第一話「異世界転生やってみた」
『面白いことなんて一つもない人生だった。
この世に生を受けて25年と少し。俺、神田太一二十五歳独身フリーターはスマフォのスヌーズ機能に苛々しながら目を覚ました。
平べったい煎餅布団を蹴り飛ばし、大欠伸をかまして枕の脇に放り投げられたスマフォを手に取る。
八時十六分。バイトの時間まで後44分。
そろそろ着替えて出ないと間に合わない。立ち上がり際に足元の漫画本を蹴り飛ばし、洗面台の鏡の前で顔を洗う。
無精髭が少し目立ってきたが、あと一日くらいなら誤魔化せるだろう。店長にぐちぐち文句を言われるのも面倒だが、気にしても仕方がない。時間もないし。
部屋干し中のバスタオルで顔を拭き、掛け布団を踏みつけて窓際のハンガーにかけっぱなしの服に着替える。
煙草と百円ライターと財布とスマフォをポケットに詰め込んで、玄関の鍵をかけた。
階段を下りながら煙草を取り出して一本口に咥える。
火をつけて吸い込めば、寝起きの頭にニコチンがじんと染み渡った。
三口ほど堪能してからスマフォを取り出してSNSをチェック。どこもかしこも下らない話題ばかりで辟易する。もう少しマトモなことに頭を使えないのか。
SNSを閉じ、スマイル動画を開く。最近のお気に入りはbeamという投稿者だ。ファミコンなどのレトロなゲームのRTAを投稿しているが、これが面白い。
煙草を吸うのも忘れて夢中になっていると、誰かの声が聞こえた。
「おい、君! 危ないぞ!」
気づいた時にはもう遅かった。
目の前まで迫るトラックに頭が真っ白になって身動き一つ取れない。
事態を脳が理解した時には、恐怖に顔を歪める運転手の親父の顔が見えるくらい近づいていた。
――なんでお前がビビってんだよ。
何かが体にぶつかって、ふわりと浮くような感覚がした。
痛みを感じなかったのは、幸運だったのかもしれない。
この世に生を受けて25年と少し。俺、神田太一二十五歳独身フリーターはスマフォのスヌーズ機能に苛々しながら目を覚ました。
平べったい煎餅布団を蹴飛ばそうとして、足が宙を切る。
頭がはっきりしないまま目を覚ますと、そこは真っ白な空間だった。
寝ぼけているのだろうか、と思う。床に手をつけば、指に何かがあたった。
スヌーズボタンつきのスマフォ。液晶が見事に割れていた。
壊れているのは明らかで、目覚ましを鳴らせるとはとても思えない。
状況が飲み込めず混乱していると、頭に直接響くような声がした。
――目覚めたのですね、神田太一――
慌てて周りを見回す。
一面真っ白な空間には人の姿などどこにも見当たらない。
とうとう頭がおかしくなったのかと諦観していると、
――この度は申し訳ないことをしました――
その声と共に眩いばかりの光が放たれ、思わず目を閉じる。
瞼の裏に感じる光が消えてからおそるおそる目を開くと、老人にも少年にも、男にも女にも見える良く分からない白い布をまとった人物が浮かんでいた。
誰か分からず訝しむ俺にかまわず、目の前の誰かは話しかけてくる。
――貴方の死は、予定外のことでした。つきましては、蘇る機会を――
我慢の限界だった。
「おい、ちょっと待てよ。あんた誰だ? ここはどこだ?」
俺の質問に、目の前の人物は顔色一つ変えずに答える。
――ここは所謂死後の世界。私はあなた方人間が神と呼ぶ存在です――
俺は思わず噴き出した。
「死後の世界? 神だって!? すごいな、まるで出来の悪いラノベだ」
――真実です。貴方は死にました――
俺は顔を引き締め、神を名乗った誰かを睨みつける。
「別に死んだことを否定しちゃいないさ。あんたが神だってのが胡散臭いだけだ。で、続きはなんだ? 予定外の死だから異世界に転生でもさせてくれるのか?」
嘲るように言うと、神を名乗る誰かは頷いた。
――そうです。理解が早くて助かります――
あまりの展開に顔が少し引きつる。
「……マジかよ。事実は小説より奇なりつっても限度があるだろ」
――ただし、条件があります――
「条件?」
まだ受けるとも何とも言ってないが、ひとまず話を聞いておく。
――貴方の死は、多分に自業自得なものでした。因果応報とも言います。歩き煙草に歩きスマフォ、前方不注意に点滅した信号を渡る……言い逃れが出来ません――
「神のくせに滅茶苦茶言いやがるな。人間の倫理や法律に縛られるのかよ」
苛立ち混じりに吐き捨てると、神を名乗る誰かは初めて目を開いた。
――人間の管理をしているのだから当然です。人間とて、家畜のストレス管理は行うでしょう。それと同じこと――
「俺が聞いた話だと、家畜に神はいないはずだがな」
古いゲームの名言を引用してみせると、神を名乗った不審者はまた目を閉じる。
――如何に予定外で調整が必要とはいえ、自業自得の貴方の死を何の代償もなく蘇らせるわけにはいきません。ですから、相応の試練をこなしてもらいます――
「試練、ねぇ。俺に何をさせようって?」
肩をすくめて鼻を鳴らす。
――世界を救ってもらいます。それも、できるだけ早く――
不審者の言う事が理解できず、俺は首を傾げた。
「……はぁ?」
――これから貴方には、幾つかの世界をめぐってもらいます。それらの世界を、決められた時間内に救って頂きます――
「おいおいおい待てよ、滅茶苦茶言ってんな!?」
世界を救う、というのも滅茶苦茶なら、制限時間つきというのも理不尽極まる。
当然の文句を、神を名乗る不審者は華麗にスルーした。
――貴方に断る権利はありません。途中で死ねばそこまで、全ての世界を救えば蘇らせましょう――
「なんだよそれ、おい、まさか」
ふと頭によぎるものがあった。
最近お気に入りの動画。
「それって、俺にRTAしろってことか!? しかも一度死ねばGame Overで最低クリアタイムまで設定されたやつを!? 冗談じゃねぇぞ!!」
動画を見るのは好きだが、実際にやったことはない。
人生初のRTAが自分の命を懸けたものとかおふざけが過ぎている。
――安心なさい。それぞれの世界の情報は、最初に全て渡してあげます。必要ならいつでも閲覧できるようにもしておきますので、役立ててください――
「ますますRTAじゃねぇか! データだけもらってもチャート構築時間がねぇんじゃきつすぎんだよ!! おい、勘弁してくれよ!?」
俺の悲鳴も、神を名乗る不審者には届かなかった。
――文句なら、普段の自らの生活態度に言って下さい。それでは、最初の世界へ送ります――
「やめろバカ、ふざけんな! 安定性とタイムのバランスとか、考えさせろぉ!!」
白い空間に俺の悲鳴が響き、意識が遠のいていく。
あぁ、多分次に目覚めたらもう計測時間始まってるんだろうな。
そう思いながら、俺は絶対に神を一発殴ろうと心に決めた―― 』
※ ※ ※
バタン、と力任せにノートパソコンを閉じる音が教室に響いた。
居残っていた生徒の視線が一点にそそがれる。
窓際の席の後ろから二番目。
短く刈り込んだ髪と厚めの胸板が特徴的な男子生徒は、周囲を一瞥してから席を立つ。
椅子が床をこする音を合図に、生徒達の視線がそらされた。
「おぅ、どうしたんだ?」
「あぁ、ちょっとな」
声をかけてくるクラスメートを横目に彼は教室から出る。
「いつものやつか? ほどほどにしとけよ」
「あぁ……悪いな」
気にすんな、とクラスメートは笑って手を振ってくれた。
ノートパソコンを脇に抱えた男子生徒――園村一喜16歳東山高校2年3組は軽く手を振り返して早足に廊下を歩く。
足取りから苛立っているのが実に良く分かる。そのせいか、すれ違う人の誰もが彼を見ては距離を開けていた。
廊下を進み吹き抜けの渡り廊下を過ぎ去り、図書室などがある棟に移って二階へ。一番奥まった部屋の前で、園村一喜は足を止めた。
プレートを見上げる。薄汚れた文字で、第二文芸部、と書いてある。
視線を下げれば、ドアのガラス越しに中が少し見えた。
長く美しい黒髪に目が奪われた。
ガラス越しにさえ分かる、さらさらと流れる腰まで届く長髪。整った横顔は憂いを含んで、見る者の胸を貫く。
100人いれば80人が美人だと答えるだろう少女は、一人ぼっちで手元に視線を落としていた。
何かを読んでいるのか、書いているのか。外見からして文芸部に相応しい少女と無人の部屋は似合いすぎて、園村一喜に溜息をつかせた。
篠宮佐織、16歳。東山高校2年1組、第二文芸部部長。
東山高校のクラス分けは成績順に行われている。1組から4組までは文系、5組から8組までは理系。
即ち、2年1組とは文系トップの成績優秀者が集められたクラスということだ。
一喜の3組とは結構な開きがある。
そういうところも、一喜の溜息の原因ではあった。
呼吸を整え、理不尽への怒りで真っ赤に燃える手をドアの取っ手にそえて、力いっぱい開け放つ。
「オラァ! 篠宮ァ! 話がある!!」
ずりっ。
何かが滑る音に、一喜の視線が篠宮佐織の手元に移る。
習字をしていた。
墨の入ったすずりに、下敷きの上の半紙とそれを留め置く文鎮。
『冠雪』の文字が、無残な姿となっていた。
「……」
無言の空間が出来上がり、微妙に重苦しい空気が立ち込める。
やや間があって篠宮佐織が立ち上がり、筆を持ったまま一喜に近づいて、
「生き字引の筆っ!!」
「うぇっ!?」
頬に『草』と書かれ、垂れた墨が学ランに落ちる。
墨汚れは落としにくく、こんなことをされた日には全国のお母さんがお怒りになること間違いなしである。
「何するんだ篠宮!?」
「それはこっちの台詞です。いきなり大声出さないで下さい」
佐織は続ける気をなくし、手早く片づけを始めた。
書き損じた半紙で軽く筆を拭き、古紙で包んで捨てる。すずりに古紙を詰めて墨を吸い取らせながら、足元のバケツで筆を洗った。
「それは悪かったが……なぁ墨を取る紙、俺にもくれ」
「いいですけど、余計に汚くなりますよ」
一瞬一喜は迷い、
「……じゃあいい。それより、話だ! お前に話がある!」
「はいはい。何ですか?」
道具を直しながら、気のない素振りで佐織が尋ねる。
一喜はノートパソコンを抱える腕に力を込め、
「お前の言うとおり異世界転生ものを書いてみたが、どうにもつまらん! こんなんでいいのか!?」
「……私に言われても」
頬杖をついて呆れた目をする佐織に、一喜のボルテージは上がっていく。
「大体、お前のアレはなんだ!? 本当に小説か!? 日記か!? 毎度毎度思うが、なんで俺の作品が底辺でお前のアレがランキング常連なんだよぉ!!」
脇に抱えたノートパソコンごと机を殴りつけ、部屋に一喜の慟哭が響き渡る。
何を隠そう、この篠宮佐織は売れっ子ネット作家である。書籍化もしており、続きを待望される『先生』なのだ。
万年底辺作家の一喜とはえらい違いである。投稿を始めてから一年と半、ブクマは50を越えたことがなく、ポイントも三桁に到達したことがない。
怒りと嘆きと悲しみと、僅かばかりの嫉妬のこもった声が反響する。
外からは野球部の掛け声とボールを打つ音、吹奏楽部が鳴らす楽器の音色。
放課後の音が、グラウンドからも離れた第二文芸部の部室にも届いている。
「……とりあえず、読ませて下さい」
「……おぅ」
半ば責任感で佐織はノートパソコンを受け取って開く。
再び無言の空間になった第二文芸部内に放課後の音が入ってくる。
ばっちこーい、ふぁいおー、一年走れー、ちゃんと投げろノーコン、
パッヘルベルのカノンと翼をください。
遠く響くチャイムの音が、誰かを急きたてていた。
ノートパソコンが、ぱたんと閉じられる。
「ごめんなさい、私が悪かったです」
「なんだその言い草はよぉ!?」
声を荒げる一喜に小さく首を振り、佐織は心底辛そうな声色で告げた。
「才能……ううん、違いますね、才能なんて言葉で逃げちゃダメですよね」
「どういう意味なんだよ、オイ!?」
悲しみを湛えた瞳で黒髪の美少女が一喜を見上げる。
普通ならそれだけで一発で恋に落ちそうなものだが、状況が悪すぎた。
「だって、自分で読んでみてくださいよ。これ面白いですか?」
「だからつまんねぇっつってんじゃねぇかよ!」
悲壮な嘆きに佐織が小さく溜息をつく。
「異世界転生とか、それ以前ですよね? 大体この主人公、何ですか? 誰がこのキャラを気に入るんです?」
「お前に言われたとおり、出来る限り多くの読者が感情移入できるキャラをだな、」
キッと睨みつけられ、一喜の口が動かなくなる。
整った顔立ちだけに、鋭い目つきをした時の迫力も中々のものだった。
「これのどこが!? 最っ悪じゃないですか! 誰がこんなキャラに感情移入したがるんです!?」
「いや、だって25歳フリーターってそんなもんだろ?」
「誰がリアルを追求しろって言いました?」
「いやだって、リアリティは大事だろ?」
「リアルリアリティとリアリティの区別くらいつけて下さい」
「横文字多くて何言ってるかわかんねぇよ!!」
悲鳴みたいな一喜の叫びが部室に響き、
「大体なぁ! 引きこもりとかフリーターとか会社で嫌われてる社会人とか、大体どうしようもないクズに決まってるだろ!? そうじゃなきゃもっとマトモに生きてるし、友達だっているよ! それが超能力手に入れて異世界でウッハウハして何が楽しいんだ!? クズが活躍するのがいいのか!? だったらこの神田太一でもいいだろうよぉ!」
「そんなわけありませんよ」
こうなったら佐織の溜息程度では一喜は止まらない。
マシンガンのように言葉が次から次へと飛び出てくる。
「そもそもがだ! 自分が努力して手に入れたわけでもない能力でイキる奴なんて性格悪いに決まってるだろ!? いや、努力したってイキる奴は性格悪いけど! それに、物語の主役は現実でも血筋があって能力も高くて性格も良い奴だろ? 凡人だけど特別って、それもう無茶だから! もう既にその一文で矛盾してるから!」
「だから、現実のコピーしてどうするんですか」
佐織の一言に一喜の口が止まる。
前に垂れてきた髪を後ろに流し、天に選ばれし黒髪の美少女が反撃する。
「現実と同じなら、空想の価値ってどこにあるんですか。ノンフィクションじゃないんですから。桃太郎に桃から人が生まれるわけないって言うんですか?」
「いや、あれは……桃から生まれた特別な存在だから鬼を退治できるわけで……」
ジト目で見つめられ、一喜は口をつぐむ。
「現実にないことを含めて、夢や教訓や思想を詰め込むのがお話ですよね。矛盾があろうがなかろうが、楽しい物語を提供できたらそれが一番じゃないですか」
「……まぁ、そういう考えもあるな……」
目を逸らして呟く一喜に、佐織は嘆息してノートパソコンを開き直す。
「でも、発想は良いんじゃないですか。制限時間つきで世界を救うのとか。もう既にありそうな気もしますけど」
褒められたので調子付いたのか、一喜が身を乗り出してくる。
「だろ!? RTAを取り込もうと思ったのは天才的な閃きだと思ったんだよなぁ」
「あぁ、そうです。RTAって何ですか?」
尋ねる佐織に、底辺ネット作家は上からマウントの姿勢を取った。
「そんなことも知らないのか? Real Time Attackの略でな、ゲームスタートからクリアまでの現実時間の計測を行うんだ。この名称は元々東京大学の――」
「分かりましたありがとうございます」
最後まで言わせず、話を遮った。
やや不機嫌な一喜をよそに、佐織はタッチパッドを操作する。
「それにしても、相変わらず細かいとこ問題だらけですよね。スマホをわざわざスマフォって打ったり、メチャクチャとかいわゆるとか面倒なのを漢字表記にしたり」
「スマートフォンの略なんだからスマフォだろ。それに、ちゃんとした漢字表記があるものはそうするのが正しい文章の書き方だ」
「読み辛い漢字が並んでいるのって読む気が失せませんか?」
「読み辛い漢字なんてどこにもない! 大体、このくらい読めないなら勉強しろ!」
佐織はタッチパッドから手を離し、
「……今、矛盾しましたね?」
図星を突かれた一喜が喉を詰まらせるのを、天に二物を与えられた少女が悪戯そうに笑った。
口を閉じたまま一喜は机に近づき、
バタン、とノートパソコンを閉じた。
「お前みたいな何もかも持ってる奴に俺の気持ちなんか分かってたまるかー!!」
引っぺがすようにノーパソを抱え、涙目になりながら走り去る。
ドアのところで立ち止まるのが、なんとも言えず間抜けだった。
「ちくしょーー!!!! 覚えてろーーー!!!!」
ドアを開け放ち、涙を散らせて一喜は去っていく。
その後姿を眺めながら、篠宮佐織は溜息をついた。
こっそり取り出したスマホには、とある小説投稿サイトの『作者・園村一喜』のページが表示されていた。