五頁:兄と弟
我欲のために使えばグリムハンズは、主から離れていく。
世界を救う大義の名の元、如月正太郎は人を殺すために茨姫を振るった。
グリムハンズは、宿主が利己的な目的で人を殺そうとした場合、主を見限って離れてしまう。
だから正太郎は、美月を殺すと決めた瞬間からグリムハンズを失う覚悟をしていた。
自らがグリムハンズの器として不適当であると、力を失うに等しい愚かな人間であると思い続けてきた。
しかし体内の根源、およそ人の技術で観測出来ない奥底。
如月正太郎のどこかに存在している魂を抱くように茨の姫は、あり続けている。
彼女は涙を流し、大罪人を自負する男に寄り添い、主の大切な人の死を悼んで哀愁を分かち合っている。
――我が主よ。あなたが終わる時まで、私はあなたに寄り添いましょう。
――さぁ。眠りは、もう終わりです。
――戦いのために目覚めましょう。
――あなたの痛みは、私の痛み。
――あなたの痛みをイバラに変えて。
――私は、微睡む剣となる。
心地の良い眠気を振り切って正太郎が瞼を開くと、不安そうに顔を覗き込んでくる一人の少女が居た。
「アリス?」
彼女の名前を呼ぶと、アリスの顔に笑みが咲いた。
「今の声は、君かい?」
「声?」
アリスは、小さな眉間に皺を寄せたが、
「ああ。それはきっと、あなたの中の力の声よ」
クスリと笑んで横たわる正太郎の胸に右手を置いた。
「彼女があなたから離れる事はない。主想いの優しい茨姫は、これからもあなたと共にあり続けるわ」
「人殺しの俺と?」
「彼女は、そう思っていないわ」
アリスの声は、ぼんやりとした響きとなって、夢うつつの意識を蕩けさせていく。
「正太郎、大丈夫か?」
倉持の強張った声が鼓膜を揺らし、ようやく正太郎の意識は覚醒した。
病院のベッドの上で、傍らに居るアリスや倉持、コープランドに見守られている。
茨姫のファーストページに存在する致命的な欠点が、この状況を生み出した。
棘に触れたものを原子レベルに崩壊させる能力。
戦闘面においては最強と呼ばれるグリムハンズだが、イバラを一本発生される毎に能力解除の際、一時間の休眠を余儀なくされる。イバラ十本なら十時間。百本なら百時間。
さらにイバラを維持していられるのも三十分が限界で、最初のイバラの発生から三十分が経過すると強制的に能力が解除され、代償としての休眠が待っている。
強大な力に驕って世界を滅亡させかけた事と、使い勝手の悪さからウロボロス討伐以降使用しなくなり、およそ十年ぶりに経験する反動を、気合で殺しながら上体を起こした。
「ああ。もう平気だ」
正太郎が首を回しながらベッドから降りると、アリスはスケッチブックを開き、鉛筆を走らせた。
どうやら書いているのは街の地図らしく、
「ここに出ると思うわ」
彼女は、流暢な日本語でそう言って、スケッチブックを正太郎に手渡した。
「香宮町か」
彩桜市の隣、城島市の南端にある町であり、こちらも彩桜市同様、東京のベットタウンとして人気のある場所だ。
「ここにウロボロスが潜んでる。機会を待っているの」
一体何を?
尋ねようとした正太郎だったが、すぐに見当がついた。
ウロボロスが明確に意思を持って待つ機会は、予想が正しいければ一つしかない。
「俺との対決か?」
「そして世界をもう一度支配するために」
グリムの綴る情報は、世の真理であり、絶対的な真実。
一刻も早く討伐しなければ世界が滅亡しかねない。
そんな大事であるにも拘らず、倉持の関心はアリスに向けられていた。
「しかしお嬢さん凄いな。日本語上手なんだね」
「急にわかったのよ。言葉の意味もしゃべり方も」
「どういう事だい?」
倉持の疑問に答えたのは、正太郎であった。
「美月の記憶のおかげだ」
「記憶? 美月のって?」
「グリムのファーストページは、揺蕩う力を通じて感じ取った事を書く。絵や文字にしてな。ネクストページは、自分の魂とグリムの力を適合する任意の人物に語り継ぐ。継承させる事だ」
本来グリムハンズは、グリムハンズ側が宿る人間を選定する。
しかしグリムは、グリム自身が適合者を選ぶ事もあるが、現在のグリム保有者が任意の相手に継承させる事も可能である。
この任意の相手に能力を継承させる事が、グリムのネクストページだ。
「美月の魂がアリスを後継者として認めたんだ。だからこそアリスは、グリムを継承出来た。この一点が作家級と他のグリムハンズを明確に分かつ」
「後継者の条件ってなんだ?」
「心だよ」
正太郎は、自身の心臓を右手の親指で指し示した。
「誰よりも強い心だ。アリスがそうであり、美月もグリムの主として相応しかったんだ」
グリムの能力を持つグリムハンズは、常人であれば精神を崩壊させる程の膨大な情報量を受け止め、正気を保ち続けなければならない。
故に何物にも屈しない心の強さが継承の絶対条件となる。
数々のテストをクリアし、心の強さを証明した者がグリムの継承候補者として、ワード研究所のリストに載る事が出来る。
だが美月は、テストを受けた適合候補者ではない。
死した主から抜け出たグリムが適合候補者の中からではなく、グリム自らの意志で選んだ人間だった。まだ美月が五歳の頃である。
だからこそグリムは、自ら選んだ愛する主である美月の死の瞬間まで離れる事なく寄り添い続け、彼女の魂が後継者と認めたアリスに宿ったのだ。
「確かに。あの子は強い子だった。誰よりも……強かった」
懐かしさを噛み締めるように倉持が微笑し、しばしそうしてから改まった様子で正太郎に問うた。
「じゃあ、美月からグリムを受け継いだ彼女には、あの子の記憶が宿っているのか?」
「証明するわ」
アリスは、数瞬思案した後、
「正太郎は――」
正太郎を怪訝な瞳で見つめながら、
「十一年前……美月と裸で何をしているの?」
特大の爆弾を落としてきた。よりにもよって一番間の悪い記憶を引っ張り出してしまった。
喋れずとも日本語を理解出来るコープランドは苦笑し、倉持の視線は刀剣の切っ先のように鋭利だ。
「ねぇ正太郎? 何をしているの?」
男女の行為について、アリスにまだ教えるのは早い。
彼女に、どう説明すればいいのだろう。
「えっと、だな」
アリスの好奇心と倉持の殺気が痛い。
どう答えても怪我をするなら、いっそ口から出るに任せてみる。
「体操……かな?」
呆気にとられた表情からよく分かる。
二人とも、まるで納得していない。
特に倉持は、ふつふつと怒りが煮え滾り、溶岩のような顔をしている。
「如月、お前……」
「よく覚えてねぇなー」
この話題を続けるのは危険だと、正太郎の本能が囁いている。
はぐらかしてしまおうと決める正太郎だが、アリスは無慈悲に次弾を放ってきた。
「その日は……倉持の誕生日?」
「あの日か! あの日やっぱりお前ら!!」
――殺される。
このままだと、あの日の事を丸々暴露されてしまう。
妹がどんなふうに男と寝ていたのか聞かされて喜ぶ兄など居ない。
仮に居たとしても倉持がそういうタイプでないのは明らかだ。
これから死地に行こうというのに、気まずい思いを抱えて行きたくない。
「じゃあ俺は……香宮に行ってくるわ!!」
逃げるが勝ちという言葉を人生で最も強く意識しながら、正太郎が病室を後にしようとすると、
「如月正太郎!」
倉持の荒げた声が足を止めてくる。
逃げ出したいのに、恋人の兄としての威圧感がそれを許さなかった。
どう言い訳すれば、この窮地を脱せるのだろうか。
自分に妹が居た時の事を考えると、どんな言い訳をされても許せるものではない。
何を言っても無駄なら、何も言わない方が傷口を広げずに済みそうだ。
「その話はあとでな! 俺はもう行かねぇと――」
「美月の事、本当にありがとう」
――何故感謝する?
目の前で妹の命を奪った男に、何故礼を言える?
妹の人生を壊した男に、どうして頭を下げられる?
「何の礼だよ?」
倉持は破顔していた。
まるで花嫁を見送ったばかりの父親のように。
「お前と出会って、あの子は幸せだったんだな。幸せにしてくれてありがとう」
「恨まれる覚えはあるけど、感謝される覚えはねぇよ」
「感謝するさ」
――どうして?
「あいつの笑顔は、お前と居た時に見せたそれが本物だったんだ」
倉持は、いつでも暖かい笑顔で居てくれる。
まっすぐに見つめて好意を向けてくれる。
「グリムハンズであいつは相当苦労した。人には見えないものが見える。それを誰かに伝えずにはいられない」
グリムは、世界の真実を綴る力。
真実は、何時だって残酷だ。
全ての人間が耳を塞ぎ、無視している声に耳を傾け、人々に伝えなければならない。
グリムに選ばれるという事は、自身には二度と安寧が訪れない事でもある。
そしてグリムに、ワードを打ち倒す力は与えられない。
ただ真実を綴るだけで、真実に抗う術は持たない。
「お前が居たから、あいつはあいつで居られたんだ」
重責のなかにあっても美月は、笑顔を絶やさなかった。
「お前が居たから、あいつは幸せだったんだ」
太陽のように優しく輝き、周囲の人々を照らしていた。
「人並みの女の子らしい幸せを与えてくれたんだな。お前と一緒だから、自分の力を人助けに役立てられた。あの子にとって、お前の存在がどれほど救いになった事か」
美月に救われたのは、正太郎の方だった。
「ありがとう、正太郎」
礼を言うべきも正太郎の方だ。
「どんな時も、美月はお前に救われた」
美月が居るから幸せだった。
美月との思い出があるから心を折らずに、ここまで歩いてこられた。
「美月だけじゃない。お前は、世界を救った英雄だ。なのにお前は、未だに自分が世界を滅ぼしかけた大罪人だと思ってる」
そんな美月を育んだのが倉持健吾だ。
両親を亡くしながらも美月を立派に育て上げ、美月を失っても正太郎を許す聖人のような男。
あの妹にして、この兄あり。残酷な程の優しさが愛おしくもあり、痛々しくもある。
「お前も救われてくれ。俺にとってお前は、本当の弟なんだ。家族には幸せになってもらいたいんだ」
もう終わりにしよう。
正太郎が自分を許さない限り、倉持はいつまでも前に進めない。
「あんたを兄さんと呼びたかったよ。そう呼べる日が来たらいいなって思ってた。あんたの事、いい兄貴だって思ってたから」
如月正太郎から、倉持健吾を開放する時が来た。
「兄さん、大丈夫だよ」
傷跡は残っているけど、傷口は塞がっている。
「俺は、救われてるよ」
まだ時折痛いけれど、耐えられる。
今はまた、あの頃のように――。
「今も昔も俺は、いい仲間と知り合う運があるみてぇだ」
たくさんの素晴らしい出会いに恵まれた。
大切な人が大勢出来た。
「だから、兄貴としてのあんたに聞きたい事がある」
「なんだ?」
正太郎が倉持にぶつける最後のワガママだ。
この人ならどうするのか、どうしても聞いておきたかった。
「生徒達をどうするかだ」
沙月エリカ。
亀城薫。
悠木涼葉。
三人とも死地へと向かう正太郎を見送って、悲しみに暮れるなんて柄じゃない。
強引にでも隣を歩み、迫り来る脅威を嬉々として薙ぎ倒すような連中だ。
それは、無謀と勇気を履き違えた正太郎の蛮勇とは程遠い。
一人で死を覚悟して孤独に戦うのではなく、四人で力を合わせて、全員が生きて帰るために戦う。
正太郎も彼等と戦う方が、ウロボロス討伐の可能性が上がる事を理屈では理解している。
しかし、生徒達を神災級という規格外に立ち向かわせるには、躊躇いがあった。
「正太郎。お前は、連れて行きたくないんだろう?」
「ああ」
「それは何故だ?」
「元はと言えば、俺が撒いた種だ」
「違う。お前は、世界を救ったんだ」
「いや。これだけは譲れねぇ。俺の思慮の浅さが今回の事態を引き起こした。誰かにその芽を刈らせる真似はしちゃいけない。ましてそれが、大切な教え子達なら」
本来ならば自分の不始末は、自分でつけなければならない。
対価が命であろうとも、孤独に戦うべき宿命だ。
「でもあいつら、ついてきちまいそうな気がするんだ。俺がどこに行っても、何しても」
窓から外を見ると、青々と葉を茂らせる桜の一本木の枝に、カラスが一羽留まっていた。
背には親指姫を乗せており、正太郎と目が合うと手を振ってくる。
「どうやら一人で行かせてくれねぇらしい」
「なら答えは、決まってるな」
倉持は、正太郎の両肩を力強く掴んだ。
正太郎の抱く決意を握り固めるかのように。
「連れて行け。そして守れ。どんなにしんどくても辛くても、守り抜け。そう思ってるんだろう。なら背中を押してやる」
獅子のような険しさと、父のような慈愛を瞳に浮かべていた。
「俺は、彼等を連れて行くべきだと思う。だが勘違いするな。それは美月達への罪滅ぼしに苦しめと言ってるんじゃない。仲間を信じろと言っているんだ」
正太郎は、倉持の厚い胸板を右の拳で軽く突いてから、破顔する。
「ありがとう。今度酒、奢らせてくれ」
「映画じゃ、その台詞は死ぬ予兆だぞ」
「悪運にも相当縁があるんだよ」
もう二度と誰も犠牲にはしない。
決意を新たに正太郎は、病室を後にした。




