康介の自宅
康介は目を開けた。
窓ガラスから射してくる光を見れば、寝ていていい時間ではないということはわかる。もう昼過ぎだろう。時計を見てみれば、二時五分前だ。
いつもなら、既に起床して活動しているはずの時間帯である。この男は、一般的な勤め人と違い時間には縛られていない。その分、自身をきっちりと律した生活を送っている。仕事がない日だからといって、普段の生活リズムを変えたりはしない。朝から酒を飲み続けた挙げ句に、前後不覚の状態で眠る……などということは、これまで一度もなかった。怠惰な習慣に溺れた挙げ句に、使い物にならなくなった人間を見てきたし、また話にも聞いている。裏の世界で使い物にならなくなった人間の行き着く先は、牢獄もしくは黄泉の国しかないのだ。
康介は己を律してきた。同年代の若者が様々な娯楽にのめり込む中、彼はひたすら自分の決めたルールを守り通してきたのだ。お陰で、仕事においてミスをしたことはない。若松からの信頼も得られている。
にもかかわらず、今は起きる気になれなかった。しばらく何もしたくない。ただただ、寝床でまどろんでいたかった。
気分がいいわけではない。むしろ真逆の状態である。頭が異常なまでに重く感じ、体も鉛を流し込まれたかのように重い。起き上がることすら困難に感じる。考えることも面倒だ。目に映るもの全てが無価値に見えていた。今までしてきたこと、その全てがつまらなく思える。何も考えず、このまま眠り込んでしまいたい。
原因はわかっている。久しぶりに、あの事件について思い返してしまったからだ。その後、決まって訪れる重度の鬱状態……これだけは、いつまで経っても慣れることなど出来ない。
(この先、お前は一生罪を背負って生きるんだ。覚悟しとけ、楽な人生じゃねえぞ)
高山刑事の言葉が蘇る。これが、罪を背負って生きるということなのだろうか。
気がつくと、既に五時を過ぎていた。
今まで眠っていたわけではない。この数時間、ずっと不快な気分のまま横になっていた。起きてから、何も食べていない。だが、腹は空いていない。食べ物のことを考えただけで、不快さが増していった。
不意に、人の気配を感じた。見ると、父と母がキッチンに立っている。父は、刺された時と同じ汚らしいTシャツだ。母はパジャマのようなものを着ている。いつもと同じく、虚ろな表情で立っていた。
これもまた、罪を背負って生きる者の宿命なのか。
「また来たのかよ」
低い声で毒づき、目を逸らす。己の手で殺したはずの人間が、目の前に現れる……本来なら、悪夢以外の何物でもない光景のはずだ。
しかし、康介は平気だった。恐怖はないが、かといって他の感情もない。何やら得体の知れない存在が、なぜか目の前に現れる……その程度の認識でしかないのだ。不思議な話ではある。だが彼は、ふたりを見て怖いと感じることがなかった。
ある者は、犬を見て可愛いと思う。だが、別の者は犬を見て怖いと思う。幽霊のような、理屈では説明できない存在に対する態度も、人によって差があるのかもしれない。
あるいは、家族だからかもしれない──
そんなことを考えながら、顔を逸らして反対側を向いた。すると、おかしなものが視界に入る。
手を伸ばし、それを掴んだ。
「これは?」
小さなビニール袋に入った粉末。透き通っており、氷砂糖のような形状だ。指で強く押すと、簡単に砕ける。
これが何かは知っている。覚醒剤だ。
「なんで、こんなものが?」
思わず呟いていた。今まで裏の世界で生きてきたが、覚醒剤をやったことはない。覚醒剤をやるようになった者の行き着く先は、だいたいが同じである。最初は、酒を楽しむように覚醒剤を楽しむ。だが、やがて人生において薬の比重が大きくなる。やがて、薬に支配されてしまうのだ。そんな人間を、何人も見てきた。
だからこそ康介は、薬物からは徹底的に距離を置いてきたのだ。そんな自分が、覚醒剤など買うはずがないのに……。
その時、ようやく思い出した。数日前、若松とともに、この辺りで勝手に商売をしていた売人を狩ったのだ。その時、覚醒剤のパケを受け取っていた。
(ゴミはさっさと捨てておけ)
若松に、そう言われたことを思い出す。だが、康介はそうしなかった。直後に、山田花子から連絡が来たからだ。こんなものの存在すら、すっかり忘れていた。
改めて、パケを間近で見てみる。これまで、大勢の人間を破滅させてきたものだ。だが、康介の目の前にあるものは、ただのゴミにしか見えない。
以前、この粉末をなめてみたことがある。恐ろしく苦い。頭がスッとなる感覚は確かにあった。だが、中毒になるほどのものではない。少なくとも康介にとって、やめられなくなるほどのものとは思えなかった。
普段なら、確実にそれを捨てていただろう。万が一の事態を想定した場合、こんなものを家に放置していてはいけないのだ。
だが、今の康介は全てが面倒だった。これについて考えること自体が億劫だ。もはや、どうでもいい。
ビニール袋の中に指を入れ、ほんの少量をなめてみた。苦い。頭がスッとなる独特の感覚に襲われる。しかし、それで終わりだ。効いているのかいないのか、それすらわからない。
もう一度、ビニール袋に指を入れた。先ほどよりも、多めの量をすくいとる。
指をなめた。舌の上で、さっと溶けていく。ただただ苦いだけだ。確かに、頭は先ほどより働くようにはなってきている。だが、効いているのかどうなのか、未だにわからない。
次の瞬間、康介は勢いよく立ち上がっていた。
さっきまでは、立ち上がることすら面倒だったのだが、本人はその事実をすっかり忘れている。鬱状態だったことすら、彼の頭からすっぽりと抜けていた。今の康介は、このビニール袋に入っていたものが効いているのかいないのかわからない……という疑問に頭を支配されており、その他のことなど頭の片隅にも浮かばない。
これこそが、覚醒剤の効果なのである。既に、効き目は発揮されていた。他人から見れば、どうでもいいような疑問に頭を支配され、そのことを解決せずにはいられない……だが本人には、己が覚醒剤に支配されているという意識はなかった。
康介は、床に落ちていた缶コーヒーを拾う。パケの中の粉末を全てコーヒーに入れ、一気に飲み干した。
その途端、目の前が明るくなったような感覚に襲われた。頭はすっきりし、視界がクリアになっている……かのような気分だ。
ふと気がつくと、父と母が突っ立っている。無性に腹が立った。
「何しに来たんだよ! 失せろ!」
怒鳴りつけたが、完全に無視している。あらぬ方向を向いたまま、銅像のように立っている。
その姿を見た途端、感情のリミッターが外れた。凄まじい勢いで殴り、蹴飛ばす。だが、手応えはない。
「てめえらのせいで、俺はこうなったんだよ!」
喚きながら拳を振り上げた。だが、その時になって状況に気づく。父も母も、既に消えていた。しかも、振るった拳は壁に当たっていたらしい。手から血が流れている。
「クソが!」
もう一度、虚空に向かい怒鳴りつけた。と、床の上にホコリを見つけた。ほんの僅かな量だが、異様に気になる。そのまま見逃してはおけない。康介は、ホコリを指でつまみ上げてゴミ箱に捨てた。
その時、床にキラリと光るものを発見する。覚醒剤の粉末だ。飲もうとした時、床の上にこぼしてしまったのだろう。
ほんの僅かな量である。砂粒程度のものが、三粒ほど落ちているだけだ。掃除機で吸ってしまえば終わりである。
にもかかわらず、康介はそうしなかった。掃除機の中を調べられたら……という不安を感じたのだ。慎重に指ですくい取り、ティッシュに包む。そのティッシュに、火をつけ燃やした。これで、証拠は消滅したわけだ。
だが、すぐに別の不安が襲う。もしかしたら、まだこぼれているかもしれない。ガサ入れされた時、こぼれた覚醒剤を発見されたら終わりだ。康介は血走った目で、床の上を探し始めた──
傍から見れば、狂っているとしか思えない行動である。そもそも、床に落ちた砂粒程度の覚醒剤など、麻薬取締局の捜査官でもいちいちチェックしたりしないだろう。
だが、本人は至極まともなつもりでいた。これこそが、覚醒剤の怖さである。客観的な判断力が消え去り、目の前の些細なことに頭と体の全てを支配されてしまう。こうなると、薬が切れるまで同じことを繰り返すだけだ。
厄介なのは、覚醒剤が効いている間は空腹にもならないし眠くもならないことだ。異様な集中力を発揮し、目の前のことを続けてしまう。こうなると、もはや誰の手にも負えない。あとは、薬が切れるまで放っておくしかないのだ。
康介は、異様な表情で床の傷や汚れをチェックしていた──
気がつくと、朝になっていた。窓から、陽の光が射してくる。
その頃になって、ようやく薬が切れてきた。空腹を覚え、よろよろと立ち上がる。考えてみれば、この二日間なにも食べていない。
次の瞬間、彼はキッチンに行った。蛇口を捻り、流れる水を飲む。最悪の気分だった。自分は何をしているのだろう……。
もっとも、最悪の気分で済んだだけでもマシなのだ。パケに残っていた覚醒剤をコーヒーに全てぶち込み、一気に飲み干している。しかも、朝から何も食べていない状態で、そんな無茶をしたのだ。心臓の弱い人間だったら、そのまま死んでいてもおかしくはないケースである。体が丈夫な康介だったからこそ「最悪の気分」の一言で済ませられたのだ。
買い置きのカップラーメンを作り、恐ろしい勢いで平らげる。それでも満たされない。異様な空腹を感じていた。
これも、覚醒剤の副作用である。効いている間は食欲が消えているが、効果が切れると凄まじい食欲に襲われガツガツ食べてしまう。結果、ダイエットにおけるリバウンドと同じ現象が起きることもある。基本的に、覚醒剤の常用者は痩せているというイメージだが、中には力士のごとき体格の者もいる。そういう者は、覚醒剤による断食状態からのリバウンドを何度も繰り返した結果、そのような体になってしまったのだ。
今の康介は、まさにその状態である。食品はないかと室内を見回した時、スマホにメッセージが届いていることに気づいた。
ひょっとして、若松かもしれない。新しい仕事か。それとも、この前話していた人物の件か。いずれにしろ、こんな状態では顔を合わせたくない……などと思いつつ画面を見てみる。
直後、その表情が硬直した。メッセージの贈り主は若松ではない。
山田花子だった。
(明日、ちょっとだけ会えない?)