第五百四十一話・毀誉褒貶、禍福門なし唯人の招く所(世界がゆっくり巻き戻り、そして再び動き出す)
――地球
破壊神の残滓が消滅し、神楽たちもようやく緊張の糸が解け始めたとき。
小春はただひたすら、浩介が帰って来るのを祈っている。
それは彼女だけではない、その場に居合わせた祐太郎も、雅も、そして神楽すら、彼の帰還を望んていた。
だが、そんなとき、突然雅の深淵の書庫のモニターすべてに真っ赤なアラートの文字が浮かび上がる。
――ヴィーン、ヴィーン……
「こ、これは一体どうしたっていうの、深淵の書庫が何かを感知しているの?」
次々と浮かび上がる文字、そして外の状態を確認すべく深淵の書庫を制御しようとするものの、今の深淵の書庫は雅の意志を無視して暴走している。
そして神楽もまた、目の前に広がる金色に輝く龍脈から、何か異変を感じ取った。
「……ちょっと待ってください……龍脈が震えています……」
「え、それってどういうことだ?」
「わかりません。ですから、今から私は龍脈と同期し、今一度その流れを感じ取って見ます……」
そう告げるや否や、神楽は両手で素早く印を組むと、その場で静かに瞳を閉じる。
そして彼女の肉体から魂を切り離すと、目の前に広がっているマナの中へと意識を溶け込ませていった……。
………
……
…
龍脈と霊脈。
前者はマナの流れ、後者は星の魂の流動。
神楽はマナの中に溶け込むと同時に、そばを流れる霊脈にも意識を傾ける。
そこには、この星で亡くなった者たちの魂が溶け込み、やがて訪れるであろう輪廻転生をじっと待っている。
あるものの魂は星の一部となり、またある者は冥府へと誘われ、新しき生を受けるべく魂の修練を受ける。
そして災禍の赤月により亡くなった人々の魂も、この霊脈を流れている……筈であったのだが。
『………いったい何が起きたというのですか? あれだけ消耗していた龍脈が活性化している? いいえ、元の力を取り戻しているのですか? それに霊脈からは、悲しい魂を感じられない……あれだけ大規模な転移現象が発生し、魔族が暴走したというのに……これはまるで』
災禍の赤月など無かったような……。
そう呟いた時、神楽は今一度、意識を集中する。
星の全てに意識を溶かし込み、その眼で、その肌で世界を感じようとしている。
そして、神楽は理解した。
ゆっくりと意識を集めると、龍脈洞にて待っている雅たちの元へと魂を還した。
………
……
…
――龍脈洞
ガバッ
意識を取り戻した神楽は、自分の周囲で心配そうな顔をしている一同を見る。
「神楽さま、一体何が起こっているのでしょうか」
「何か見えたのですか?」
「私の深淵の書庫では、まだ外の状況も何も感じ取ることができないのです……教えてください、何か起きているのですか?」
小春が、祐太郎が、そして雅がカグラに問いかける。
そこでようやく、神楽も落ち着きを取り戻し、静かに話を始めた。
「世界が……修復されています。それも、災禍の赤月など無かったかのように……」
「え? それってどういう事でしょうか?」
「修復って、何処の誰にそんなことができるって……ああ、そういうことか」
「まさか、乙葉くんが?」
喜びのあとにやってくるのは悲しみ。
世界が修復されたことは喜ばしいのだが、そのために乙葉浩介がまた無茶をしたという事は、その場の全員が理解した。
「断定はできません。ただ、私が龍脈と霊脈に触れて感じたこと、そこから見た世界は、災禍の赤月により世界が崩壊する直前。そうですね、鏡刻界との転移現象が起こる直前まで、世界が【巻き戻った】ように感じます」
「それじゃあ、また破壊神の残滓が出現するっていう事か?」
「それはありません。封じられし破壊神の身体の一部と残滓は、乙葉浩介と共に虚無に飲み込まれています。そこは、いかなる状況にも干渉されない場所……たとえ世界が巻き戻されていても、そこに飲み込まれたという事実は決して覆ることは無いでしょう」
つまり、世界は破壊神の残滓の脅威から逃れた。
災禍の赤月もまた、消滅した。
巻き戻された世界では、転移現象により巻き込まれて死亡した人々は存在しない。
それはつまり、世界そのものの運命を巻き戻されたことに他ならない。
「……それってつまり……乙葉君は……帰ってこれないっていうことですよね……」
破壊神の残滓と共に虚無に飛び込んだ。
この事実は巻き戻ることは無い。
それに気が付いた小春は泣いた。
何もかもが平和となった世界で、彼女とその仲間達だけが、彼の為に泣いていた。
「……虚無にいるオトヤンを助ける……」
いつしか、祐太郎がそう呟く。
そして乙葉から共有権を得ている『カナン魔導商会』を起動し、そこに乙葉を助ける何かがあると感じていた祐太郎は、カナン魔導商会を起動しようとする。
「どうやって?」
「以前……あの商品ラインナップの中に、異空間を移動できる巨大戦艦というのを見たことがある。それがあれば、虚無とやらまで飛び込んで、オトヤンを連れて帰ってくることだって……畜生、カナン魔導商会すら消滅しているっていうのかよ」
必死にカナン魔導商会のメニュー画面を開こうとするのだが、まったくといっていいほど反応がない。
まるで、そんなものは最初から存在していなかったかのように。
「神楽さま……乙葉君を、彼を助ける方法はないのですか……」
「分からない。今はそうとしか言えません。ただ、私もいま。このまま彼を見殺しにすることなんてできません。彼は、私が見ていた『破滅の未来』を書き換えた存在。私の力を持って、全力で彼を助ける方法を探しましょう……だから、今は体を休めてください。いくら世界が巻き戻っていても、この場にいる私たちにはその影響はないようですから」
神楽が感じていたこと。
世界が全て巻き戻っているのなら、ここに彼女たちは存在していない。
それがいるという事実、そしてこの疲労感。
あきらかに、この場にいる彼女たちは『巻き戻り』の影響を受けていない。
――フゥン
「深淵の書庫が戻った? え、深淵の書庫、現在の世界の様子を映し出してくたさい」
先ほどまで真っ赤な文字が走っていた深淵の書庫。
だが、それが突然元の状態へと戻っていった。
「瀬川先輩、北海道は、日本はどうなっていますか!!」
「世界各地の状況も教えてくれ!!」
小春が、祐太郎が涙を粉がしつつ叫ぶ。
神楽の言葉では、すべてが巻き戻っている。
ただ、それを目の当たりにしない限りは、まだ安心できない。
そう思っているのを察知した雅は、深淵の書庫のモニターを展開し、そこに世界の情勢を浮かび上がらせる。
そこには、元の世界が広がっている。
北海道の妖魔特区も、東京の国会議事堂も、その周りを歩いている人たちの姿もある。
サンフランシスコ・ゲートは未だ結界によって包まれているものの、それ以外には特段変化はない。
そこを訪れている観光客の姿もあれば、世界の各地で怒っていた転移現象の痕も何も存在していない。
世界は、元の姿を取り戻していた。
ただ、そこに乙葉浩介の姿はなかった。
〇 〇 〇 〇 〇
――札幌市・妖魔特区
あの、災禍の赤月事件から一か月後。
世界では、まるで何事もなかったかのように時が進んでいる。
町を行く人々も、学校に通う生徒たちも、いつも通りの何事もない、ありふれた日常を過ごしている。
ただ、そうではない者たちも中には存在していた。
「……ふむ、卒業したのか……それで、卒業とはなんぞや?」
ノンビリと札幌テレビ城下で甲羅干しをしていた白桃姫が、突然訪れた築地祐太郎と新山小春にそう問いかける。
今日は二人の卒業式。
性格には、その場にいるべき存在であった乙葉浩介も卒業していたはずである。
だが、巻き戻りの結果、乙葉浩介の立ち位置は【行方不明】という状態に書き換えられている。
それでも家族の意向で卒業は出来たものの、クラスメイト達の殆どは彼がいない卒業式をやや寂しく感じている。
「まあ、高校生で無くなったということかな。そして大人に一歩だけ近づいた」
「はい。そんな感じです。私は来月からは北海学園に入学しますし、築地君は北大に入ります。瀬川先輩の後輩になるということです」
「ふうむ、まあ、そういうものなのか……」
白桃姫はごろりと体勢を変えて立ち上がると、パチンと指を鳴らして瞬時に衣服を着替える。
「それで、乙葉は見つかったのかや?」
「現在、カグラさんが儀式による位相空間探査を行っているそうです。ですが、虚無の中を見ることはできないらしく、なにか方法がないかと手探りで調べているそうです」
「俺は入学式が終わり次第、休学届を出してプラティ師のところにいき、アトランティスで虚無に向かえるかどうか尋ねるつもりだ」
「アトランティスとはまた……中間世界故の、無茶というところか」
そうは呟くものの、流石の白桃姫でさえアトランティスで虚無へと向えるのかどうかは分からない。
試す価値はあるが、それで万が一にもアトランティスがせ戻れなかったとしたら、それはまた悲劇を繰り返すだけ。
それゆえに、祐太郎もプラティに話を聞くところから始めるらしい。
「ええ。可能性があるかどうか、そこからです」
「有馬博士は、今回はさすがに不可能だと匙を投げたそうです。虚無が存在する場所は世界のどこか、それも、この地球のどこかではなく【創造神によって作られた世界のどこか】ということだそうでして、神のみぞ知るという時点でダメだったそうです」
そう呟く小春だが、それほど落ち込んでいるという素振りはない。
「なあ小春や……一番落ち込んでいるであろうおぬしが、そうでもない理由はなんじゃ?」
「はい……神聖魔術の一つに、【神託】というものがありまして。実は治癒神シャルディさまから、直接ですが言葉を頂きまして」
「ほうほう、それはまた……」
そのシャルディの言葉曰く。
『乙葉浩介は、そのうち帰るんじゃないかしら?』
というあまりにもあやふやであいまいな言葉であったらしい。
だが、その神託を聞いて、小春もまた一つ確信した。
乙葉浩介は生きている、そして帰って来る。
それはすぐにではないものの、必ず帰ってくるという事。
可能性が0から100に変化した、それで十分である。
それを聞いたからこそ、祐太郎は迎えに行こうと考えた。
それを知っているからこそ、神楽は虚無への道しるべを探していた。
それを理解したからこそ、自分たちはいつも通りに生きようと雅が皆に提案した。
「……ということなのです。だから、私は乙葉君が帰って来るのを待っているんです」
「まあ、今から帰ってきても、後輩になるんだけれどなぁ……」
乙葉浩介の大学入学は、本人不在のため出来なかった。
帰って来たとしても、来年度は一から受験しなくてはならない。
それでもいい。
帰ってきてくれるのなら。
「全く……あ奴はいつ頃帰ってくるのやら」
「まあ、早いところ帰って来てもらわないとなぁ ……それじゃあ、俺たちはこれで」
「また明日にでも来ますので!!」
「よいよい、来たいときに勝手にくるがよいぞ」
そう笑って祐太郎たちを見送る白桃姫。
そして彼らが帰ったのを確認してから、札幌テレビ城の横にそびえる精霊樹へと近寄る。
その太い幹に静かに手を当てると、小声で祝詞を唱え始める。
「白き翼と黒き刃、24の星の巡りと12神の恩寵、古き魔皇と先代魔神ダークの言葉に連なれ。今、我が前にその力を開放し、新たな破壊神であるピク・ラティエの名のもとに、虚無を映し出さん……」
世界を司る魔神ダーク。
それが消滅したことにより、世界は新たな魔人を選定する。
折りしも、ピク・ラティエは新たな魔人が選定されるまでの責務を負うことなり、暫定魔神・ピク・ラティエへと進化していた。
そしてかつて乙葉浩介と魂の器で繋がった縁もあり、彼女には虚無の向こうにいる乙葉を見通す目が備わっていたのである。
彼女が祝詞を唱えたのち、小さな鏡が浮かびあがる。
そこには、暗い空間をゆっくりと漂う魔導鎧クリムゾン・ルージュと、その中で眠っている乙葉浩介の姿が映っていた。
「……すべてを失って、眠っているか……うむ、この流れでは戻ってくるのはそう遠くはない。が、それを妾が告げることは出来ぬゆえ……妾は、おぬしの代わりに彼らを見守ることにしよう」
パン、と手を叩き鏡を消す。
祝詞を唱えてから今まで、世界は時を止めていた。
その静止した時間の中で、白桃姫は乙葉の安全を確認したのである。
「全く……管理神共よ、とっとと次の魔神を選定せぬか……」
そう苦々しく笑うものの、白桃姫もまた日常へと戻っていく。
小春が受けた神託、それは白桃姫が見た映像を治癒神に頼み込み、彼女に授けたものであった。




