五頁:覚醒
童話研究会に一人残されたエリカは、手の中のビー玉を弄びながら嘆息を漏らした。
両親と伯母夫婦の事件の時、持っていたせいでビー玉には、いい思い出がない。
「これどうしろってわけ? 遊べってか? 子供じゃあるまいし……」
上着の右ポケットにビー玉を突っ込んでから、エリカは、部室の本棚を見回した。
「私の能力。ちゃんと自分を知って制御出来れば」
特別な力を誰も傷付けるためじゃなく、誰かを守れるために使いたい。
そのためにも、まずは自分を探す事。
この中にエリカのグリムハンズがあるという正太郎の言葉は、素直に捉えていい。
――だけど闇雲に本棚を探しても、きっと貴方は応えてくれない。
エリカは、目を瞑って、ひたすら体内に問い続ける。
あなたは、どこに?
あなたは、誰?
自身の底の底。普段意識すらしない領域への問い掛け。
今まで目を背けてきた。
背を向け続けた。
だからだろう。エリカの声がグリムハンズの意志に届く気配はない。
すねているのだろうか?
それとも呆れているのか?
確かに、あれほど疎んでいたのに、今更共に在りたいなんて身勝手な願いだ。
エリカがグリムハンズの立場ならワガママな主に辟易とさせられるだろう。
――それでも知りたい。貴方の事を。今更伸ばしたこの手をどうか取ってくれませんか?
問い続けていく内、時間の経過する感覚が薄らいでいく。
今自分が立っているのか、座っているのかさえ分からず、起きているのか眠っているのかも定かではない。
眼前に広がるのは、無限に続く虚無だった。
エリカは、察していた。ここが心の内に出来た深淵である事を。
長い年月をかけて心に穿たれたのは、一切の色を持たず、果てしなく続く空洞だ。
ここをいくら歩き回っても、探し物には辿り着けない。
エリカは、捜し歩くのではなく、両手を伸ばして待つ事にした。
ワガママな主が身勝手のために探してもグリムハンズは応えてくれない。
向こうが見つけてくれるのを待つしかないのだ。
――私は、これからも悩むかもしれない。
この手を取ってほしい。
――だけど約束するよ。もう二度と貴方を責めたりしない。
この腕で抱き締めさせてほしい。
――約束するよ。もう二度と貴方を一人にしない。
二人で一緒に歩くために。
――約束するよ。貴方と一緒に戦うって。
エリカの差し出す掌に、しんしんと輝く粒が降り注いだ。
――雪?
冷たくはない。むしろ温かだ。
掌に伝わる重みは増していく。
積もった輝きは、手の内で膨らんでいき、眩い七色の輝きと化してエリカを抱くように飲み込んでいく。
――あったかい。これって、あの時見た輝きだ。
狂おしい程の光の奔流は、エリカの意識を安息へと誘い、心地の良いまどろみに落ちていった。
――――――
エリカが瞼を開けると、紅の光が虹彩を痛め付ける。
先程まで感じていた光とは違う。童話研究会の部室の窓から微かに差し込む夕日であった。エリカの顔を狙い澄ましたように日差しが当たっている。
眩さに顔をしかめながらエリカは、ふと自身の両腕が薄い物を抱きしめている事に気付いた。
見やるとそれは、一冊の古びた絵本だ。
「シンデレラ?」
手にしていたのは、童話シンデレラの絵本。
表紙に描かれた金髪碧眼のお姫様が部室に差す夕日で紅に染まっている。
「懐かしい。そう言えば昔、お母さんがよく――」
女の子なら誰だって読んだ事のある物語だが、エリカにとっては、なるべく思い出さないようにしてきた記憶だ。
両親を焼き殺してしまう直前、母の膝の上で読んでいた絵本であるから。
「おひめさま!」
幼いエリカは、ビー玉を弄りながら天井辺りを漂う《《それ》》を指差した記憶がある。
青いドレス姿の女の子。ああなれたら素敵だなと、誰もが願う可憐なお姫様。
しかし両親には見えていないらしく、いくら訴えても絵本の事であると勘違いをしていた。
「お姫様だね」
「またシンデレラか。エリカは好きだな」
「あなた。タバコ」
「ああ。悪い」
両親には見えない彼女は、エリカを見つけると微笑んで手を伸ばしてくる。
エリカがその手を取ろうとした瞬間、視界が輝きに飲み込まれ、気付いた時には血の海ばかりが広がっていた。
「あの時のお姫様。あれはなんだったの?」
幼かった自分が両親を亡くしたショックから作り上げた偽りの記憶だとエリカは思っていた。
あの場にお姫様なんかいない。今までの常識なら、それで済むはずだった。
「まさか、あれがワード?」
そう考えれば色々と辻褄も合う。
正太郎は、ワードとの遭遇がエリカのグリムハンズが暴走した原因だと言っていた。
あの宙を漂うお姫様がワードだった可能性は高い。
「あの時、私は何をした?」
ワードと出会い、エリカの取った行動。
「事件の時と、今見た輝きは同じだった」
あの輝きの正体。
「どうして私は、シンデレラを?」
グリムハンズに語りかけながら目を開けた時、抱き締めていたシンデレラの絵本。
最初の事件の時にも読んでいたとは、都合が良すぎないだろうか?
偶然とするには、出来過ぎている。
「私のグリムハンズは、シンデレラ?」
思い至った瞬間、エリカの頭上で嫌悪感が渦巻いた。
天井を仰ぐと、霞のように朧な人型がこちらを見下している。
それは堪えがたい悪意の雨を注きながら、霞のような手を伸ばした。
右手か左手か、区別出来ないが、手であるらしいのは間違いない。
――殺される。
エリカの野性的な本能が警告を鳴らし、咄嗟に童話研究会から廊下に飛び出した。
このまま、あそこに居たら間違いなく殺される。そう確信させるだけの害意をあの《《何か》》は放っていた。
「今のってもしかしてワード? ならあれが連続失踪事件の?」
およそ尋常の存在ではない。
そして全身を射抜いた懐かしい嫌悪と恐怖。
この感覚は恐らく――。
「輝きの直前、あの時私が見たのも……あいつ?」
エリカは廊下を走り抜けて、突き当りの階段を全速力で下っていく。
前触れもなく童話研究会に出現した事から壁や天井はすり抜けられる。密室に隠れても意味はない。
学校に留まるよりも、外に出た方が安全だ。
階段を降り切り、玄関口に辿り着いたエリカは、下駄箱を素通りして上履きのまま校庭に飛び出した。
走りながら振り返り、背後を確認するもワードが追いかけている気配はない。
――振り切った?
エリカが抱きかけた安堵を破るように、全身を突き刺す害意の針。
正面に向き直ると、朧な人影がエリカの前に立ち塞がり、腕を振り上げていた。
――避けきれない!?
過ぎる致命の予感を裏付けるかのように異形の振るった腕は、人類の反射速度を凌駕していた。
しかしエリカの視神経は、その軌道をスローモーションのように捉え、脳の指令伝達を待たずに後方へ飛び退かせた。
鼻先を掠める剛腕は、直撃を受ければ鉄塊すら粉微塵にするだろう。
だがエリカは、冷静かつ高速で思考を回転させていた。
――今のが身体能力の強化……私の中にあるグリムハンズに近付いている証拠。
通常の状態では、絶対に躱せなかった一撃だ。
身体能力の強化がなされているのなら、恐らくグリムハンズの正体がシンデレラという推理は当たっている。
――問題は、シンデレラがどういう能力か……だよね。
エリカのグリムハンズの力は、今までの状況から推測するに、あの不思議な輝きと関係する能力。
しかし輝きという漠然とした単語では、一体どのような力なのか見当もつかない。
思案を続けようとするエリカだったが、朧な人影がそうさせまいと懐へ詰めてきた。
地面を蹴って左方向に逃れるも、人影は、間髪入れずに突進してくる。
「この!!」
エリカは、上体を右に捩じり、人影の突進を避けざま、相手の頭部と思しき部位に渾身の右拳を打ち込んだ。
打撃の感触はある。しかし人影は、怯みもせず両腕を振り回して、攻勢を緩めなかった。
この速度の攻撃を長時間、避け続けるのは難しい。
またいくら身体能力が強化されていても、素手での撃退が不可能なのも分かった。
今この場で、自分の能力に辿り着くしかない。
――何かヒントがあるはず。ヒントが……!?
ヒントなら正太郎が与えてくれた。
――ビー玉?
何故正太郎は、エリカにビー玉を渡してきた?
何の意味もなくビー玉なんて渡すだろうか?
ありえない。正太郎は、無意味な事をする人ではない。
――グリムハンズは、自分で気付かないと意味がない。認識・認知・心理。私へのヒント。
ヒントが指し示す物。
正太郎が気付かせようとしてくれている答え。
思案の切れ間に差し込まれる人影の腕がエリカの左頬を掠め、血の雫が中空に浮かんだ。
きっとエリカがもっとも忌避してきた記憶に答えはある。
大切な人達が粉微塵の血肉と化していくあの瞬間。
今でも時折堪えがたく吐き気を煽る事があった。
父と母を殺された時には同情されたが、二度目の伯母夫婦の時には、周囲の目が疑惑に変わり、三度目の保護施設の時、確信が籠っていた。
こいつは、化け物なのだと。
だから自分でも化け物だと思い、今まで向き合わずに、逃げ続けてきた。
記憶と戦う事を放棄してきた。
全てを失ったあの瞬間、輝きが踊る直前、そこに答えがある。
もう逃げたくないし、逃げてはいけない。
込み上げてくる涙と自己嫌悪を噛み殺し、エリカは記憶を掘り起こしていく。
輝きの直前、エリカが見た物。シンデレラに関係する何か。
嫌な記憶を思い出す必要はない。
忘れさせてあげる。
そんな声を執拗な攻撃を仕掛けてくる人影が囁いている気がした。
この腕で肉を引き裂いてあげる。
血をすすり、意識を狩り取ってあげる。
楽にしてあげるから、私の腕で引き裂かれなさい。
人影の攻撃精度は増していき、エリカは避け切れなくなっていた。
制服が裂け、ネクタイが千切れ、肩口の薄皮が寸断される。
「私のグリムハンズ」
ジリ貧の状況。
「ビー玉――」
極限の最中。
「ビー玉をどうする――」
エリカの思考にひらめきが灯った。
「ビー玉?」
最初の事件の時、エリカはビー玉を手にしていた。
――そうか。
伯母の時には誕生日プレゼントにビー玉をもらったし、保護施設ではおはじきで遊んでいた。
――事件を起こした時、常にガラスで出来た物がが近くにあった。
能力の発動にはガラスが必要なのだ。
「灰かぶり姫を象徴するのは、ガラスの靴!!」
正太郎が渡したビー玉。
事件の時、必ず手にしていたガラス製の物。
ガラスを操って戦うのがエリカのグリムハンズの能力。
瞬間、エリカの脳裏に浮かんだのは、血に塗れた自身の姿。
真っ白な無の大地に立ちつくし、鮮血で飾られたワンピースをふわりと纏っている。
右手の人差し指から血が流れて地面に落ちる寸前、煌めき輝く粒子に変じて周囲に漂っていった。
最初、両親を殺めてしまった時の記憶と受け取っていたエリカであったが、あの時の記憶とは異なっている部分が多い。
身体つきは、幼い時分でなく今の状態であり、自分の姿を第三者の目線で眺めている。
あの時は白いワンピースなんて着ていなかったし、エリカが居た場所はマンションの部屋で、無の大地ではなかった。
きっとこれは、エリカの内に居るグリムハンズが見せている風景だ。
核心に近付いた事でグリムハンズがより正確な答えに導いてくれている。
幻視から現実に帰還したエリカは、上着の右ポケットからビー玉を取り出すと、左頬から流れる血をビー玉に塗り付け、朧な人影へ投げ付けた。
「グリムハンズ!! 灰かぶり姫!!」
血の雫がビー玉に吸い込まれ、表面がひび割れていく。
ひび割れからふつふつとガラスの結晶がこぼれ出た刹那、爆発的に体積を膨張させてビー玉が破裂した。
無数の伸びる結晶は、槍のように研ぎ澄まされた先端で人影に迫り、その身を無慈悲に穿っていく。
人影は、金属の擦れ合うような奇声を上げ、朧な像を掻き消した。
人影の姿が消えるとともに、膨張した結晶も砂のように崩れていき、残されたのは校庭の土くれで輝く数粒のガラスの破片であった。
「や、やっつけた?」
自分に問いながらエリカは、
「ううん。倒せてない」
今の一撃で仕留めきれていない事を悟ったが追撃を仕掛けてくる様子もない。
思いがけない反撃に驚き、撤退したようだ。
一先ずの安心を得たエリカが胸に溜まった呼気を吐き出すと、後頭部をちりちりとした気配が射抜いた。
――誰かが見てる!?
エリカの背後にあるのは、彩桜高校の校門である。
誰かに見とがめられたのか。あるいは人影が再び襲ってきたのか。
エリカが警戒心を張り詰めながら振り返ると、
「エリカ!!」
「如月先生!?」
正太郎が校門から校庭の中央に居るエリカを目指して全速力で駆け寄ってくる。
「エリカ、大丈夫か!?」
「うん。でも先生出かけてたんじゃ?」
「学校の近くをぶらぶらしてんだよ。お前一人の方がグリムハンズと向き合えると思ってな。そしたらガラスが割れるみたいなすごい音が聞こえてよ」
「ワードが出ました。それと確信したんです。あれが連続失踪事件の犯人だって」
「一人にして悪かった。お前のグリムハンズ覚醒の気配にワードが惹かれて襲ってきたんだろうな」
「だけど自分の力に辿り着けたよ」
エリカの報告に、正太郎は誇らしげに微笑んでくれる。
「よくやった」
エリカとしても喜びたい場面だが、生憎とその余裕はない。
あのワードは、仕留め損なった。
でも正太郎と一緒なら今度こそ。
「先生。あいつ仕留められなかったと思う。どこに逃げ帰ったか分かりますか?」
「ああ、多分な」
「だったら、こっちから仕掛けようよ」
力を得た以上、責任は果たしたい。
灰かぶり姫と共に、
「もう何からも逃げない。立ち向かってやる」
世界の裏側に潜む怪奇達と戦う事を決意した。