四頁:神災級
エリカの眼前に二十センチ程の鏡の破片が迫ってきている。
破片の向こう側には、赤黒い肉と埋め込まれた鏡の煌めき。顕現したワードの姿だ。
虚を突かれた。避けられない。
運命付けられたエリカの致命を拒むように、親指姫の背中が視界に割り込んでくる。
彼女は、小さな身体を盾に、鏡の破片を受け止め、
「涼葉さん!」
胴を貫かれた親指姫は、血煙と化して消え失せた。
涼葉と親指姫は、痛覚を共有している。
身体を串刺しにされる痛みは、ショック死を引き起こしかねない。
「この!!」
エリカを守るため、涼葉は、ためらいなく死の危険の前に飛び出したのだ。想いは、絶対無駄にしない。
でも能力を使えば、いたずらに被害を増やすだけだ。
今は顕現の影響で洗脳から解放された人々も、ガラスと接触すれば再び操られてしまうかもしれない。
童話研究会の主砲をエリカは自負している。
これが使えないとなると、どうやってワードと戦えばいい?
――どうしたら!?
勝利を謳うかのようにワードは一鳴きすると、鏡の破片を三枚、エリカに飛ばして来る。
けれどワードの攻撃がエリカに届く事はなかった。
正太郎のイバラが鏡を打ち落とし、続けて薫の血の犬がワードに食らい付いたのである。
「先生、決めてくれ!」
「任せろ!」
赤黒いイバラは知覚を許さぬ速攻で、ワードの身体を縛り上げると、急速に縮んで正太郎をワードの頭上へと運んだ。
「お前のあるべき姿へ戻れ!」
落下の慣性とグリムハンズの腕力によって、振るわれた特殊警棒が腐肉を切り裂き、鏡を打ち砕くと、異形は形を失い、水色の光球へと姿を変える。
正太郎は、白紙の文庫本を開き、光球をページに収めつつ、書店の様子を窺った。
ワードと洗脳された客が暴れたせいで、本棚は薙ぎ倒されており、床に散らばった本も踏み荒らされてぼろぼろに崩れている。
正太郎は、真っ青な顔で本の残骸を眺めていた。
「名作たちが……本がぁ……もったいねぇ……誰にも読まれる事なく紙屑って……可哀想に」
「先生どうしよう……これいくらするかな?」
「僕たちじゃ絶対弁償無理だよこれ……こういう時こそ部長が責任取るべきだね」
「私に投げるな!」
「がんばれ部長殿」
「がんばれない! 都合のいい時だけ部長扱いしないで!」
エリカの顔色が、雪の色が染みこんだように冷たくなっていく。
今回の惨事は、とてもではないが高校生に弁償出来る額ではない。
「とりあえず俺達は逃げるか」
正太郎の妙案に、エリカは驚きの声を上げた。
「え!? いいの?」
「ここに居ても厄介な事にしかならねぇからな。本は俺が全部買い取って、客や監視カメラの方は、あとで何とかする。涼葉の事も心配だしな」
確かに涼葉の様子は、気がかりだ。
エリカは、正太郎の提案を受け入れる事にした。
三人が書店から部室に帰ってくると、涼葉が濡らした白いハンカチを顔に乗せて、椅子に腰かけていた。
「涼葉さん!」
「悠木先輩!」
エリカと薫の呼び声に、涼葉はハンカチを取ると破顔して、安息の息を漏らした。
「みんな無事だったんだ。よかった」
「涼葉さんは!?」
涼葉は、腹を撫でながら苦笑した。
「貫かれた瞬間は痛かったけど、すぐに親指姫を消滅させたから。でも、エリカちゃんに怪我がなくてよかったわ。私の力も、少しは役に立てるのね」
「そうだよ!!」
エリカは、その場に膝を落として涼葉の右手を両手で握り締めた。
「涼葉さんが居てくれたから勝てたし、私は生きてここに居るんだよ。だけどね!」
涼葉が鏡に貫かれた瞬間、エリカの心も極寒に射抜かれた。
大切な仲間を失うかもしれない。あんな恐怖は、二度と味わいたくない。
「もう無茶しないで! 涼葉さんに何かあったら、みんなが悲しむし……私も悲しいから……」
「沙月さんと同感です。僕だって桃子の二の舞だけは……ごめんだ」
自己犠牲を肯定されるのだけは、まっぴらだ。
今までたくさん失ってきたからこそ、もう何も失いたくない。
このわがままだけは、貫き通したかった。
「涼葉さん。無茶しないで」
「エリカちゃん、薫君。ありがとう……」
涼葉は、エリカの両手をそっと握り返してくる。
「どれだけ出来るか分からないけれど、私も正式に童話研究会に入っていいかしら、部長さん?」
「もちろんだよ!! ねぇ先生――」
エリカが呼ぶも、答える声もなければ、正太郎の姿はなかった。
「あれ? 一緒に帰ってきたのに」
部屋を出て、廊下を眺めてみるが、やはり正太郎は、居ない。
「先生……」
涼葉が仲間になってくれた瞬間に正太郎が居てくれない事がエリカは、酷く寂しく思えた。
夕刻の紅が夜に染まる直前、灰かぶり猫のゼゾッラが出没した上谷区の図書館に、二人の男が居た。
一人は、如月正太郎。
一人は、もう白髪に重苦しいひげを蓄えたスーツ姿の壮年の男である。
「今回は、派手にやったな」
「なんとかなります?」
反省していない風の正太郎だったが、男は小さな笑い声を零した。
「なんとかするのが仕事だ。余所からも人手を借りれば、どうとでもなる」
「助かります」
正太郎が既に本が下ろされて空になった本棚を眺めていると、男は沈み込んだ声で言った。
「しかし……ワードの発生件数は増えるばかりだ。どうなって――」
「十年前に似てますね」
答える正太郎の声音には、強い悲しみと怒りの念が混ざっている。
「よしてくれよ正太郎。縁起でもない」
「あの一匹で、最後って事もないでしょう」
「じゃあお前は――」
「神災級の再来。もしもそうなったら俺が仕留める」
正太郎の宣言に、男が狼狽する。
「またお前がやるのか!?」
「今度は上手くやります。十年前とは違う。犠牲を出さずに確実に」
正太郎は、拳を握りしめると、肉の軋む音が静寂を犯していく。
男は、正太郎の肩を叩くと、出口に向かった。
「すまん。配慮が欠けていた」
「いや、実際俺は……」
「言うな」
男は、正太郎の声を遮った。
彼の心遣いに、正太郎は自嘲を浮かべる。
「すいません。気を遣わせて」
「構わんよ正太郎。また連絡する」
「ええ。それじゃあまた徳永刑事部長」
一人残された正太郎は、人差し指を噛み切り、イバラを作り出すと、
「俺は……」
酷く恨めしげに眺め続けた。