時には、危険な品物の取引の場に用いられることもある。知る人ぞ知る店なのだ。
康介のいるテーブルの上には、コーヒーのカップが二つ。さらに、チーズケーキの乗った皿が置かれている。中年男はフォークを手にすると、チーズケーキを一切れ口に入れた。
平日の午後三時、静かな喫茶店にて二人の男が無言で向き合っている。しかも片方はブランド物のスーツを着た人相の悪い中年男で、もう片方はがっちりした体格の五分刈りの若者だ。そんな二人を見れば、普通のサラリーマンの対話でないことは、誰にでも容易に想像がつくだろう。
そんな二人の、会話の口火を切ったのは康介からだった。
「若松さん、昨日の女は何者なんですか?」
「はあ? あのなあ、依頼人のことはベラベラ喋るわけにはいかねえんだよ。お前だって、そこんとこはわかるだろうが」
若松市郎は、面倒くさそうな表情で答えた。
この男、見た目の通り裏社会の住人である。とはいっても、康介のような実行部隊とは違う。いわば表と裏の仲介家なのだ。
なんらかの困った事情を抱え、裏の人間を雇い、表に出せない内容の仕事を依頼したい者がいたとしよう。その場合、まずは裏の事情に詳しそうな誰かに相談する。その誰かは、若松に相談する。若松は仕事の内容を吟味し、適役の人間を紹介する。今回の場合、それが康介だった。ある意味、康介のマネージャーでもあるのだ。康介もまた、若松のことは信用していた。あくまでも、他の連中に比べればマシという程度だが。
そんな若松は今、チーズケーキを食べている。彼はいかつい風貌に似合わず、甘いものが大好きなのだ。あちこちのスイーツの食べ歩きが趣味らしい。この喫茶店に来た理由のひとつが、スイーツの名店だからである。ここのマスターは、厳つい風貌でありながらスイーツを作るのが上手い。有名なパティシエの弱みを握っており、秘伝のレシピを口止め料として頂戴した……などという噂も聞いている。
もっとも、今の康介はスイーツなど楽しむ気分ではない。不満そうな顔で、なおも食い下がった。
「わかります。ただね、あいつは普通じゃないんですよ」
「そんなのは、当たり前だろうが。普通の人間なら、好きこのんで俺たちみたいなのとかかわったりしないだろう」
「それもわかります。けど、あの山田は違うんですよ。あいつは、なんか違うんです……」
そこで、康介は言葉に詰まった。自分でも、おかしなことを言っている自覚はある。あの女から感じた異様さを上手く伝えられない自分に、もどかしさを感じていた。
何が違うのだ? と問われたら、何かが違う、としか言えない。これは感覚的なものだ。料理の微妙な味わいを外国人に片言の英語で説明しようとしている、そんな感覚である。
不思議なのは、この世界で長く飯を食っているはずの若松が、あの女に違和感を覚えていないという事実だ。
若松の人を見る目は確かだ。かかわっていい人間と、かかわってはいけない人間を見分ける目は鋭い。でなければ、裏の世界では生きていけないのだ。
にもかかわらず、山田という人物には警戒心を持っていないとは。どういうことなのだろう。
「お前、考えすぎだって。とにかく、仕事は上手くいったんだろ? なら、何も気にすることはないよ。次の仕事のことだけ考えていればいいんだよ。ただ、用心だけはしておけ」
そこで、若松は目を細めた。顔を近づけ、ゆっくりと囁く。
「もし万が一、あの女が妙な真似をしそうになったら……その時は、お前の手で始末しろ。わかったな」
若松との話し合いを終えた後、康介はまっすぐトレーニングジムに向かった。己の裡に燻る感情に促されるまま、ウエイトトレーニングを始める。
真剣な表情でベンチに仰向けになり、重いバーベルを挙げる。ベンチプレスだ。上半身のトレーニングとしては、もっともポピュラーなものである。鬼のような形相で、バーベルを挙げていく。これを数セットこなす。
それが終わると、ダンベルを手に取る。神経を集中し、ダンベルを挙げた。一心不乱にトレーニングに励むことにより、自身の不安が少しずつ消えていくのを感じていた。トレーニングにより発生したアドレナリンの為せる業である。
トレーニングの合間、水を飲みながら周囲を見回した。怪しげな人物に見張られていないかのチェックだ。同時に、己の肉体と精神に異常がないか確認する。
とりあえず、今のところ異常はない。周囲に、怪しげな人物がいるわけでもない。普段と、全く同じだ。言うまでもなく、山田花子の姿など見えない。
ひょっとしたら、全ては杞憂なのかもしれない。山田は、確かに奇妙な女だった。しかし、今後も会うとは限らない。どんな狂人であれ、かかわらなければ存在しないのと同じだ。
そう、あの女も他の客と同じく、人生でたった一度すれ違っただけの人間なのだ。これ以上、なんら気にする必要はない……康介は己にそう言い聞かせ、再びトレーニングを再開した。
トレーニングを終えると、シャワーを浴び着替えて外に出た。時刻は、既に午後五時を過ぎている。学校帰りの学生や、仕事帰りのサラリーマンの姿が目立つ。
そんな街中を、康介は厳つい体を縮めて歩く。目立たないよう、静かに歩いて家に戻って行った。この男は、普段からひっそりと生きている。他人と肩がぶつかったら、自分の方から「すみません」と謝る。喧嘩を売られても、さっさと逃げる。犯罪に類する行為を目撃したら、見なかったことにしてその場を離れる。信号無視すらしない。仕事が法律に抵触するものだけに、それ以外の部分においては出来る限り法を破らないよう生きているのだ。
家に戻り、明かりをつける。すると、目の端に動くものの気配を感じた。誰なのかは、いちいち見るまでもない。父と母だ。昨日と同じく、突っ立ったまま無言でこちらを見ている。何が目的なのだろうか。康介は舌打ちし、二人を無視して座り込む。
その時、もうひとりの存在を感じた。別の誰かが、こちらを見ている。視線を、はっきりと感じる。
振り返ると、姉の冴子だった。いつのまにか玄関に立っている。これまた、予測してはいた。
「何の用だよ、姉ちゃん」
不機嫌そうに声をかけるが、姉は何も答えない。無言で、こちらをじっと見つめている。
康介は彼女を無視し、冷蔵庫を開けた。中から、野菜ジュースの入った紙パックを出す。視線の端に両親の姿が映ったが、何も言わずにジュースを流し込む。さらに、昨日の残り物の惣菜を出して電子レンジに入れ温める。何とも侘しい食事だが、康介にとってはいつものことだ。
父と母と姉は、三人並んだ状態で無言のまま突っ立っている。その視線はバラバラだが、康介を見ていない点だけは一致していた。
この四人家族は、他人から見れば異様なものに見えるだろう。血の繋がっているはずの康介の目にも、ただただ不快なものとしか映っていなかった。
もっとも十年以上前の実家では、今など比較にならない異常な光景が繰り広げられていたのだが──
・・・
あれは、十二年前のことだった。
康介の父親である幸平は、会社の命を受けデボン共和国へと向かう。この国に、新しく設置された支店の視察のためだ。さらに、新しい工場を建設する予定もある。人件費が安い上、規制も緩い。おまけに、美女の多い国としても知られている。
このデボン共和国は、東ヨーロッパの小国である。かつては、独裁者ナジームとその一族が絶大なる権力を振るい、国民に恐怖を植え付け支配していた。
そもそも、昔のデボンは王政であった。ところが、ナジーム・バレク率いる革命軍がクーデターを成功させ、ナジームが初代大統領に就任する。
ナジームは、強引なやり方で国を改革していく。また秘密警察を組織し、自分の考えに異を唱える者は容赦なく捕らえ矯正施設へと送る。処刑した人数は、百や二百ではない。
それでも、反逆の芽を摘むことは出来なかった。ナジームのやり方に不満を持つ反乱分子は地下で活動を続け、徐々に同志を増やしていく。
やがて、二度目の革命が起きた。発端は地方の町で起きた暴力的なデモだったが、いつしかそれがクーデターにまで発展した。地下に潜んでいた反バレク派は一斉に蜂起し、凄まじい勢いで進攻していき、首都の占拠に成功した。バレク一族は、全員が処刑される。
その後、一応は民主国家が誕生したものの……まだまだ政情は不安定であり、治安も良くなかった。そうなると、台頭して来るのは法の外にいるアウトローたちだ。警察や軍隊の弱体化を幸いとばかり、職にあぶれた若者やチンピラを統率するギャングたちが町を牛耳るようになってしまったのである。彼らが町の治安を守っている部分もあったが、市民の金が裏社会に流れていることにかわりはない。
独裁者の一族による恐怖政治が終わったと思ったら、今度はギャングたちの支配が始まったのだ。一般市民の生活は、さほど変わっていなかった。
それでも、幸平らが泊まっているホテルの周囲は安全なはずだった。デボン国にとって、旅行客は大切な収入源である。ギャングたちも、その点は承知していた。外国人には、よほどのことがない限り手を出さない……それが、彼らのルールであった。また旅行客も、そのことは知っていた。
ところが、想定外の事態が幸平たちを襲う──
幸平と部下たちは、気晴らしに夜の街を歩いていた。道案内と通訳を連れ、酒も入った状態である。彼らの目当ては、外国人旅行客向けのいかがわしい店であった。デボン共和国は、様々な人種が共存しておりハーフの美女が多い国としても知られている。売春宿にも、美しい顔の女が多い。
やがて、狭い路地裏に入った時だった。突然、銃で武装した数人の男たちの襲撃を受ける。話し合おうと試みた通訳は、目の前で射殺された。恐怖に震える幸平らは、有無を言わさず目隠しをされ手足を縛られ、車で誘拐されてしまう。
後で判明したのだが、道案内の男が襲撃の手引きをしたのだった。この道案内はギャングの一員であり、最初から幸平ら三人を拉致するつもりで動いていたのである。通訳は、そのとばっちりを受けたのだ。
そもそも、松島電器が地元のギャングに話を通していなかったのが原因であった。デボン共和国では、場所によっては警察よりもギャングの方が強い権力を持っていたのだ。松島電器の進出を知ると、ギャングたちはさっそく取り引きを申し出る。お前たちの仕事がうまく進むよう便宜を図るから、こちらにもおこぼれをよこせ……というわけだ。ところが、松島電器は相手にせず突っぱねる。国の事情にうとい上層部は、ありふれたチンピラの脅しだと判断し相手にしなかったのだ。結果、最悪の事態を招いてしまう。
もっとも、当時の幸平たちは、そんな上の事情など知るはずがない。彼らは誘拐され、地下にある施設に監禁されてしまう。
そこで彼らを待っていたのは、想像を絶する地獄の日々であった──